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第13章 ロシア、復活

 大統領に就任した当初、ウラジーミル・プーチンはロシアの外交政策について大胆な野望を掲げてはいなかった。一九九九年一二月のミレニアム・メッセージでも外交政策についての記述はすっぽり抜け落ちており、二〇〇〇年の大統領選キャンペーンの一環として刊行された伝記『プーチン、自らを語る』のなかで軽く触れられている程度である。ミレニアム・メッセージと伝記のなかのプーチンの発言の根本にあるのは、ロシアの抱える問題は自業自得であるという考えだった。よって、ロシアの人々は自ら問題を解決し、国内の秩序を回復しなければならない。秩序を回復できなければ、「ロシアは二~三〇〇年ぶりに三流国家に落ちぶれてしまうかもしれない」とプーチンはミレニアム・メッセージで訴えた。
 一九九九~二〇〇〇年ごろのプーチンは、二〇一二年以降とは異なり、西側諸国のいう「普遍的価値観」を異質なものだと片づけることも、ましてやロシアにとって危険だと一蹴することもなかった。さらに、西側諸国の民主主義、個人の自由、私有財産という概念を拒絶することもなかった。こういった概念は、ロシアの価値観と並行して採り入れられるべきものだった。プーチンは、ソ連崩壊の責任を西側諸国の冷戦戦士たちに押しつけようとする共産主義者や民族主義者の陰謀論を否定した。当初、こうしたイデオロギー的な外交政策の枠組みを否定していたプーチンにとって、外界と接するときの軸となるのが、ロシアが自国の問題に専念できる「時間稼ぎ」をするという考え方だった。ここでも、プーチンは敬愛する国家主義者、ピョートル・ストルイピンが激動の一九〇〇年代初めに提唱した考え方を採用した。「国家に二〇年間の国内および国外の平和を与えてくれれば、ロシアは見違える姿に変わるだろう」。外国の複雑な事情はいったん脇に置いておいて、国内の復興に専念するべき――それが、「時間稼ぎ」に対するプーチンの考え方だった。とはいえ、経済変革と国内の復興との密接な関係を踏まえれば、世界経済との統合を優先的に進めなければいけないのは当然のことだった。
 大統領に就任した当初のプーチンは、経済政策に専念して国内の秩序を取り戻しさえすれば、ロシアは国際社会に自動的に復帰し、受け入れられると心から信じていたようだ。復活したロシアは、ほかの誰をも挑発することはないし、誰からも脅威と見られることはない。そして、誰もロシアの脅威とはならない。これは、国境の向こう側の中国で行なわれた「平和的台頭」のプーチン版だった。しかし、プーチンの「放っておいてくれ」政策が順調に進まないことは、初めから目に見えていた。

プーチンの前進とロシアの復活

 第12章で説明したように、プーチンのアメリカ観、そして広い意味での西側諸国との関係に対する見方は、基本的に三つの段階を経て進化してきた。まず第一段階では、一九九〇年代のサンクトペテルブルクでアメリカ人と比較的良好な関係を築いてきた経験から、プーチンは「疑わしきは罰せず」の精神でアメリカをとらえていた。大統領に就任した当初のプーチンには、アメリカ政府を挑発しようなどという意識は毛頭なかった。それどころか二〇〇一年にはジョージ・W・ブッシュの気を惹こうと自ら奔走したほどだ。しかし、すぐに第二段階に入ると、国際社会におけるアメリカの行動こそが安定を揺るがし、近隣諸国やロシア国内の利益に悪影響を及ぼしている、とプーチンは結論づけるようになった。彼にしてみれば、他国と真剣に協議せず、国連の伝統的な手続きを無視するアメリカの一方的な行動は――たとえ大統領や政権にその意図がなかったとしても――ロシアに大きなリスクをもたらすものだった。するとプーチンは、それまでとは打って変わってアメリカ大統領と距離を置くようになった。
