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ウェブだけでロングバージョンが読める!〈村上春樹 特別エッセイ〉「こんなに面白い話だったんだ!」

 訳者としては、これからも時代を超え、この『フラニーとズーイ』が、古典として、また同時代的な意味を持つ作品として、長く読み継がれていくことを望む。若い読者には若い読み方ができるし、成熟した読者には成熟した読み方ができる、きわめて優れた質を具えた文芸作品であると信じている。ナイーヴであると同時に技術的にはきわめて高度な、原理的・根源的であると同時にどこまでも優しい魂を持った魅力的な小説だ。丁寧に描き込まれた印象的な細部には、思わず心を奪われてしまう。いたるところに、そのあらゆる隅っこに、まるでだまし絵のように隠喩が潜んでいる。小説好きの人なら人生の中で一度、あるいは二度、読んでみるだけの、それもゆっくり時間をかけて読んでみるだけの価値のある希有な作品だ。本の大半を占める『ズーイ』の章に登場する素敵な人物たちは──猫のブルームバーグをべつにすればたった三人だ!──うまくいけばきっといつまでも、血肉を持つものとしてあなたの心の中に残り続けることだろう。

村上春樹

フラニー

「彼のことは好きよ。私は自分がただ人を好きになることに、うんざりしているの。ほんとの話、尊敬できる人に出会えたらいいのにって思うわ……。ねえ、ちょっと失礼していいかしら」。フラニーはハンドバッグを手に、突然立ち上がった。 p37

そしてその他にも、深刻な問題を抱え込んだ若い娘特有の、もっと微妙なしるしがいくつか見受けられた。しかしそれにもかかわらず、彼女が第一級の美人であることは、誰にも見逃しようがなかった。肌は美しく、顔立ちはほっそりして繊細で、人目を惹いた。 p181-182

しかし彼女は少しだけブルームバーグを近くに引き寄せ、奇妙な、意味のはっきりしない軽い抱擁をした。それから兄のいる方を見た。そして言った。「ねえ、あなたって親切な妖精みたい。そのことは知ってた?」 p229



ズーイ

「まったくなあ」とズーイは言った。「世の中には素敵なことがちゃんとあるんだ。紛れもなく素敵なことがね。なのに僕らはみんな愚かにも、どんどん脇道に逸れていく。そしていつもいつもいつも、まわりで起こるすべてのものごとを僕らのくだらないちっぽけなエゴに引き寄せちまうんだ」 p219

「しかし急いでとりかかった方がいいぜ。砂時計の砂は、君が向きを変えるごとにどんどんこぼれ落ちていく。嘘じゃない。このろくでもない現象界で、もし君がくしゃみをする時間でも見つけられたら、それはまさに幸運というものだ」p286

「……アーティストが関心を払わなくちゃならないのは、ただある種の完璧を目指すことだ。そしてそれは他の誰でもない、自分自身にとっての完璧さなんだ。他人がどうこうなんて、そんなことを考える権限は君にはないんだ。本当にその通りなんだぜ。そんなことにいちいち頭を使うべきじゃない。僕の言いたいことはわかるかな?」 p287



『フラニーとズーイ』
J.D.サリンジャー 村上春樹・訳

アメリカ東部の名門大学に通うグラス家の美しい末娘フラニーと俳優で五歳年上の兄ズーイ。物語は登場人物たちの都会的な会話に溢れ、深い隠喩に満ちている。エゴだらけの世界に欺瞞を覚え、小さな宗教書に魂の救済を求めるフラニー。ズーイは才気とユーモアに富む渾身の言葉で自分の殻に閉じこもる妹を救い出す。ナイーヴで優しい魂を持ったサリンジャー文学の傑作。──村上春樹による新訳!

新潮文庫 ISBN:978-4-10-205704-9 発売日:2014/03/01 781円(定価)

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