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人工知能はなぜ椅子に座れないのか―情報化社会における「知」と「生命」―

松田雄馬/著

1,540円(税込)

発売日:2018/08/24

  • 書籍
  • 電子書籍あり

「知能」とは何か――
あなたは深く考えたことがありますか?

シンギュラリティの到来に一喜一憂しても、「人工知能の時代」は確実にやってくる。だからこそ持つべき視点がある。コンピュータがいかに「見て」「動いて」「考える」かを、錯視やロボットの例を用いて徹底解明。そして「生命」を深く考えてこそ分かる「椅子に座る」ことの本当の意味。注目の新鋭研究者が迫る「知能」の正体!

目次
序章 人工知能を通して感じる生命への疑問
生命とは何か
第一章 人工生命、そして、人工社会とは何か
「人工生命」とは何か/「生命」が創った「万能コンピュータ」/生物の「群れ」に見る高度な「知能」/「群知能」が達成した「最適化」とは何だったのか/生物進化に学ぶ遺伝アルゴリズム/自ら進化するコンピュータ上の生き物/遺伝アルゴリズムはどのような問題を解決したのか/「人工生命」の研究によって生命への理解は進んだのか/人間社会をシミュレートする「人工社会」とその課題/あらゆる社会現象をモデル化する/モデル化という手法に潜む問題点/人工生命と人工社会の研究から何を学ぶことができるか
第二章 人工知能の研究はどのようにして始まったのか
人工知能の研究のはじまり/人工知能の研究がブームで終わってしまう理由/ニューラルネットワークのもたらした衝撃/ニューラルネットワークが行う計算の仕組み/脳の神経細胞(ニューロン)/神経細胞の「モデル化」/物体を認識する「ニューラルネットワーク」/人工知能ブームに火をつけたCNN/知を生成したと言われる「グーグルの猫」とその正体/ニューラルネットワークはものを見ることが可能なのか/ニューラルネットワークの研究から何を学ぶことができるのか
第三章 脳はどのようにして世界を知覚するのか
脳は「動き」と「形」をバラバラに認識する/世界を認識する上での身体の役割/身体によって生まれる目の錯覚/錯覚によって創り出される世界/なぜ「世界を作り出す」ことが必要なのか/人間の知覚から何を学ぶことができるのか
第四章 意識にみる人工知能の限界と可能性
人工知能への「楽観主義者」とその論争/人工知能と精神/「弱い人工知能」にとって「認識」とは何なのか/工学的な「認識」に立ちはだかる「不良設定問題」の壁/「認識」を「認識」するということ/「身体」における「心」の役割/「自己」と「意識」/フレーム問題と人間の意思決定/「意識」と「基準」/ゴミ収集ロボットに学ぶ「中央制御」の限界/「自律分散」に基づく生命システム/生命システムが動かすロボットアーム/意識を持つ生命という概念から何を学ぶことができるのか
第五章 シンギュラリティの喧噪を超えて
シンギュラリティとは何か/人間の持つ知能とは何か/生命とは何なのか/生命誕生と進化の謎/生命誕生のダイナミックな描像/循環という概念から捉えなおす進化の原動力/物理学者が探究し続けてきた生命観/シュレーディンガーの「秩序性を土台とした秩序性」/マクロな現象としての生命現象/動的秩序を生み出す生命/動的な生命システムとしての「身体」と「運動」/生命、情報、そしてコミュニケーション/意図と意味/人工知能はなぜ椅子に座れないのか/人類とコンピュータが共に生きる未来に向かって
終章 情報化社会における「知」と「生命」
情報化社会と生命知/故きブームを温ね、新しきを知る/個人の思想が創り出す小さな一歩/人が主体となる情報化社会の未来に向かって
あとがき

書誌情報

読み仮名 ジンコウチノウハナゼイスニスワレナイノカジョウホウカシャカイニオケルチトセイメイ
シリーズ名 新潮選書
装幀 駒井哲郎/シンボルマーク、新潮社装幀室/装幀
発行形態 書籍、電子書籍
判型 四六判変型
頁数 296ページ
ISBN 978-4-10-603831-0
C-CODE 0395
ジャンル コンピュータサイエンス
定価 1,540円
電子書籍 価格 1,232円
電子書籍 配信開始日 2019/02/08

書評

AIと人間の明日はどっちだ!?