 議会や多数の政治関係者が意思決定プロセスに関与するアメリカ政治の性質からして、行政府が重要な約束を“果たす”能力には限界があった。二国間協議において大統領や閣僚が約束をしたように見えても、彼らがその決定を国内のステークホルダーに伝えたとたん、約束が反故にされてしまうことも珍しくない。ロシアの一極支配の政治体制やワンマン・ネットワークとは対照的に、アメリカ大統領の権限にはそうとうな抑制と均衡が働いていた。この評価に基づき、プーチンはアメリカのトップとじっくり話し合ってもあまり意味がないと考えた。二〇〇九年、バラク・オバマがアメリカの新大統領に就任。そのころ、表の世界ではドミートリー・メドヴェージェフがロシア大統領としてオバマの相手をしていたが、裏ではプーチンがアメリカの政策に対して徹底批判を繰り広げた。それでも、第二段階から第三段階へと進んだのはしばらくたってからのことだった。アメリカはロシアに敵意を持ち、ヨーロッパの同盟国とともに、ロシアの転覆や水面下で戦争を企んでいる――それが第三段階に入った現時点でのプーチンの最終的な結論だ。
 この三つの段階において、具体的にどんな出来事がプーチンの反応や対応を生み出したのかを理解しておくことは重要だ。さらに重要なのは、プーチンがそういう反応を示した理由を理解することである。その反応や彼の国内・国外政策を形作ったのは、アメリカに対するプーチンの認識や誤解であり、ひいては外界の思惑に対する認識や誤解だった。プーチンにしてみれば、悪者ピカレスク小説のように不運な物語が次々と展開していった。タイトルを付けるとすれば『ロシア復活に向けたプーチンの行進』。プーチンとロシアが国内で前に進もうとする。前に進むたび、あるいは進みかけるたび、アメリカが予期せぬ障害物を投げ込み、西側諸国が足を引っぱろうとする。それでも、彼らは抵抗して歩きつづける。こうしたやり取りを繰り返すうち、プーチンは時間稼ぎという考え方を捨てる。国内の経済問題や政治問題に専念するのをやめ、外交政策にも取り組むようになる。当初、プーチンの外交政策は受け身で守備的だった。しかし時がたつにつれ、彼は積極的で攻撃的な外交政策を採るようになった。
 ロシア復活に向けたプーチンの行進の第一章は、チェチェンで始まった。国内の復興という課題に重きを置いた彼には、あらゆる面での安定が必要だった。しかし一九九九年にチェチェンとの新たな戦争が始まると、復興の取り組みそのものが危険にさらされた。プーチンと彼の安全保障チームは、国内戦線へとじわじわと忍び寄る過激派分子がもたらすリスクの高まりを肌で感じていた。脅威の源はテロとイスラム教の組み合わせであり、それはロシアが八〇年代にアフガニスタンで直面したものだった。九〇年代のアフガニスタンの無秩序は、中央アジア、そして抜け穴だらけのロシアの膨大な国境地帯へと広がった。ロシアの恐怖をとりわけ駆り立てたのは、九二~九七年のタジキスタンの残虐な内戦だった。北コーカサス地方も、今にもタジキスタンと同じ流れに巻き込まれそうだった。特に、ロシア政府が(イスラム教と関連の薄い)チェチェン分離派の民族主義分子を殺害すると、状況はさらに悪化した。九六年、第一次チェチェン紛争が終結に向かうころには、国際テロリスト監視リストに載るアルカイダ関係者たちが、北コーカサス地方の弱みを探りはじめていた。
 第二次世界大戦の真っ最中、スターリンはソ連の複数の民族集団を、戦略的に脆い国境地帯から内陸部へと強制移住させた。その結果、中央アジアにはチェチェン人と北コーカサスの民族が取り残されることになった。その後、チェチェン人の一部が、中央アジアやアフガニスタンの過激派グループに次々と参加。プーチンから見れば、チェチェンの和平やロシア連邦との再統合は不可欠だった。彼はチェチェンの再統合を初期の大きな成果の一つと見ていたが、国外の大方の見方は「大きな後退」というものだった。
