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辻邦生全集 12 フーシェ革命暦 II・III

辻邦生/著

7,700円(税込)

発売日:2005/05/25

  • 書籍

辻邦生の遺した豊饒な物語世界――。その全容を明らかにする初の本格的全集。

バスティーユ襲撃、ヴェルサイユへの雨中行進……フランス革命に至る社会の底流、歴史の複雑な生命的動きを、政治家フーシェの眼で描き尽くそうとする野心的巨編。未完に終った幻の第III部を収録。

目次
フーシェ革命暦 II
第一章 遠い雷鳴
第二章 パリの風雲
第三章 困難な船出
第四章 黒い渦
第五章 ヴェルサイユの迷宮
第六章 バスチーユの黒い影
第七章 残酷な夏
第八章 死の舞踏
第九章 夜明け前の歌
第十章 パリは燃えて
第十一章 炎の中の道

フーシェ革命暦 III
第一章 バスチーユのあとで
第二章 破船のゆくえ
第三章 嵐はやまず
第四章 夏のあらし
第五章 女たちの行進
第六章 雨に打たれた長い夜
第七章 セーヌを閉ざす深い霧
解題

書誌情報

読み仮名 ツジクニオゼンシュウ12フーシェカクメイレキ02・03
シリーズ名 全集・著作集
全集双書名 辻邦生全集
発行形態 書籍
判型 菊判
頁数 744ページ
ISBN 978-4-10-646912-1
C-CODE 0393
ジャンル 全集・選書
定価 7,700円

