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アンネ・フランクについて語るときに僕たちの語ること

ネイサン・イングランダー/著 、小竹由美子/訳

2,090円(税込)

発売日:2013/03/29

  • 書籍

もしもまたホロコーストが起こったら、誰があなたを匿ってくれるでしょう――。

フロリダの旧友夫妻を訪ねてきたイスラエルのユダヤ教正統派夫妻。うちとけた四人は、酒を飲み、マリファナまで回してすっかりハイに。そして妻たちが高校時代にやっていた「アンネ・フランク・ゲーム」を始める。無邪気なゲームがあらわにする、のぞいてはいけなかった夫婦の深淵。ユダヤ人を描いて人間の普遍を描きだす、傑作短篇集。【フランク・オコナー国際短篇賞受賞作】

目次
アンネ・フランクについて語るときに僕たちの語ること
姉妹の丘
僕たちはいかにしてブルム一家の復讐を果たしたか
覗き見(ピープ)ショー
母方の親族について僕が知っているすべてのこと
キャンプ・サンダウン
読者
若い寡婦たちには果物をただで
訳者あとがき

書誌情報

読み仮名 アンネフランクニツイテカタルトキニボクタチノカタルコト
シリーズ名 新潮クレスト・ブックス
発行形態 書籍
判型 四六判変型
頁数 272ページ
ISBN 978-4-10-590101-1
C-CODE 0397
ジャンル 文芸作品、評論・文学研究
定価 2,090円

書評

波 2013年4月号より 「あの人たちの話」と割り切って読むことができない

大竹昭子

ニューヨークにいたころ、ユダヤ教正統派をよく見かけた。一年中黒い帽子に黒のスーツ、青白い顔に長いひげをたくわえ、房のような巻き毛を垂らしている。そんな姿の男たちが、中古のスクールバスでマンハッタンのダイヤモンド街に通勤してくるのは不気味な光景で、表題作の冒頭に正統派の夫婦が出てきたとき顔をしかめたのだったが、全篇を読み終えてその感情は完全に覆された。大変な作品集である。
どの短編もユダヤ人の通過してきた体験がベースになっている。二組の夫婦が過ごす数時間を描いた前掲の表題作は、著者自身にもっとも近いだろう。一方はイスラエル在住の正統派で、もう一方はマイアミに住むふつうのユダヤ人夫婦。妻同士がユダヤ学校のときの親友で、帰国を機に自宅に招く。
戒律や習慣、価値観の差など、彼らの生活について多くのことを教えられたが、驚くのはその先だ。ユダヤ人について語りながらそのむこう側に突き抜けていて、「あの人たちの話」と割り切って読むことができない。
対象とのこのようなスタンスは、ネイサン・イングランダーの経歴と無関係ではないだろう。敬虔なユダヤ教徒の家庭に育ち、高校までユダヤ学校に通うが、大学時代にそれらに疑問をもち、ユダヤ教から離れる。
非宗教的なユダヤ系アメリカ人と異なり、厳しい戒律のもとで昔ながらの教育を受けたことが、同世代の若者にはない歴史軸を育んだことはまちがいない。調べ上げた事実を構成して書くのとはちがう、自分のいまを問わなければ先に進めないという切実さが、ユーモアと皮肉と哀しみのまじりあった不思議な味わいの文章から伝わって来る。
どの作品でもひとりの人間のとったアクションが扱われる。「姉妹の丘」では同じ時期にイスラエルに入植し、家庭の幸福を手にしたイェフーディットと、その逆にすべての家族を失ったリーナというふたりの女性が主人公だ。かつてふたりの間に交わされた契約を理由に、イェフーディットの娘を取り上げようとするリーナ。ラビの法廷の前で彼女が述べ立てる理屈は、契約とは何かを鋭く突いているが、娘の気持ちは少しも考慮されていない。
「キャンプ・サンダウン」では、高齢者のサマーキャンプの参加者のひとりが強制収容所の衛兵だった男に似ているという理由で高齢のユダヤ人グループにより溺死させられ、「若い寡婦たちには果物をただで」では、収容所で遺体の山のなかに隠れて生き延びた人物が、その後の人生でおこなった二つの殺人が問われる。
それぞれの人物に選択と行動がある。理解しがたくとも必然がある。人の義とは何かという問題がここで浮上してくる。人には法律を遵守する公共的な一面があるが、同時にそれぞれの事情を生きる一個人でもあり、とくに近しい人々とのあいだでは法律や神との契約よりも信頼関係を重んじる。「正当防衛」や「権利の主張」などの言葉が遠く聞こえるのはそのためだ。ならばその信頼が損なわれたとき、人はどのような行動にでるのか。
「若い寡婦たちには……」は、自らも収容所の生き残りである青果店の主人が、殺人を犯した男の話を息子に語り聞かせるという設定だが、父はこう説く。人生にはつねに背景がある、だがその選べない状況下で人が何をして、何をしないかは簡単にわかることではないのだと。
そうした生々しい瞬間が、問いの深さと絡み合い、読む者を洞窟の奥へと連れて行く。表題作では登場人物が決定的なアクションを起こす場面はない代りに、もしいまホロコーストが起きたなら、この人は匿ってくれるだろうかと想像するゲームがおこなわれる。互いに問いを向けるうちに、みな寡黙になっていく……。ユーモアやウィットに満ち、青春の甘酸っぱい思い出もちりばめられ、ポップで軽やかな印象の作品だが、彼らの直面する「いま」が私たちの「いま」と響き合い、思わず息を呑む。反対に唯一、ユダヤ性から離れた「読者」には、洞窟の先に希望を灯そうとする意志が見てとれる。著者の思想と精神を象徴したこの作品には、心が弱くなったとき、何度ももどってくるだろう。