 チェチェン問題は、大統領としてアメリカや西側諸国に対処しようとするプーチンにとって、初めて味わう大きな失望だった。彼は垂直権力構造を築くことによって政府機能を中央集権化し、戦争に従事する保安機関どうしの連携を改善した。プーチンとしては、西側諸国の当局者やアナリストたちは、彼のやり方の粗探しをしているとしか思えなかった。地方選挙を廃止して知事や市長を直接任命するというプーチンの決定は、西側では民主主義への逆行として描かれた。ロシアによるチェチェンでの軍事活動や反テロ活動が激化すると、欧米諸国はプーチン個人への圧力を強め、民間死者数の多さやテロ容疑者とその家族の大量拘束について批判した。プーチンはこの批判について、『プーチン、自らを語る』のインタビューの冒頭で不満をあらわにした――チェチェン問題をめぐり、何者かがロシアに「情報戦争」をしかけている。彼は二〇〇四年九月のベスラン学校占拠事件の直後にもそう断言したし、それまでの数々の演説やインタビューにおいても、チェチェン問題でロシアにはダブル・スタンダードが適用されていると不満を漏らした。アメリカなどの国がロシアと同じ苦境に陥ったら、きっと同じような行動に出る。彼はそう確信していた。一九九九年一一月、プーチンは『ニューヨーク・タイムズ』への寄稿を通してアメリカ国民や指導者たちに向けて個人的に訴えかけたが、馬の耳に念仏だった。その二年後の9・11同時多発テロのあとでさえ、プーチンの言葉に耳を傾けようとするアメリカ人はほとんどいなかった。
 チェチェンのテロに対するロシア政府のアプローチについて、アメリカが(賛成はできなくても)まったく理解を示さないことは、プーチンにとって一つのターニングポイントになった。そのころから、アメリカやその国際的役割についての彼の口ぶりも変わりはじめ、「疑わしきは罰せず」の精神を捨て、アメリカに対する疑惑をはっきりと表明するようになった。ロシアの第二次世界大戦参戦から六〇年目の二〇〇一年の春と夏、プーチンはアメリカに警鐘を鳴らした。諸外国に及ぼす悪影響を考慮せずに自分たちの問題を解決しようとするアメリカの行動は、ロシアをリスクにさらすものだ、と。問題はアメリカの単独行動主義、つまり一極支配の世界だった。プーチンにとって、他国と相談もせず、あるいは国連の承認を得ずに行動するアメリカは、自己中心的で無責任だった。そのような行動は、決まって想定外の結果を生み出すことになるものだ。〇一年五月九日、戦勝記念日に行なわれた赤の広場の軍事パレードの演説のなかで、彼はこう語った。「戦後の歴史全体が私たちに教えてくれる――自分たちのためだけに安全な世界を築くことなどできない。ましてや他者の犠牲のもとに築くことなどなおさら不可能だ」。〇三年のアメリカのイラク侵攻によって、プーチンは反米意識をさらに強めることになる。イラクの一件で、アメリカはさらなる問題国家になった。プーチンのチームにとって、イラク侵攻の決断はあらゆる面において理解不能だった。アメリカは権力乱用という一線を越え、無責任で無能な国になったのである。
 プーチンがこういう歯に衣着せぬ発言を表立ってするようになったのは、二〇〇〇年代後半になってからのことだ。たとえば、二〇〇七年のミュンヘン安全保障会議や、一四年のクリミア併合を発表する演説。それまでしばらくのあいだ、彼は舞台裏でコメントを出し、仲介役を通じて外界に伝えていた。しかし、プーチンが強硬路線に転じることは、容易に予測できることだった。アメリカの経験豊富なロシア専門家、デール・ハースプリングとジェイコブ・キップは、プーチンに関する〇一年の分析(9・11前に執筆および刊行)のなかで、「ロシア大統領はいずれアメリカ政府に抵抗せざるをえなくなるだろう」と指摘した。ロシア保安当局の代表者に対するインタビュー取材、プーチンの初期の大統領演説などをもとに、二人はこう結論づけた。「プーチンはあらゆる機会を利用してアメリカの影響力を弱めることを画策し、ロシアの影響力を世界じゅうに広めようとするだろう……国を良い方向へと動かしつづけるのに必要だと思うことは何でもする、というのがプーチンの考え方だ……その過程で、なるべく武力行使や人権侵害を避けたいとは考えているに違いない。なぜなら、彼は露骨に武力に頼るよりも、民主主義的な道のほうが望ましいと理解しているからだ(もちろん、ロシア流の制約だらけの民主主義だが)。とはいえ、何よりも優先されるのはロシアを再び前進させることである」
