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人間の往生―看取りの医師が考える―

大井玄/著

792円(税込)

発売日:2011/01/17

  • 新書
  • 電子書籍あり

【ロングセラー】『「痴呆老人」は何を見ているか』から3年、さらに深く――。「終末の質」から、「生の意味」を問う。

自然や人とのつながりを忘れ、病院の中に死を遠ざけるうちに、日本人は死の全身的理解を失ってしまった。クオリティ・オブ・ライフ(QOL)の根幹をなすクオリティ・オブ・デス(QOD)の悪化をかえりみず、健康維持や抗加齢ブームにとらわれるのはなぜなのか……終末期医療に取り組みつづける医師が、在宅看取りの実際と脳科学の知見、哲学的考察を通して、人間として迎えるべき往生の意義をときあかす。

目次
一 家で死ぬ意味
さまざまな逝き方/逝く者と看取る者/タヒチの自然、死の実感/死の全身的理解
二 大往生の回復
「ぶよぶよ死体」/病院は「往生」の場所か/高齢者の選択/「老衰」はあるのか/平穏な死とQOD/「大往生」を取り戻す
三 進行がん告知
医師の意見、家族の反対/アメリカ発の生命倫理/がん治療の情報と選択/個人志向か関係志向か/治るであろう病者の役割
四 医者と芸者
「する医療」から「いる医療」へ/医療の場の格差/「患者さま」は戦略的エラー/医療者が「志」を失うとき/吉田富三先生へ
五 一人称のがん
事実とそぞろな思い/医療は確率論/手術と後遺症/死のひとつの意味
六 在宅看取りの不安
慰めとも、激励ともつかぬ……/看取り支援の三原則/お祖父ちゃんを「餓死」させないで/まだ貴女の番は来ていません
七 作り話
程度の異なる嘘と誇張/作り話は脳の常/「自由意志」はあるのか/謙虚な「精神」にもどるとき
八 「わたし」はどこに宿るのか
幽体離脱をめぐって/心霊現象への脳科学的知見/物心二元論という世界仮構
九 老いと「意味の世界」
ヒトとチンパンジーはどこが違うか/「意味の世界」という仮構/心地よい「意味の網」/老いと終末期の意味/抗加齢といういじましさ/亡き先祖とつながる/想いを紡いだ網の中で
十 野垂れ死にも悪くない
「生きるのはもう沢山」か/居場所の感覚/機能の喪失を補う能力/生かされる辛さ/存在と超越/それぞれが宇宙の中心/「野垂れ死に」の心的力動
十一 「意味の世界」を落ち着かす
共有されない仮想現実/「不安」への対応/サイコドラマの世界/「意味の世界」が安定するとき/人生を表彰する
十二 ある地域医療医の死
手薄な地域医療/「無医村に行きたい」/大学紛争で拘置所へ/原動力は惻隠の情/泥濘を這った「赤ひげ」
十三 祈りとつながり
存在判断と価値判断/「神」の文化的進歩/生き生きした心的体験/アーラヤ識と脳/イメージと共感/朱に交われば赤くなる/仏やイエスへの同化
十四 終末期医療医の見る「時」
変わる世界認識/死者への親しみ/絶対時間と主観的時間/円を描きつながる「時」/エネルギーと寿命/存在・時間・エネルギー/道元の「有時」/無常と永遠の時間感覚
あとがき
註記・参考文献

書誌情報

読み仮名 ニンゲンノオウジョウミトリノイシガカンガエル
シリーズ名 新潮新書
発行形態 新書、電子書籍
判型 新潮新書
頁数 224ページ
ISBN 978-4-10-610403-9
C-CODE 0210
整理番号 403
定価 792円
電子書籍 価格 660円
電子書籍 配信開始日 2011/07/08

書評

波 2011年2月号より 人生を降る道程にて

大井玄

暮にアメリカの大学で研究生活を続ける友人から便りがあった。彼は「多形性神経膠芽腫」という脳の悪性腫瘍に有効な薬を開発しようとしている。ちなみに、一昨年夏この腫瘍によりエドワード・ケネディ上院議員が死んで、アメリカの民主党は議会勢力の危ういバランスを崩した。
友人は熱心なクリスチャンで、日本の終末期医療を批判している。われわれは日々死に向かっている。聖書は、イエスが私の罪をあがなうため十字架で死に、三日目に蘇り、神の右に座っていると教えた。神はイエスを第一番目の例として人間に示した。同様に、もし信ずるならば、われわれも蘇り、永遠の命を得るだろう。日本のほとんどの医師は聖書を信じないから、患者に死が迫っていると告げ得ない。したがって延命至上主義の治療を行っている。それは患者にとって苦しく、不必要で、費用のかかる愚行である、と。
私は一神教を信じないが、彼の批判には賛成する。『納棺夫日記』を書いた青木新門氏の描写したように、病院で亡くなった死体は、ナイロンの袋に水を詰めたようにぶよぶよしている。亡くなる前のチューブと機械にがんじがらめになった人の苦しさを想像できよう。しかも現在日本人の八割は病院で死ぬ。先進国の中でも際立って多い。
現在の病院死は、自宅、特養や老人施設などの「終の棲家」での大往生を妨げ、死を囲いこみ、かえって死に対する社会の恐怖を強めている。
実際に看取りの医師として働いていると、人生の最終コースにいる意味が見えてくる。それは、自分自身も患い、老い、そこを歩む人々の苦痛、哀歓、恐怖、つながりを求める希求に共感できるからだろう。われわれは論理で情動を分析できても、理解はできない。それは呆けていない者が、認知能力の衰えた者の「不安」を理解できないのと同様である。
釈迦は人間の生・老・病・死は、苦であると説き、苦から解放される道を教えた。生きることに喜びを感じる人々は多い。しかし老・病・死を幸せと思う人はまず居ない。とくに競争を生存原理とする人にとっては、恐怖すべき過程だろう。
実は、人間が人生を降る道程に適応する能力には驚くべきものがある。幸福度の調査は、どの文化においても、高齢者のほうが若年者よりも幸せであるのを示す。近年インド、中国、ラテンアメリカのいわゆる中・低所得国で一万五千人近い高齢者に行われた「10/66調査」では、高齢者の八割以上が「幸せ」だと答えている。認知症になっていても家庭や共同社会が受け入れてくれるかぎり、幸せの度合いは同様に高い。
幸せな高齢者では、富や健康に対する執着が減っている。執着を減らすという意味で、彼らは釈迦の教えを自然に行っているように見える。人生は、辛いことに耐えて進む点では「修行」と考えて良い。修行を積み穏やかな悟りの心境に達した人を社会は尊敬する。その意味で高齢者は尊敬すべき対象である。

(おおい・げん 東京大学名誉教授)

著者プロフィール

大井玄

オオイ・ゲン

1935(昭和10)年生まれ。東京大学名誉教授。東大医学部卒業後、ハーバード大学公衆衛生大学院修了。東大医学部教授などを経て国立環境研究所所長を務めた。著書に『「痴呆老人」は何を見ているか』『人間の往生』『病から詩がうまれる』など。現在も終末期医療全般に取り組む。

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