青木薫

 今、人工知能(AI)をめぐっては議論が沸騰中だ。チェスの世界チャンピオンがコンピュータに負けたのはだいぶ前のことだが、いまでは「人間に勝つのはだいぶ先」と思われていた将棋や囲碁でさえ、コンピュータが人間を下すようになった。ゲームよりいっそう人間的だと思われる芸術の分野にも、AIは進出を企てている。近い将来、鑑賞に堪える絵を描いたり、音楽を作ったり、小説を書いたりすることもできそうだと言うではないか。AI技術の可能性については、「こんなこともできる、あんなこともできる」という、素人の予想を軽々と超えるニュースが日々流れ込んでくる。AIの応用分野には、わたしたちの夢をかきたてる果てしない広がりがありそうだ。
 しかしその一方で、社会には大きな不安が渦巻いてもいる。比較的単純とされる工場労働などがどんどんロボットに置き換えられていくのは当然としても、医師や弁護士のようなステータスの高い専門職でさえ、AIで置き換え可能だという話もある。AIはあらゆる領域で人間に取って代わり、人間は社会のお荷物に成り下がるのだろうか? 意識を持ったAIが自己増殖し、いずれは人間の排除に乗り出すのだろうか?
 どこまでが現実でどこからがSFかわからない話が巷にあふれ、素人は困惑するばかりだ。手がかりを求めて本屋に行けば、さすがにAI本はたくさんある。たくさんあるのだけれど、よく見れば、「AIは儲かる!」という本と、「AIは仕事を奪う!」という本のどちらかに分類できそうなものばかり。そんな本をいくら読んだところで、根本的な不安は解消されそうにない。かといって、ウェブに目を向ければ、どこまで信じていいのかわからない情報が濁流のように流れ込んできて混乱に拍車をかける。いったいどうすればいいの? というのが、多くの人の実感ではないだろうか。
 そこでお薦めしたいのが、『人工知能はなぜ椅子に座れないのか―情報化社会における「知」と「生命」―』である。ちょっと不思議なタイトルだが、心配は無用だ。著者の松田雄馬氏は、柔らかな語り口で、押さえておきたい基本的なところから説き起こしてくれる。著者はもともと、数理生物学という、数学を使って生命を理解しようという分野の研究者。そこから、生物の知的な振る舞いを人工的に再現しようとする人工知能の研究に踏み込み、長年にわたって、AI技術の開発と、現場への実装に携わってきたという。
 本書の一番の特徴は、著者である松田さんが、AI研究開発の現場でぶつかった疑問を大切に温めて、もともと興味のあった生物をつねに念頭に置きながら、問いを深め、思索を重ねてきた人だという点にあると思う。今、「思索を重ねてきた」と言ったけれど、実は松田さんはまだ三十代の若さだ。枯淡の老人の悟ったような語り口とは全然ちがうし、年配のおっさんにありがちな(失礼!)偉そうなところは微塵もない。むしろ、若い人ならではの意気込みが噴出しているところや、これまでの模索の痕が見て取れるところもあるが、そこもまたこの著者ならではの魅力ではないだろうか。
 もうひとつ、本書の特徴といってよさそうなのは、著者が、AIも人間も大切に思っていて、どちらも良いかたちで発展してほしいと心から願っているということだと思う。本書の序章で著者は、人工知能の歴史は、「錯覚」の歴史ともいえると喝破する。これまで三度にわたって起こった(今、三度目が起こっている)人工知能「ブーム」は、錯覚のなせる業なのだ、と。人間は「知能」というものに強い思い入れがあるがゆえに、人工知能に夢も見れば、ついつい錯覚もしてしまう。しかし現場レベルでは、今回のブームのもとになった錯覚はすでにさめていると言う。AI技術の進展が目覚しいのは間違いのない事実で、錯覚からさめたとき、その実相がわれわれの目の前に明らかになるだろう。そのときわれわれは、AIにどう向き合ったらいいのだろう?
 AIをめぐる現在の喧騒から少し距離をとり、人間社会とAIとのありかたをどう捉えたらいいのか、いや、われわれはどうしたいのかを考えるために、本書は良い手引きになってくれるだろう。