 ハースプリングとキップは、さらにこう続けた。「プーチンは、ロシアの問題に干渉しようとする(アメリカの)試みに徹底的に抵抗するだろう……アメリカ政府が非協力的な態度を貫けば、プーチンはとんでもない厄介者になる」。しかし、ミュンヘン安全保障会議でスピーチを行なった〇七年の時点で、アメリカ政府との協力をすでに諦めていたのはプーチンのほうだった。アメリカ政府は無能なだけでなく、ロシアに敵意を持っている――彼はそう結論づけると、言葉を実行に移しはじめた。プーチンは国内の復興に専念する国家主義者の仮面をかぶりつつも、「国外の工作員」へと姿を変えたのである。

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鎖を解かれたロシア

 プーチンの行動能力が劇的に変化したのは、二〇〇六年夏のことだった。その年、ロシア政府は主要債権国で構成される通称「パリクラブ」への最後の国際債務をようやく完済。前年の〇五年一月にはすでにIMFへの債務を完済していたものの、プーチンから見れば、本当の意味でロシア復活が始まったのは〇六年夏だった。事実上、ロシアは諸外国や国際金融機関への財務上の足枷から解放されることになった。一九九四年、アメリカ政府は債務を武器に、バルト三国からのロシア軍の完全撤退を迫った。しかし、もうアメリカや西側諸国にそのようなまねはできない。九〇年代、クリントン政権はたびたびエリツィン政府につながった鎖を引っぱり、鎖の短さをロシア側に思い知らせた。プーチンにはもうそんな鎖はなかった。彼は新たな視点から、国家運営を担うことになったのだ。
 二〇〇六年夏、ロシアは支払能力のある主権国家になった。財務的な支払能力は、政治的主権の必要条件だった。そして〇六年以降、ロシアは文字どおり誰にも負い目がなくなった。主権という概念は、ロシアのすべての国家主義者はもちろん、プーチンにとっても核となるものだった。プーチンの考え方によると、国家には二種類あった。一つは、一握りの完全なる主権国家。歴史、文化、アイデンティティ、経済、軍事という点で、自国の利益を独立して主張できる強国である。もう一つがそれ以外の国。プーチンにとってロシアはもちろん主権国家であり、特に〇六年以降は紛れもなくそうだった。中国も間違いなく主権国家である。アメリカも明らかにそうだが、国家の主権を脅かす義務、複雑な事情、責任もあった。ロシア、中国、アメリカを除くほかの国々は、プーチンに言わせれば限定的な主権国家でしかなかった。
 たとえば、ヨーロッパのビッグ3であるドイツ、フランス、イギリスは、NATOの一員として自国の安全保障をアメリカに頼るばかりか、超国家的な枠組みであるEUに主権の一部を移譲していた。アンゲラ・メルケルやドイツとの対話のなかで、プーチンはそれを思い知ることになる。メルケル首相の補佐官たちは種々のインタビューのなかで、メルケルとプーチンの二国間会談で起きたあるエピソードをよく引き合いに出した。それは二〇〇七年五月、毎年恒例のEU=ロシア・サミットの最中にロシアの都市サマーラで行なわれた独露会談でのことだった。ドイツは〇七年上半期のEU議長国であり、サミットはその集大成ともいえるイベントだった。プーチンとメルケルはほかのEU諸国のリーダーたちとの一連の会談を終えていたが、二人が会う時点で、いくつかの議題項目が未解決だった。席に着くなり、プーチンはメルケルに向かって次のように切り出した。「さっそく本題に入って、EUの問題を片づけよう」。するとメルケルはこう応じた。「それは別の会議の問題でしょう。ドイツがEUを指揮しているわけではありません。私はヨーロッパの女王じゃないのよ。これはドイツとロシアについての会議なんですよ」。そう聞くと、プーチンは驚いたような表情を見せたという。その瞬間にドイツへのプーチンの評価が目に見えて変化した、とメルケルの補佐官たちは語った。ある補佐官によると、サマーラ会談のあと、プーチンはドイツを弱小国と見るようになったという。明らかに、彼はメルケル首相のメッセージの意味を理解できていなかった。端的にいえば、メルケルはこう伝えたかったのだろう――ドイツの力が衰えたのではなく、EUの力が強化されたのだ、と。
