新潮社

試し読み

コロナに寄せて──新しいまえがき

 今あなたが手にしている本は人間の脳はデジタル社会に適応していないという内容だ。昨今のコロナ危機で、スマホが外界とのライフラインになった今、読むべき本なのだろうか。
 そんな今だからこそ読むべきだ、と私は思う。まずは最初から説明させてほしい。
 現在、大人は1日に4時間をスマホに費やしている。10代の若者なら4〜5時間。この10年に起きた行動様式の変化は、人類史上最速のものだ。それにはどんな影響があるのだろうか。本書『スマホ脳』では、その点を突き詰めたかった。そして私は科学の力に頼ろうと決めた。これまでの研究で、デジタル社会についてどんなことがわかっているのだろうか。私たちの心の健康にどんな影響があるのか。睡眠や集中力への影響は? 子供や若者には? 学校教育は? 憶測や主観的な意見ではなくて、ちゃんと研究結果が出ている点はあるのだろうか。
 まず気づいたのは、人間はスマホの使用時間云々よりもはるかに大きな問題に直面しているということだ。私は精神科医なので、精神的不調で受診する人がますます増えていることには気づいていた。スウェーデンではなんと、大人の9人に1人以上が抗うつ剤を服用しているし、同様の統計が多くの国で見られる。この増加は、ここ数十年で私たちが裕福になり、GDPが上昇するにつれて起きた。良い暮らしができるようになったのにむしろ不健康になるなんて、いったいどういうわけだろうか。
 本書『スマホ脳』は、その矛盾を理解しようとする過程で生まれた。なぜこれほど多くの人が、物質的には恵まれているのに、不安を感じているのだろうか。今までになく他人と接続しているのに、なぜ孤独を感じるのか。それが次第にわかってきた。答えの一部は、今、私たちが暮らす世界が人間にとって非常に異質なものだという事実だ。このミスマッチ、つまり、私たちを取り巻く環境と、人間の進化の結果が合っていないことが、私たちの心に影響を及ぼしているのだ。
 自動車や電気やスマホは、あなたや私にとってごく自然な存在だ。それらがない世界なんて、今では考えられない。しかし今のこの社会は、人間の歴史のほんの一瞬にすぎない。地球上に現れてから99・9%の時間を、人間は狩猟と採集をして暮らしてきた。私たちの脳は、今でも当時の生活様式に最適化されている。脳はこの1万年変化していない──それが現実なのだ。生物学的に見ると、あなたの脳はまだサバンナで暮らしている。
 だからどうなんだ、と思うかもしれない。森に引っ越して、シカを狩って暮らせとでもいうのか? そう、そんなのもちろん無理だ。それでも、生物学的にはサバンナの時代から変わっていないという事実が、重要な鍵になる。なぜ人間に睡眠運動の必要性、それにお互いへの強い欲求が備わっているのかを理解するために。
 こうした欲求を無視し続けると、精神状態が悪くなる。しかし、私たちは年々その事実に目を背けているようなのだ。睡眠時間は減っており、先進諸国のほとんどで、睡眠障害の治療を受ける若者がこの10年で爆発的に増えている。例えばスウェーデンでは、眠れなくて受診する若者の数が2000年頃と比べて8倍にもなった。

次のページ 

 身体を動かす機会も減り、昔のような形では人と会わなくなった。多くの人──特に若い人が、以前よりも孤独を感じている。新型コロナで外出を控えるようになるずっと前から。
 睡眠、運動、そして他者との関わりが、精神的な不調から身を守る3つの重要な要素だ。それは研究でもはっきり示されている。それらが減ると、調子が悪くなる。守ってくれる要素がなくなるからだ。だから生活は快適になったのに、なぜ精神状態が悪くなるのか理解できるようになる。
 現代社会と人間の歴史の「ミスマッチ」が重要な鍵になるのは、人間の心の状態だけではない。例えば、コロナ危機を見てみよう。地球全体が2020年の春で止まってしまったかのようだが、私たちはなぜこんなに激しくウイルスに反応するのだろう。
 もしあなたがウイルスが心配で眠れなくなるタイプなら、先進諸国でもっとも多い死因である癌や心臓発作についても心配でたまらないはずだ。だが歴史的な視野で見ると、人間の命を奪ってきたのは癌や心臓発作ではない。地球上に現れてから99・9%の時間、飢餓や殺人、干ばつや感染症で死んできたのだ。
 つまり、人間の身体や脳は、癌や心臓発作から身を守るようにはできていない。そうではなく、飢餓や干ばつ、感染症から身を守れるよう進化してきた。私やあなたの脳の得意分野はそこなのだ。その類の苦難を生き延びてきた人間の子孫なのだから。
 生き延びることを考えたとき、飢餓はとてつもなく恐ろしい脅威だった。だから人間はカロリーを強く欲するよう進化してきた。運よく高カロリーの珍しい果実を見つけたら、すかさず食べろ──祖先はそんな衝動に突き動かされてきたのだ。しかし、カロリーが実質無料のような今の世界で、そんな衝動があるのは非常にまずい。世界中で2型糖尿病や肥満が伝染病のように蔓延した理由がよくわかる。