(あおき・かおる 翻訳家)
波 2018年9月号より

インタビュー/対談/エッセイ

そのAI、本当に必要? 経営とテクノロジーの本質を見抜け!

楠木建松田雄馬

「ウチの会社もそろそろAIを……」と言っている、そこのアナタ! ちょっと待ってください、その判断。気鋭の経営学者と人工知能研究者が徹底的に語り合って見えてくる「AIの本質」と、それに向き合う「人間のあり方」とは――。

未来の経済記事に乞うご期待!

楠木 僕は、人工知能(AI)を研究しているわけではないので、今日は、素人がいろいろと松田さんに質問をして、勉強するというスタンスでいきたいと思います。
 最近いっぱいAIの本が出てきているんですけれども、この松田さんの本には「こういうことができる」とか「世の中が変わる」といった話が全然入っていない。これ、いいですよね。
 人工知能を考える場合、「人工」というのはあくまで形容詞で、本来は「知能」の問題。だから知能とは何かっていうのが分からないと、形容詞つきの「人工知能」についての議論も空回りに明け暮れる。松田さんはその「知能」とは何か、ということをすごく丁寧にご説明されています。どのような動機でこの本をお書きになったのですか?
松田 ありがとうございます。たしかに「AI」という言葉は流行っています。なのにAIって何なんだろうという議論なしに未来の話ばかりが語られています。すごく危ういな、と言いますか、ストレートに言うと「面白くない」と思ったんですよ。
楠木 そうそう。知的にはちっとも面白くない。
松田 人工知能の研究って、その起源は計算機ですから、もう何百年もの歴史があるんです。つまらない事務作業はなるべく機械にやらせたいよね、というのが、人工知能研究のそもそものモチベーションなんです。面倒くさいことをどんどん機械にやらせると、もっと人間は楽しく暮らせるんじゃないの、ということ。でも、今出ている“AI本”の多くはそういったところをすっ飛ばしてAIで「自動運転が実現する」とか、「どうやら仕事が奪われてしまうようだ」とかの話題ばかり。そういうふうに描かれた未来って、なんか地に足が着いていないんです。読んでも自分がそこにいる気がしないんですよね。面白くもないし、そういう未来に向かって生きたいとも思わないんです。本来であれば未来というのは自分たちが作っていくものだから、非常にエキサイティングでなければそれって実現しないと思うんです。
 そんなところから人工知能の“知能”っていったい何なのかを考える土台を作った上で、未来を考えていきたいなと思って書いたんです。
楠木 やっぱり世の中にこういう本がないと困るっていうか。まあ、世の中、捨てたもんじゃないなという。
松田 ありがとうございます。
楠木 しかし、それにしても今のAI周りの議論は地に足が着いていないというよりも、そもそも足がない。足がないんだから地に着きようもないという感じ。これね、一番よくないのは経済ビジネスジャーナリズムのせいだと思うんですよ。彼らは長いAI研究の歴史とは無関係に騒ぎ立てるんですよね。「こういう仕事がいらなくなる」とか、もうそういうのが大好きなんですよね。
松田 (笑)
楠木 僕は昔の雑誌や新聞を読むというのが大好きで。特にビジネス関係は最低でも七年、二五年だともっといいんですけど。ウイスキーみたいに寝かせてから読むとすごく面白いんです。
 例えば1990年代の後半、インターネットが出てきた時にビジネスジャーナリズムの人たちがどんなことを言っていたのか。今の時点で通勤というのはなくなっているはずでした。それから、小売店もなくなっている。でも、今見てみると、みんな相変わらず満員電車に乗ったり、店で買い物をしている。まあ、多少は変わりましたけどね。
 当時、インターネットが出てきて、多くの人が比喩的に「これはもう隕石だ」って言ったんですよ。「バーンと落ちたらもう全部変わっちゃう」と。でも二〇年経ってもほとんど変わってねぇな、って。
 多分、産業革命で蒸気機関が出てきたときも、だいたい同じようなことを言ってたのではないでしょうか。良きにつけ悪きにつけ、過剰に考えてしまうのが、人間というものなんですね。
松田 おっしゃるとおりで。
楠木 だから七年後ぐらいが楽しみ。今、AI周りの記事を皆さんぜひファイルしておいてください。誰がどんなことを言っていたのかって。後から読むと非常に味わいのある読み物になりますよ。

