波 2017年9月号

新潮選書50周年特別企画]

選書著者が答える「私にとって選書とは何か?」

単行本でもない、新書でもない、学術書でもなければ文庫でもないブックシリーズ。 編集部でもはっきり定義できない器ですが、この際、新潮選書の著者7人に伺ってみました。
あなたにとって選書とはどのようなものですか? そしてそのイメージに合う新潮選書を1冊挙げてください――。

※筆者名は50音順

SNS時代こそ選書の出番(池内恵/東京大学准教授)

 選書こそが出版の将来を切り開く鍵だと思う。書店の選書の棚に自著が何冊あるかが、専門的な分野の書き手にとっては、研究成果を社会に伝えるチャンネルをどれだけ確保しているかの目安になる。選書は「器」としては単行本とほぼ同じで、学術書から随筆まで収められる。大きな地図を入れても注を詳細につけてもいい。しかし単行本より即応性が高く、値段も抑えられる。SNSなどでその分野の問題への関心が高まったその時に、専門知識を読者の目につきやすいところに、そっと置く。インターネット上にあらゆる情報が置かれ、SNSで瞬時に評判が伝わる現在だからこそ、選書の意義が高まる。SNSでやり取りされるのは際限のない情報の断片だ。以前よりはるかに多くの情報を得られる代わりに、断片を総合して全体像を見通すことは誰にも容易ではない。
 そこで選書の出番だ。需要が高まった瞬間に、議論の叩き台を提供し、選択肢を示す。その有無で民主主義社会の行く末は大きく変わる。筆者は昨年、「中東大混迷を解く」シリーズの第1巻『【中東大混迷を解く】 サイクス=ピコ協定 百年の呪縛』を刊行した。中東が焦点になった時にはいち早く続巻を世に出す。その器として新潮選書は最適だと思っている。
 国際政治学者の細谷雄一氏も、戦後70年の一昨年7月末に出した『歴史認識とは何か―日露戦争からアジア太平洋戦争まで―』を「戦後史の解放I」と謳い、メディア上の歴史認識問題にまつわる議論をあるべき方向に戻そうと孤軍奮闘している。競ってシリーズを成長させていきたい。


大学教科書と新書の間で(池澤夏樹/作家)

 教養とか啓蒙とかの本には硬さに応じていくつかの段階がある。いちばんかっちりしていて無愛想なのが大学教養課程の教科書で、いちばん柔らかいのが新書。その一つ手前あたりが選書だろう。新書ほど読者に媚びないところが大事。イギリスで言えば、Pelican Booksなどがこれに当たるか。あの青い装丁の本を昔はずいぶん読んだ。
 ぼくにとっては鈴木孝夫の『閉された言語・日本語の世界【増補新版】』などが選書の典型になる。初版は1975年だからもう40年以上も前だが、世界の言語状況の中で日本語を客観的に捕らえるという視点の新鮮さは今も変わらない。とりわけ漢字と仮名を併用する表記の利点を書いた部分は画期的だった。ぼくはこれで自分の日本語観を確立したと今になれば思う。似た例を他に探すと、(選書の体裁ではないが)飯塚浩二の『東洋史と西洋史とのあいだ』(岩波書店)があった。こういう本でぼくは日本を相対化できた。


何が残るのかを見抜く力(猪木武徳/大阪大学名誉教授)

「選書」とは、読者、編集者、あるいは同業者たちから選ばれた本という意味だろう。だが改めてカタログを見ると、文字通り多種多様で選定の基準がどうもはっきりしない。ターゲットとする読者層、「単行本」との違いもよく分からない。準古典になるだろうなと予感させる本、ナマモノを扱っていても本質をつかむ迫力のあるもの、要するに「残るもの」ということだろう。それを選ぶためには、何が残るのかを見抜く力が必要になる。それが難しい。高坂正堯氏の作品はわたしの知的関心を大いに刺激してくれた。芸術分野では、フルトヴェングラーやカラヤンの関係者のインタビュー集(川口マーン惠美証言・フルトヴェングラーかカラヤンか』)も面白かった。だが、忘れたころに開いて、沁みとおるような気持ちが味わえる1冊は、東山魁夷風景との対話』だ。著者も認めるこの「物憂い独白」は、立派な芸術家にとって反時代的であることがいかに大切かということを改めて教えてくれる。