(おおたけ・あきこ 文筆業)

短評

▼Otake Akiko 大竹昭子

ユダヤ人の登場する小説は多く、ホロコーストがテーマのものも数あるが、こういうものは読んだことがない。レイモンド・カーヴァー作品のパロディのように見えかねない軽めのタイトルにだまされるところだった。ユダヤ人の歴史が、宗教が、複雑にねじれた感情が、熾火のような情念が、1970年生まれの目で「ユダヤ人」の内側に留まりつつ観察される。正義を行うとはどういうことか。そもそも義とは何なのか。現代小説の扱わなくなった問いが一篇ごとに人間の奥深さをあらわにするさまに戦慄。そこはなんと暗い洞窟に似ていることか!


▼Jonathan Franzen ジョナサン・フランゼン[『コレクションズ』]

きめの細かい喜劇とスケールの大きな悲劇を融合させるには、道徳的謙虚さと道徳的自信を組み合わせるという並外れたことが必要だが、ネイサン・イングランダーは大胆にもそれをやってのける。


▼Dave Eggers デイヴ・エガーズ[『驚くべき天才の胸もはりさけんばかりの奮闘記』]

イングランダーは現代のもっとも才気溢れ、大胆かつコミカルな作家のひとりだ。――しかし、その感情の深さこそが、彼を凡百の人間と隔てている。ページごとに、彼の心臓の激しい鼓動が聞こえてくる。


▼Jonathan Safran Foer ジョナサン・サフラン・フォア[『ものすごくうるさくて、ありえないほど近い』]

イングランダーのもっとも鋭い、もっとも滑稽で、もっとも颯爽とした、もっとも見事な本だ。

著者プロフィール

1970年、ニューヨーク州ロングアイランドのユダヤ教正統派コミュニティに生まれ、敬虔なユダヤ教徒の少年として成長。ニューヨーク州立大学在学中に初めてイスラエルを訪問。非宗教的知識人の存在にカルチャーショックを受け、やがて棄教。小説を書きはじめる。おもな著書に長篇小説『The Ministry of Special Cases』、短篇集『For the Relief of Unbearable Urges』(PEN/マラマッド賞、スー・カウフマン新人賞受賞)。現在ニューヨーク州ブルックリン在住。

小竹由美子

コタケ・ユミコ

1954年、東京生まれ。早稲田大学法学部卒。訳書にマギー・オファーレル『ハムネット』、アリス・マンロー『イラクサ』『林檎の木の下で』『小説のように』『ディア・ライフ』『善き女の愛』『ジュリエット』『ピアノ・レッスン』、ジョン・アーヴィング『神秘大通り』、ゼイディー・スミス『ホワイト・ティース』、カリ・ファハルド=アンスタイン『サブリナとコリーナ』、ジュリー・オオツカ『屋根裏の仏さま』(共訳)、ディーマ・アルザヤット『マナートの娘たち』ほか多数。

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