意外に使えねぇな、AI

松田 そういう観点では、いわゆるAIに関するニュース記事は、すでにこの一年ぐらいで論調がちょっとずつ変わってきたなと感じてます。
楠木 どういうふうに変化しましたか?
松田 おそらくなんですけれども、それまでは、あれにも使える、これにも使えると、ある意味、空虚な未来予想というのが多かった。当然ながら、これにいろんな企業が反応して導入したんですが、そのフィードバックが世の中に出てくるようになったというのが、まあ、この時期だったかな、と。そうなったときに何が起こったかというと、「意外に使えねぇな」というのが出てきたわけなんですよ。僕が見た中だとソフトバンクさんがいちばん早かったんですけど、実際に使ってこんなことを仰るわけですよ。「われわれはすごいことが分かった」と。で、何を言うかと思えば、「AIは導入すれば良いというわけではなかった」と。AIを導入すること自体が大事だったのではなく、それを使う現場の人たちの声を聞くことがいちばん大事だったと言うんですね。
楠木 僕もその記事、読みましたよ。
松田 「AI」という、新しい技術が出てきたからといって、それが社会を変えるわけではなくて、社会を変えていくのは人間だということです。こういった記事を皮切りに「AIばかり注目していてもダメだよ」とか、「やっぱり現場のことを知っている人がいてこそ導入はうまくいく」とか、導入の成功例と失敗例とみたいな感じの記事が最近はかなり増えてきたと思います。ある意味、ビジネスの基本ではあると思うんですけどね。