 では、新型コロナウイルスと人間の脳はどう関係があるのだろうか。人間の身体は、大勢が感染症で亡くなるという現実に基づいて進化した。例えば素晴らしい免疫システムを発達させたのもそのひとつだ。それに、感染を回避する行動も身につけた。ウイルスや細菌が身体に入らないように予防するのは、入ってしまってから対処するのと同じくらい重要なのだから。
 相手を見ただけで病気だと察知する能力も、そのひとつだ。さらには、感染した人の情報を欲する衝動も持っている。誰と距離を置けばいいのか。そういう情報は命にかかわるほど重要だったのだから。
 だから、ニュース速報を見るのをやめられない。コロナ危機の間、テレビやパソコン、スマホから一日中情報が入ってきた。世界の隅々から感染者数や死者数の報告が届き、まるでニュースの竜巻のようだ。その結果、多くの人が途方もないストレスを感じるようになった。
 このような危機においては、デジタル機器は重要なツールだ。リモートで仕事をしたり、会わずして友達や家族と連絡を取ったりすることができる。私にとっても、スマホはライフラインだ。アパートでの自粛生活中も、スマホが壁の向こう側へと世界を広げてくれた。でなければ、日に日に壁が迫ってくるような気分だった。

次のページ 

 前のページ

 コロナ危機において、デジタルツールは外の世界との架け橋のようなものだ。だが、問題を引き起こすこともある。現在は、噂や陰謀論がSNSを通じてウイルスよりも速いスピードで拡散される。噂の感染拡大は危機における極めて自然な副産物だが、昔は少人数の間で広まるだけだった。それが今では数時間のうちに何百万人にも届く。あまりに大規模な偽情報の拡散に、世界保健機関(WHO)が「私たちは ウイルスの感染拡大パンデミックに付随して、インフォデミックにも襲われている」と注意を呼びかけたほどだ。
 偽情報に対して、なぜ人間はこれほど脆弱なのか。それに対して、私たちはどんな手を打てるだろうか。本書『スマホ脳』では、そういった問いも取り上げている。
 また、スマホやその他のデジタル画面を見ている時間、つまりスクリーンタイムについても取り上げた。実はこの本を書いたのには個人的な理由がある。1年前、自分が毎日スマホに3時間近く費やしていることに気づいてショックを受けたのだ。3時間もだなんて!
 時間の無駄だとわかっていても、私たちはスマホを手放すことができない。ソファに座ってテレビのニュースを観ていても、手が勝手にスマホに向かう。本を読むのは昔から好きだったのに、集中するのが難しくなった。集中力が必要なページにくると、本を脇へやってしまう。そういう経験があるのは私だけではないはずだ。
 研究を通して見えてきたのは、いい加減な設定のパソコンがハッキングされやすいのと同じように、私たちの脳もハッキングされる可能性があることだ。賢い企業はとうにそれをやってのけている。私たちの注目を奪う製品を生み出すことによって。ポケットからスマホを取り出すたびに、自分の意思で取り出したと思っているならそれは大間違いだ。フェイスブックやスナップチャット、インスタグラムを運営する企業は、私たちの脳の報酬系をハッキングすることに成功したのだ。10年で全世界の広告市場を制覇したほどの成功ぶりだ。こうした企業が使う手口については、本書の第6章で詳しく学んでほしい。

次のページ 

 前のページ

 新しいテクノロジーに適応すればいいと考える人もいるが、私は違うと思う。人間がテクノロジーに順応するのではなく、テクノロジーが私たちに順応すべきなのだ。フェイスブック他のSNSを、現実に会うためのツールとして開発することもできたはずだ。睡眠を妨げないようにも、身体を動かすためのツールにも、偽情報を拡散しないようにもできたはずなのだ。
 そうしなかった理由──それはお金だ。あなたがフェイスブックやインスタグラム、ツイッター、スナップチャット[訳註:日本でのメッセージアプリの主流はLINEだが、欧米で最大のユーザ数を誇るのはフェイスブックのメッセンジャーで、10代に人気なのがスナップチャット]に費やす1分1分が、企業にとっては黄金の価値を持つ。広告が売れるからだ。彼らの目的は、私たちからできるだけたくさんの時間を奪うこと。あなたや私の注目を巡る軍拡競争の中で、さらに技術が向上する。こうして私たちは、ますます多くの時間をSNSに費やすようになる。そして、別のことをする時間がますます減っていく。
 テクノロジーは様々な形で人間を助けてくれるし、もちろんこれからも存在し続けるべきだ。だが一長一短だということを覚えておかなくてはいけない。そこで初めて、心身ともに健康でいられるような製品を求めることができるのだ。金儲けのために人間の特質を利用するのではなく、もっと人間に寄り添ってくれるような製品を。
 つまり私たちは人間の基本設定を理解し、デジタル社会から受ける影響を認識しなくてはいけない。本書がそこに貢献ができるよう願っている。

 2020年4月17日

アンデシュ・ハンセン

 前のページ