アカデミア業界人の文化的側面を炙り出す(大河内直彦/地球科学者)

 私にとって選書とは、科学と文化が出会うところ。科学者は、一般の人々に想像されている以上に、個性的で多芸な人が多い。しかし非常に閉じた世界だけに、それが世間に披露される機会はほとんどない。アカデミアの世界の中だけで閉じているのはもったいないと思うことも多いし、そもそも多様性のある社会を目指すなら、まずは社会に潜んだ多様性をきちんと白日の下に晒すところから始めるべきだ。つまり選書とは、このアカデミア業界人の中に潜む文化的な側面を炙り出し、公けにする仕掛けのひとつである。
 そんな意味で、もっとも典型的な例が西成活裕さんの『渋滞学』。ご存じの通り、各地で起きるさまざまな渋滞を統計数理で解き明かした快著である。視点がユニークであるにもかかわらず、いろんな所で役立つという優れた実例でもある。西成さんご本人も非常に個性的な方である。


新書と選書はどう違う?(片山杜秀/慶應大学教授)

 私の勝手な定義では、新書とは新しく・・・ その道に入門したい人のための書。何も知らずとも取り付くことのできる本。新人向けの教養書。だから廉価でコンパクト。内容も平易。では選書とは? ますます勝手な定義をすれば、教養書よりも専門書に近い。その道を少しは知る人がもっと深入りするための本。しかし、普通の専門書よりも、ぐっと噛み砕かれている。専門書の領域から選ばれて・・・・教養書の世界に降臨してくる本。だから新書よりも少し高価でかさもある。中身も新書より骨があるのが当たり前。まさにそういう選書と出会えたのは、私が高校3年生の1981年の新潮選書の新刊、高坂正堯の『文明が衰亡するとき』。あの頃の日本には倦怠感と衰退への不安の念が蓄積されていた。それは結局、第三次世界大戦による人類滅亡のヴィジョンに集約されるのか。いや、そんな劇的なものでなく、もっとじわじわと蝕ばんでくる何かがある。そう漠然と思っていたら、その何かをすべて、深く染み渡るように諭してくれた。大戦争が来なくても滅びるときは滅びる。名著!


手堅い実証と現代への問いかけ(苅部直/東京大学教授)

 新潮選書と同じような判型・造本の叢書の前例として、1963年創刊の筑摩叢書と、翌年に生まれたNHKブックスがあった。後者は初期にはおそらく放送講座との関連が深く、実用書や学問の概説書を中心にしていたから、性格がずいぶん異なる。前者も60年代までは柳田國男や平野謙といった大物の学者・文学者の著作の再刊が中心である。これに対して新潮選書は書き下ろしの著作で、しかも大家だけでなく、高坂正堯、西尾幹二江藤淳といった、刊行時にまだ30歳代だった学者や評論家にも執筆を依頼している。
 確固とした学問・知見の蓄積を背景にしながら、同時代の課題に正面からむきあい、オリジナルの言葉で勝負する書物。それがこの選書の特徴なのだろう。秦郁彦慰安婦と戦場の性』はその代表と言える。精密な叙述が慰安婦問題にとどまらず公娼制度の一般にも及び、刊行後ただちに英訳されていれば国際社会にも衝撃を与えたと思われる一冊。


一点集中で、井戸のように深い(椎名誠/作家)

 僕は今まで、文庫本を抜かして、およそ250冊の本を出してきました。その中で、実は選書を3冊も出しているんです。『「十五少年漂流記」への旅』『水惑星の旅』、それと今年の6月に出した『ノミのジャンプと銀河系』。新潮選書だけですけど(笑)。新書は主に岩波新書から、『活字のサーカス 面白本大追跡』他、3冊。ブックガイド風のエッセイで、けっこう版を重ねました。
 選書と新書が単行本とちがうのは、個人の深い思いや、特に長きにわたって身の内に堆積していたテーマに向かって、かなり個人の感情をむき出しに書いても許されることでしょうか。つまり、テーマが一点集中で、井戸のように深いイメージ。選書の場合、それがより色濃い。だから書いていても、これは選書なんだから、ずんずん進んじゃっていいだろうみたいなカタルシスがある。
『ノミのジャンプと銀河系』も、科学を切り口にした初めてのエッセイで、連載中しんどいこともあったけど、ワンテーマなので開き直れて気持ちよかったですね。

(談)

波 2017年9月号より