強いAI、弱いAI

楠木 ところで松田さんの本の中に「強いAI」と「弱いAI」という表現が出て来ますが、これが、それぞれどういうものか説明していただければ、読んでいない方にも、今の話がよく分かっていただけると思いますが、どうでしょう。
松田 そうですね。AIに“強い”“弱い”があるというと、すこし唐突な感じがしますが、これを最初に提唱したのはアメリカの哲学者のジョン・サールさんという方です。まず「強いAI」ですが、これは、まさに今、世の中で言われている最終ゴールとしてのAI。人間と同等の精神を宿すものです。精神があるから、感情もあって思考も出来て、だからこそ意思決定も自分で出来て、当然、自ら動き出すわけですね。そうすると当然、自分と同じような人工知能を自分で作るかもしれない。これがまさに「強い人工知能」と言われているものです。
 もう一つの「弱いAI」というのは、知能を持つものはあくまで人間という考えです。人間は計算だとか、思考だとか、意思決定だとか、経営判断だとか、いろんな知的活動を行いますが、AIはそれをサポートする道具に過ぎないという考えです。
楠木 「強いAI」と「弱いAI」を掘り下げて考えると、意図や意識、目的意識や自己認識、さらには精神の有無ということになるのでしょうね。やはり論理的に言って、強い人工知能というのはあり得ない?
松田 少なくとも現時点ではありえないと思います。
楠木 論理的にそうに決まっている。ところが今でも、AIというと、なんかもう本当に人間に代替しちゃうとか、人間を支配しちゃうとか、そういうふうなやたらと「強いAI」をイメージする人が多い。みんなAIという言葉を使いたくてしょうがない。
松田 たしかにそうですね。
楠木 みなさんご存知かもしれませんが、いまローソンで“からあげクン”を揚げたてでサーブする実験が始まっていて、これを「できたてからあげクンロボ」って呼ぶ(笑)。
松田 ロボット!(笑)
楠木 気持ちは分かるけど、「機械じゃん、それ」って思うんですよ。でね、AIも、「弱いAI」というのは、まさにわれわれの周りに今いっぱいある機械なんですよね。
松田 おっしゃるとおり!
楠木 AIが囲碁や将棋で人間に勝ったとか言うんだけれども、新幹線だって人間よりも速く走れる。それこそノコギリだって、昔から人間が到底切れないものを切ってたし。ブルドーザーだって、あれだけの土を人間は運べません。機械的道具には常に人間を凌駕するものがあったんです。なのにAIだけが特別扱いというのはどうかな……と。やはり、そこには知的な活動に入ってきたということにインパクトがあったんですかね。
松田 AIの業界というか、ITの業界の中で“出来なかった”ことが“出来る”ようになってきたというのが大きいかと思います。
楠木 出来るようになったこととは?
松田 大袈裟に言ってしまいましたが、実のところ二つしかないんですよ。一つはめちゃくちゃ速く計算ができるようになったこと。もう一つは、ものすごく大容量になったこと。この二点に尽きます。テクノロジーの世界には「二桁変わると世界が変わる」っていう言葉があるんですが、例えば写真一枚転送するのに三〇分かかっていたものが一秒で済むようになると、人の顔を一万枚をコンピュータに覚えさせることが出来るんじゃないか。覚えさせたら喜怒哀楽の特徴がある程度分かるようになるんじゃないか――といった感じで、つい何でも出来るようになると勘違いしてしまうんです。
楠木 とはいえ、人間の顔の認識をさせてあれこれしようという「意図」「目的」を持つのはあくまでも人間ですよね。
松田 そう、おっしゃるとおりです。
楠木 そういう意味では、いろんなテクノロジーが実用化されているとはいえ、依然として、使っているのは「弱いAI」。
松田 まさに、そうです。でもスペックが格段に上がってしまったため、妙な幻想を抱いてしまった。

強い人間、弱い人間

楠木 単純に研究とか技術、サイエンスとして、とにかくAIを人間に近づけていこうというのは、これはもう人間の本能なので自然なこととは思いますが、「強いAI」って人間にとってどうなんでしょう? 今後、AIがどんどん進歩していったとして、擬似的かもしれませんが、ある意図を持つとか、なんか目的を設定するようになったとしますよね。でも、それをありがたがるというか、それに意味を感じる人って「弱い人間」だけじゃないかなと。自分でそんなに目的意識がないとか、自己認識が緩いとか、要するにバカということなんですけど。
松田 目的設定は本来機械にとって苦手なことですが、もし擬似的にある程度できるとして、そのサジェスチョンに頼るということは……その程度のことしかできない人ということですね。
楠木 そうです。例えば日常的なところでいえばアマゾンのリコメンデーション。「あなただったらこの本を読むといいですよ」って。ものすごいトンチンカンな本を薦めて来るでしょ。僕は本を読むのが好きで、それなりに本を見る目があると思っているんですけど、全然こいつ分かってねえなって(笑)。でも一方で、「あ、これって便利だよ」「AIってすげえな」っていう人もいる。そういう人は読書について「弱い人間」ですね。自分の意識とか意図というものがない。ことほど左様に、「弱いAI」ほど「強い人」にとって有用で、「強いAI」ほど「弱い人間」を指向するみたいな逆説というか裏腹関係みたいなものが、人間とAIの関係にあるのかなって思うんですよ。
松田 さすが! 鋭い!! と思いました。
楠木 だいたい新しい技術が出てきたときにAIに限らず、なんかネガティブな方向でもポジティブな方向でも極端なことを言って大騒ぎをしだす人って、人間として深みがない。なんか自分がないっていうか。つるんとした人って、いるんですよね。好き嫌いがあんまりないというか……。