 プーチンは自身の観察から、同盟は国家を弱らせると結論づけた。同盟に加わらないほうがロシアのためだ、と彼は考えた。ロシアには独立と自由裁量が必要だった。それこそが主権の本質であり、自国の利益に相反する国際規定を拒絶する権利を手放すわけにはいかなかった。他国をロシアの軌道上に置く(またはそこにとどめる)ための制度的な取り決めが必要だとしても、その取り決めによってモスクワ政府が大きな義務を背負うことは避けなければいけない。それこそ、ロシアが近隣の旧ソ連諸国と築いた組織の本質といってもいい。たとえば、アルメニア、ベラルーシ、カザフスタン、キルギス、タジキスタンとの集団安全保障条約機構、ベラルーシおよびカザフスタンとのユーラシア関税同盟がその例である。プーチンは二〇一四年七月二二日のロシア連邦安全保障会議での演説で、このアプローチについての自らの立場をさらに明確にした。「幸いなことに、ロシアは何の同盟にも加盟していない。この点に、われわれの主権を守るための大きな鍵が潜んでいる。同盟に加盟する国は、たちまち主権の一部を譲り渡すことになるのだ」

外交政策の多角化

 では、同盟嫌いで主権を手放したがらないプーチンが実際に取った行動とは? 興味深いことに、二〇〇〇年代、ロシアは加盟できそうな組織、制度、クラブを見つけては次々と加盟してきた。その狙いは外交政策の多角化だった。アメリカや西側諸国との関係が悪化したことを受け、プーチンは重要な国々との関係にひびが入った場合に備えて、選択肢を増やすことに努めた。将来的な世界金融危機の衝撃に耐えられる強い経済基盤を作ると同時に、地政学的な強さを築くことに主軸を置いた。ロシアを西側諸国や国際金融機関へと縛りつける債務負担から解放されると、プーチンは二国間・多国間関係を積極的に強化していった。そうすることによって、ロシアの地位を最大化し、国内戦線を守る地理経済的・地政学的な“壁”を国の周囲に築こうとしたのである。国際組織や外交関係に対するプーチンの姿勢は、彼のアメリカ観と並行するように進化してきた。最初はさまざまな組織に参加しようとする程度だったが、次第にその組織や個々の関係を利用してアメリカの行動への抑制・阻止を試みるようになった。そして、最終的にはアメリカに対抗し、相手を弱体化させるための策を講じるようになったのだった。
 プーチンがもっとも重視するのは国連だった。ロシアは国連安全保障理事会で特権的な地位を有しており、アメリカなどの決議に対する拒否権を持つ。安全保障理事会の一員であることはロシアの安全保障と主権にとってきわめて重要であり、この理事会がほかのあらゆる組織の範例となってきた。プーチンはロシアの地位や影響力を高める国際的な組織や制度を入念に選び抜き、そのすべてに参加した。それによって、世界規模の行動規則・規範の策定に携わり、アメリカなどの主要国(中国も含む)の行動を監視し、影響を及ぼすことができるようになった。その意味でいえば、WTOはプーチンの思惑にぴったりの組織だった。一方、ロシアが“群集に紛れて”しまうような組織は優先順位が低かった。ただしアジア太平洋経済協力(APEC)のように、ロシアの広大な領土の一部地域の利益を保護する仕組みを提供してくれる組織は別だ。ほかにも、G20(国際金融制度について協議する主要経済諸国のフォーラム)やBRICS(経済成長の著しいブラジル、ロシア、インド、中国、南アフリカの五カ国)も重要だった。これらの分類は、昔ながらの「ヨーロッパ諸国の一つ」というくくりとは異なるものだった。この新たな台頭国との結びつきは、ロシアに一定の威厳をもたらした。さらに、G20とBRICS、そして上海協力機構(ロシア、中国、中央アジア諸国で創設された多国間協力組織)は、アメリカの支配下に置かれた組織ではなかった。