書評

波 2005年6月号より 密偵としての読者  辻邦生『辻邦生全集 11 フーシェ革命暦 I』、 『辻邦生全集 12 フーシェ革命暦 II・III』

堀江敏幸

 齢六十を超えたひとりの男が、燭台の火だけを頼りに手記を綴っている。夜明けの気配を感じてしばし手を休め、白い紙から頭をあげて窓の向こうに目をやれば、冬のアドリア海が拡がっている。一八二○年、流謫の地トリエステ。フランス革命の裏面をしたたかに生き抜いた政治家ジョゼフ・フーシェの長大な回想録が、こうして幕を開ける。
一七五九年、ナントの富裕な船主の家に生まれたフーシェは、オラトリオ派修道院付属学校に学んで教職を得るのだが、大革命の激動と足並みをあわせるように頭角をあらわし、一七九二年、国民公会の議員として選出されたのち、恐怖政治の推進者となった。やがて盟友ロベスピエールと対立、この過激な清廉の士による糾弾をすんでのところでかわし、逆に相手を断頭台に送り込んだかと思うと、今度は王党派に身を寄せながらルイ十六世の処刑に票を投じ、ナポレオンが総統となるやその下で警視総監となってフランス全土に密偵を送り込み、ありとあらゆる情報を収集、党派を超えての、隠然たる権力を握った。皇帝ナポレオン没落後は王政復古のなかで身を持し、ルイ十八世によって国外追放の身とされるまで、ジョゼフ・フーシェは、シュテファン・ツヴァイクに変幻自在の「冷血動物」と評された、あの変わり身の速さをもって、浮き沈みの激しい波瀾の政治人生を送った。
辻邦生の「フーシェ革命暦」は、こうした人物像を崩そうとする壮大な試みだと言っていいだろう。壮大な、と述べたのは、ほかでもない、本書が原稿用紙四千枚におよぶ大長篇だからであり、それを試み、と受けたのは、足かけ十六年にわたって書き継がれながら、三部構成の第III部だけが六百枚ほどで中断されてしまったからだ。第I部、第II部は、「文學界」一九七八年一月号から一九八九年四月号まで連載され、フランス革命二百周年にあたるこの年の七月に刊行されているのだが、第II部はまさしく二百年前の七月十四日、国王と特権階級へ不満を募らせたパリ市民の一部がバスチーユ監獄を襲撃し、司令官と市長を惨殺するまでの長い一日で閉じられており、作品の主題と時期を考慮すれば、たしかにみごとなまとめになっている。
ただし、この第II部終了の段階では、フーシェはいまだ修道院に属する一介の教師にすぎず、「政治家」にすらなっていない。神に仕える身でありながら、その神の摂理を崩しかねない化学実験に打ち込むという矛盾を堂々と引き受け、読書から得た知識と知友からの情報をもとにして、僧院の外で起きつつある事象を客観的に分析することに、ようやく大きな意味を見出しはじめたところである。フーシェがフーシェとして表舞台に出るためには、さらなる時間と紙幅が必要だった。
しかし、その待望久しい第III部は、一九九一年秋から九三年夏まで七回にわたって書き継がれたあとなぜか中断され、今回の全集に収められるまで単行本にもなっていなかった。これが決定的な放棄なのか一時的な休止なのか、作者はその理由もふくめて、公にはなにも語っていない。外的な要因を挙げようと思えば挙げられるだろうけれど、長篇執筆の過程で生身の小説家におきた精神の化学変化がどのようなものであったか、余人がいくら想像しても詮ないことだ。
もっとも、フーシェがフーシェとしての自分を意識するまでの重要な精神形成は、アラスの僧院に属していた時代でほぼ終わっていることも確かで、そこまでをきちんと語っておけば、あとの事変における対応は、彼の行動原理と「革命の生理的メカニズム」を見通す眼力によって、ある程度までは予測が可能になる。出世、昇進とは異なる視線の権力。見えない力の平行四辺形をつねに維持する情熱。少なくとも作者は、その原理にのっとって、周到に虚構を配置していく。蒼白く、神経質で、しかも醜かった、とツヴァイクにあっさり片づけられた少年時代や修道士時代の姿が丁寧に肉付けされ、生き生きと描きこまれているのは、ここにこそ政治家フーシェの核があり、物語を推し進める原動力が隠されていると作者が判断したからだろう。
物語は、歴史の胎動にあわせて、長篇ならではの動的な緩慢さと、大胆な時間の省略による加速とのバランスをとりながら進んでいくのだが、第II部後半、バスチーユ襲撃を控えた一ヶ月ほどの記述は、一人称の語りを保持しつつさまざまな見聞にフーシェ自身の観察結果を重ねて、じつに多声的な、ほとんど歌劇を思わせるできばえになっている。一般人には近づけない政治の渦の中心部付近からもたらされる超のつく貴重な情報をふくめ、多様な声を「正当に」聴き取るために、作者は虚構の密偵を嬉々として動かす。裏の裏を読み、先を見越して、どちらに転んでもいいようなあざとい手を打ち続ける徴税請負人にして銀行家、というより政界の黒幕といってもいい老プロンと、プロンが惚れ込み、手塩にかけて育てた大革命時代の《マイ・フェア・レディ》とも呼ぶべきミュリエル、そして、ミュリエルのもとで変幻自在の活躍を見せ、詳細な報告を送ってくる「くの一」風のマリ。
これら親しい人々のなかで、のちに警視総監となるフーシェのひな形はもうできあがっている。伝聞だけを頼りとするアームチェア・ディテクティヴから、群衆のなかにまぎれて行動する私立探偵に彼は近づいていく。そこにいるのにいない、いないのにいる、という文字通り「亡霊」としての自分をつくりあげながら、その「亡霊」を突き動かしている最も深い動機が、幼少時代の友人の命をあっけなく奪った封建制度ゆえの不条理な「重し」に対する嫌悪にあったのだと悟るまでの心理を描くことで、辻邦生はフーシェを、いわば温血動物に変えていくのだ。
血の通いはじめたフーシェは、こんな回想録を誰が読んでくれるだろうかと自問しつつ、心の底では誰かが読んでくれることを夢見ながら語りつづける。ところが、フーシェの手記は、作者が「フーシェ革命暦」と題された作品全体を中断してくれたおかげで、二重の仕掛けを獲得することになった。偽書の疑いもあるフーシェの『回想録』(一八二四)にはよらず、強靭な想像力によって史実を補強し、かつそれを超えようとする小説家の挑戦が道半ばで絶たれたことは、作中人物であり語り手でもあるフーシェそのひとの試みの中断をも意味するからだ。書きあげられぬまま放り出された草稿を、いったい誰が読んでいるのか? また、草稿は活字に起こされ、現実に刊行されているのか? 書きかけの手記と書きかけの小説の重層。辻邦生が第III部の冒頭で筆を擱いたのは、もしかすると、全体の鳥瞰を完璧になしとげるより、ある種の謎を抱えたまま中断したほうが、フーシェの性格をよりきわだたせることになると判断したからでないか?
だから、「フーシェ革命暦」を安易に「未完」とするわけにはいかないのだ。もとより辻邦生は、創造の世界に没入する前段階で、物語の見取り図と創作ノートをきちんと用意しておくタイプの書き手だった。七月十四日以後の展開もはっきり見えていたはずだから、当初予定されていたテルミドールのクーデターまでと言わず、遠くトリエステに至るまでの生涯をフーシェに憑依した作家の筆で読みたかったとの想いは、無責任な読者のないものねだりというわけでもないだろう。しかし、積み重ねられた四千枚のなかには、まるで見てきたように鮮やかな少年の思い出があり、複雑怪奇な誘拐事件があり、緻密な法廷劇があり、あっと驚く策謀があり、「所有」と「非所有」をめぐる深い議論があり、そして冷血動物の通説を覆す恋の萌芽がある。革命を見渡す全体小説の魅力は、現状でも申し分ないほどたっぷりそなわっているのだ。カメレオン的な変わり身を見せたとされる政治家フーシェのその後は、私たち読者が彼の行動をたどる軽やかな密偵となって、共に作りあげていけばいいのである。

(ほりえ・としゆき 作家)

著者プロフィール

辻邦生

ツジ・クニオ

(1925-1999)東京生れ。1957(昭和32)年から1961年までフランスに留学。1963年、長篇『廻廊にて』を上梓し、近代文学賞を受賞。この後、芸術選奨新人賞を得た1968年の『安土往還記』や1972年に毎日芸術賞を受けた『背教者ユリアヌス』等、独自の歴史小説を次々と発表。1995(平成7)年には『西行花伝』により谷崎潤一郎賞受賞。他の作品に『嵯峨野明月記』『春の戴冠』等。

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