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キリスト教は役に立つか

来住英俊/著

1,815円(税込)

発売日:2017/04/27

  • 書籍
  • 電子書籍あり

イエスの教えは「孤独」に効く!

信仰とは無縁だった灘高・東大卒の企業人は、いかにしてカトリック司祭に転身したか。「孤独感」を解消できたのはなぜか。旧約聖書から新約聖書、遠藤周作からドストエフスキー、寅さんからエヴァンゲリオンまで、幅広くエピソードを引きながら、ノン・クリスチャンの日本人にも役立つ「救いの構造」をわかりやすく解説する。

目次
はじめに
第1章 キリスト教は役に立つか
1 キリスト教も現世利益を祈る
2 「祈り」とは「対話」である
3 神と人間はどのように語るのか
4 「神との対話」は自問自答ではない
5 神は、いつもそこにいる
6 神と交渉できるのか
7 神にはユーモアも通じる
8 神には文句も言える
9 神が人間に質問する
10 神は全能者・全権者である
11 神とは誰のことか――三位一体を考える
12 願い事は叶うのか
13 願い事の叶い方にはいろいろある
14 祈りの時間感覚
15 祈りを向上させるのは、祈ることそのもの
16 奇跡がなければキリスト教じゃない
17 キリスト教は肯定する
18 なぜ世界には悪や不幸が溢れているのか
19 神と折り合いがつかない
20 神との対話が始まらない場合
21 なぜ願いが叶わなくても信じる人がいるのか
22 キリスト教信仰のパラドックス
23 神と和解するということ
第2章 キリスト者はイエスの存在をどのように感じるのか
24 イエスが部外者であったとき
25 イエスが自分の世界に入ってきたとき
26 イエスが旅の伴侶になるとき
27 イエスが「自分の世界」の中心になるとき
28 遠藤周作『侍』を読む(1)――イエスが部外者であったとき
29 遠藤周作『侍』を読む(2)――イエスが視界に入ってくるとき
30 遠藤周作『侍』を読む(3)――イエスが旅の伴侶になるとき
31 遠藤周作『侍』を読む(4)――イエスが世界の中心になるとき
32 強烈な回心体験はなくてもいい
33 イエスと話をすると自分が変貌する
34 イエスと「まれびと」
35 定期的な祈り
36 経験と言葉
第3章 「共に生きる」とはどういうことか――キリスト教の幸福論
37 他人への怖れ
38 世界への怖れ
39 自分への怖れ
40 「不安に満ちた世界観」にどう対抗するか
41 なぜ「独りでいるのは良くない」のか――「自己幻想」と「共同幻想」
42 なぜ「共に生きる」のか――「対幻想」を重視する
43 「共に生きる」とは「助け合う」ことではない
44 キリスト教はなぜ結婚を重視するのか
45 知る喜び、知られる喜び
46 技芸職能と「共に生きる」
47 「人を動かす」のはやめる
48 「受ける」ことの意義
49 死との向き合い方
50 旅の到着地
おわりに

書誌情報

読み仮名 キリストキョウハヤクニタツカ
シリーズ名 新潮選書
装幀 駒井哲郎/シンボルマーク、新潮社装幀室/装幀
発行形態 書籍、電子書籍
判型 四六判変型
頁数 240ページ
ISBN 978-4-10-603800-6
C-CODE 0316
ジャンル 宗教
定価 1,815円
電子書籍 価格 1,144円
電子書籍 配信開始日 2017/10/13