 こうした多国間の協定のほかに、プーチンは二国間の関係も入念に選び抜きながら構築していった。プーチンは数々のスピーチにおいて、とりわけアメリカを念頭に置いたうえで「ロシアに敵はいない」と強調し、すべての国とその指導者を「パートナー」と呼んだ。その一方で、一極支配のシステムを崩し、アメリカの地域的・世界的な影響力を薄めようとする国々と連携することを優先した。国内で「人間に対処する」ときと同じく、自ら選んだ国々に対処する際、プーチンは個人的な関係を重視した。彼は世界の主要なリーダーに的を絞り、最小限の人々に対処することを望んだ。自分と相手が二人きりでスポットライトを浴びられるよう、大統領訪問や一対一の会談を優先した。さらに、アフリカ、アジア、中南米、中東における旧ソ連時代の関係を再構築しはじめた。その過程でプーチンは、アメリカの悩みの種と見られていたベネズエラのウゴ・チャベスなどの指導者たちと個人的な関係を育んでいった。それは彼らの政策に賛同したからではなく、アメリカの影響力に対する保険になると踏んだからだった。実際、プーチンはチャベスの政策には否定的だったし、ベネズエラなどの小国の指導者と肩を並べることを快く思っていなかった。しかし、こうした小国こそが、それぞれの地域で重要な役割を担うことを彼は理解していたのである。
 ターゲットにする国や指導者を選ぶうえで、プーチンがたびたび指針にしたのがロシアの経済的利益だった。カザフスタンやウクライナなど、もともとソ連の一部だったユーラシアの国々には、いまだロシアの重要な経済部門の生産チェーンを形成する産業やインフラがあった。こうした近隣諸国はロシアにとって最優先国であり、プーチンがもっとも頻繁に訪問する国々だった。また、大きな税収やロシア国内の雇用を生み出すエネルギー部門や製造部門を担う国際企業の本社がある国々も、プーチンのリストの上位を占めた。プーチンは外交政策に関する大統領演説やロシア大使へのスピーチのなかで、優先すべき国をすべて提示し、大使たちが駐在する国々がロシアの国益全体にとってどれだけ重要かを理解させようとした。

共産主義中国への接近

 あらゆる二国間関係のなかで、ロシア外交政策の多角化の柱となったのが中国だった。二〇〇〇年から〇八年にかけて、ロシアの経済成長を後押ししたのが、ロシアの天然資源に対する中国の需要の増加だった。極東ロシアの国境付近では、人口統計的にも経済的にも、中国の存在感がロシアを圧倒的に上回っていた。ソ連時代、中露国境付近の緊張や武力衝突は、政府にとって大きな悩みの種だった。しかし、プーチン政権下で両国の関係が良好になると、地域の治安はたちまち向上した。また、中国はプーチンの政策推進をサポートすることによって、ロシアがアメリカと釣り合いを取ろうとするのを手助けしてくれた。政治的には国連という名の戦場で、地政学的には中東や中央アジアで、中国はロシアをバックアップしたのだ。世界でもっとも勢いのある中国やその周辺地域と密接な関係を築くことによって、プーチンはロシアがヨーロッパとアジアのあいだを取り持つ地政学的な調整役であり、文明の橋渡し役であるというイメージを広めることに成功した。
 同時に、中国やアジア太平洋地域との関係改善はプーチンにとって難題でもあった。彼の非公式なリーダーシップのスタイルは、集団指導体制を軸とした中国国家の形式的な構造とはうまく噛み合わなかった。そんな中国共産党とプーチンのワンマン・ネットワークの組み合わせには、必然的に限界があった。プーチンとしては、一対一で中国政府のトップを味方に付け、諸問題に対処することを望んだが、それは叶わなかった。何か重要な問題において前進を試みたければ、中国の経済、政治、安全保障システムの各部分に直接対処する方法を見つけ出す必要があった。しかし、プーチンと彼のネットワークが長期にわたって権力を握る一方で、中国の体制全体が一〇年おきに一新されるとなれば、それも容易なことではなかった。
 中国とアジアに関しては、プーチンにもクレムリンにも、そしてロシア外務省にも、頼りになる個人的人脈や仲介役がほとんど存在しなかった。冷戦中、ソ連の外交政策、安全保障、諜報に携わる精鋭たちが相手にするのは、アメリカ、ヨーロッパ、中東ばかりだった。こうしたソ連時代の偏った政策は、一九九〇年代のロシアにも引き継がれた。中国やアジアのエリートたちは、(ロシアは「ユーラシア[ユーロ・アジア]主義」をしきりに訴えていたにもかかわらず)一ミリたりともロシアを“アジア”の国とはみなしていなかったし、アジア地域の信頼できる経済的・政治的な一員ともとらえていなかった。彼らはロシアをいまだにヨーロッパに根差した国、せいぜいヨーロッパから中央アジアの一部に広がる国としか見ておらず、天然資源や武器の供給を除けば、東アジアに貢献できることはほとんどないと考えていた。