特異点シンギュラリティで変わる……ワケがない

楠木 僕は1964年の9月12日生まれなんですけれど、先に話したように昔の新聞雑誌が大好きなんです。そこで生まれた日の日経新聞を見る。そうすると「今こそ激動期。これまでのやり方は通用しない」って書いてあるんです。前日に日本で初めてのIMF総会があったらしいんですね。でも日経新聞という新聞は、少なくとも僕が生まれてからの五四年間、休まず三六五日、「今こそ激動期」って言っている。激動って論理的に連続しないから、結局のところ、いろいろと見る対象を変えて“激動”にしている(笑)。本質的なことはほとんど何も変わっていないんですけどね。「弱いAI」が世の中に広まっていくのは間違いないとしても、それはかなりの時間幅を持って受け入れられるものだと思うんです。意思や意図、精神を持った人間が一回一回それを受け止め、フィードバックして、だんだんと落ち着くところに落ち着いてゆく。インターネットもそうだった。今、わりと落ち着き感ありますよね。
松田 そうですね。インターネットが到来して、もう二〇年以上がたちました。外見的には人の生活は変わったかもしれないけれども、じゃあ、内面的なところで何が変わったのかっていうと、人間そのものは何にも変わっていない。
楠木 そういう意味では、今よく言われる技術的特異点シンギュラリティという言葉だって同じだと思うんです。シンギュラリティが来て「全てが変わる」とか言っているけど、それで何かが変わるとは思えない。
松田 コンピュータが人間を超えてしまうというシンギュラリティですが、まさにその通りだと思います。人間の脳は一〇〇億個の神経細胞だけじゃなく、身体中に張り巡らされた神経細胞が外界と作用しあって機能している。仮に神経細胞の動きを高速大容量のコンピュータで再現できたとしても、身体を持たないコンピュータには到底人間のように意思を持った動きは出来ないというのが僕の考えです。
楠木 そうですね。シンギュラリティにしろAIにしろ、「これで世の中一変する」というのは、それこそ身体レベルで人間の本能が変わらない限り、あまり信用しない方がいい。そんなことを言う人に出会ったら「何か最近つらいことがあったのかな」と思うようにしています(笑)。
松田 その思いやりは今のAIには無理ですね(笑)。だからこそAIを恐れず、僕らは人間であることに自信をもって、AIを知り、上手く使って行かなければならないと思います。

(くすのき・けん 一橋大学教授)
(まつだ・ゆうま 人工知能研究者)
波 2019年3月号より

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著者プロフィール

松田雄馬

マツダ・ユウマ

1982年9月3日生。徳島生まれ、大阪育ち。博士(工学)。2005年、京都大学工学部地球工学科卒。2007年、京都大学大学院情報学研究科数理工学専攻修士課程修了。同年日本電気株式会社(NEC)中央研究所に入所。MITメディアラボやハチソン香港との共同研究に従事した後、東北大学とブレインウェア(脳型コンピュータ)に関する共同研究プロジェクトを立ち上げ、基礎研究を行うと共に社会実装にも着手。2015年、情報処理学会にて優秀論文賞、最優秀プレゼンテーション賞を受賞。2016年、NECを退職し独立。2017年、合同会社アイキュベータを設立。著書に『人工知能の哲学』(東海大学出版部)。

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