書評

ノン・クリスチャンの「役に立つ」

大澤真幸

 キリスト教は、神の子が十字架の上で死ぬことによって人類の罪を贖ってくれた、ということを信ずる宗教だ、と言われる。しかし、もしキリスト教の本質がここにあるのだとすれば、喜んでキリスト教を信ずるようになる日本人は、ほとんどいないだろう。まず、前提が成り立たないからだ。つまり、そんなことまでして贖ってもらわなくてはならない罪が、自分にある(あった)とは、ほとんどの日本人は思わないからだ。そこで、日本人にキリスト教を信じさせるためには、まず、お前には(本来)罪がある、ということを納得させなくてはならないことになる。だが、もともとたいした罪意識をもっていない人に、深い後ろめたさをわざわざ植え付けることから始める宗教など、あまりに暗くおぞましい。
 しかし、本書で著者は、キリスト教信仰の本質を、これとはまったく異なったところに求めている。つまり、キリスト教信仰を生きるということは、「人となった神(イエス・キリスト)と、人生の悩み・喜び・疑問を語り合いながら、ともに旅路を歩むこと」だ、と。この旅路には明確な終着点があって、それが「神の国」と呼ばれる。この定式化なら明るい。特に原罪など感じていなくても、受け入れられる。
 本書は、このような観点からのキリスト教(カトリック)の入門書である。だが、これほど開かれた入門書を、私は他に知らない。護教的な押し付けがましさを一切感じさせない。というのも、本書が人生について語っていることの大半が、キリスト教の教義を抜きにしても成り立つ真実だからだ。
 本書は、50個の細かい節に分かれていて、各節の冒頭にはエピグラフ的な引用(聖書その他からの)があり、本文は、これを受けるようなかたちで展開する。たいていの宗教入門書は、「Xを信ずるならば、Yは真実だ」という構成の論法になっている。Xを信じうるかどうか迷っているから入門書を読んでいるのに、はじめからXを信じていることを前提にして書かれているのだ。しかし、本書は違う。本書で示される人生についての洞察は深く、その多くは、キリスト教の教義を信じていない人にも納得がいく(実際、私がそうであった)。
 たとえば結婚。別に結婚しなくてもよいが(著者の来住氏も神父で結婚していない)、結婚にはよいことがある。どこが? どうしても変わらないような頑固な欠陥も含め、自分を底の底まで知った上で、それでも一緒に歩むことをやめないパートナーをもつことが、人にこの上ない安らぎをもたらすのだ。
 と、こんな具合である。すでに十分に平易な本書をわざわざ要約するのは蛇足なので、本書には暗示的なままにとどまっている、その哲学的な意義について述べておこう。私が本書から学んだことは、キリスト教は、「二」と「三」の間で、二者関係と三者関係の間で揺らいでいるということ、キリスト教は、両者の間の緊張関係を原動力としている、ということだ。「二者関係/三者関係」というのは、私がここで独自に導入した言葉だが、次のような趣旨である。私と対等で、私と同じように限界や欠陥をもつ他者を相手にした関係が二者関係である。この二者関係の水準に、超越的なレベルに属する特権的な第三者が介入したとき、三者関係になる。
 神を奉ずる宗教、神への信仰や崇拝を要求する宗教は、当然にも、三者関係に優位プライオリティを置く。一神教はとりわけ、「三」の前提に厳格に従っており、人間の有限性を超える、全知で全能の(あるいは全権をもつ)神の存在を前提にしている。キリスト教ももちろん、そうであり、本書もその点を認めている。たとえば、人がたえず神(キリスト)に問い、祈ることができるのは、神がつねにその人と共に臨在しており、「私にはわかっていない私にとっての真理」を知っている、と想定しているからである。
 しかし同時に、キリスト教には、「三」を「二」へと還元する力も強く働いている(と本書は事実上説いていると解釈することができる)。人は、キリストと親しく語り合ったり、彼に文句を言ったりすることができる。先に紹介した結婚についての件には、このことが特に強く現れている。人とキリストとの関係は、結婚のパートナーとの関係に喩えられ、そこにこそ現れている、と。つまり、人間が神の似姿として創造されたと聖書にあるように、本書によれば、「神:人間」の関係(二項に見えるが、神が超越的な存在なので三者関係を孕んでいる)は、「人間:人間」の二者関係に等しいのだ。
 本書が、ノン・クリスチャンにも説得力がある理由はここにある。「キリスト教は役に立つか」という問いに本書が用意した回答はこうである。役に立つ、特にノン・クリスチャンに。

(おおさわ・まさち 社会学者)
波 2017年5月号より

著者プロフィール

来住英俊

キシ・ヒデトシ

1951年、滋賀県生まれ、神戸育ち。灘高校から東京大学法学部に進み、日立製作所を経て、1981年にカトリックの洗礼を受ける。御受難修道会に入会し、1989年に司祭叙階。「祈りの学校」主宰。著書に、「目からウロコ」シリーズ(現在10冊、女子パウロ会)、『気合の入ったキリスト教入門』(全3巻、ドン・ボスコ社)、『『ふしぎなキリスト教』と対話する』(春秋社)、『禅と福音』(南直哉との共著、春秋社)など。

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