 プーチンは、中国政府との戦略的パートナーシップの重要性を公の場で盛んに説いた。中国への接近はロシアに中短期的な利益をもたらしたが、長期的に見れば明らかなデメリットもあった。中国は海軍の活動範囲を拡大しており、太平洋から始まり、ロシアが長年領海とみなしていた海域を経て、さらには北極まで存在感を打ち出すという明確な野心を抱いていた。たとえば二〇一二年、中国の巨大砕氷船〈雪龍〉が歴史的な北極圏航海および北極横断航行を開始し、その最初の行程でロシアのサハリン沖とオホーツク海を通過した。その一年後、中国海軍の五隻の艦艇が、ロシア海軍との合同軍事演習を終えて帰国する途中、初めてオホーツク海の公海を航行。これには、ロシア政府も仰天した。また、中国は中央アジアの長期的な発展に関して、ロシアとは異なる見方を持っていた。ロシア政府は旧ソ連諸国による独立した政治行動や経済行動を阻止しようとしていたが、中国政府はそうした国々の市場やエネルギー資源の獲得を狙っていた。つまり、ロシアと中国の関係は潜在的な脆さを抱えているのだ。今のところの関係は順風満帆に見えるものの、プーチンとしては、関係が悪化したときに備えて別の選択肢も残しておきたかった。一一~一二年、クレムリンへと復帰したプーチンは、中国に対する将来的なリスク回避の策として、日本との関係改善へと動き出した。

日本に保険をかけるプーチン

 戦後七〇年以上がたった今でも、ロシアと日本はいまだ平和条約を締結できずにいる。ロシア政府の呼び方でいうと「クリル列島」、日本政府の呼び方でいうと「北方領土」をめぐる領土問題が原因である。一九九〇年代、ボリス・エリツィンが二〇〇〇年までにこの問題を解決し、平和条約を締結すると約束した(そして失敗した)ことは有名な話だ。一九九三年から九八年まで、数々の二国間・多国間の作業部会がさまざまな案を出して解決策を模索したものの、それ以来は交渉がずっと暗礁に乗り上げたまま。プーチンとメドヴェージェフがタンデム体制を敷いていた二〇〇九年、二人は提案を見直しはじめ、交渉の席に復帰する準備ができたことを日本政府に伝えた。二人はこの件に関する会議に積極的に参加し、スピーチでもたびたびこの問題に言及した。しかしそんな矢先、日本の麻生太郎首相が「北方領土は第二次世界大戦中にロシアが違法に占拠した」と記者会見で発言し、ロシア側の反発を買う。〇九年、プーチンは首相という一時的な肩書きで東京を訪問したものの、その後両国の関係は冷え切っていった。さらに一〇年、メドヴェージェフが北方領土をロシア大統領として初訪問し、状況はさらに悪化。一一年、ロシアは北方領土およびその周辺で一連の軍事演習を行ない、北方領土における軍の配備を増やすことを宣言。この時点で、両国の関係はすっかり袋小路に迷い込んだかに見えた。
 その陰で、プーチンは密かに“魅力攻勢”を仕掛けていた。二〇一一年九月、大統領職への復帰の意志を発表した直後、プーチンは日本の高官たちとの会談のなかで、日本との関係改善を優先事項とする旨を伝えた。実際、ウクライナ危機が発生するまで、プーチンと日本の安倍晋三新首相は、国際的なイベントのたびに会談を重ね、個人的および外交的な絆を深めていった。ロシア政府に近づくことが不確実な将来に対するリスク回避になると考えた日本政府は、プーチンの魅力攻勢を受け入れた。一三年、日本では、東シナ海の尖閣諸島をめぐる中国との軍事衝突の脅威がきわめて高まっていた。非公式ながらも、日本の高官たちは中国のことを「一九四五年以来、日本の存続にとって最大の脅威」と評した。第二次世界大戦に関連する未解決事項によって、日本は近隣諸国とさまざまな問題を抱えている。そのため日本には、アメリカとの安全保障条約だけに頼らない外交政策の選択肢が必要だった。ある意味、新たな日露関係の主な原動力となったのは中国の脅威だった。いかなる理由があったとしても、日本政府がロシアとの関係改善に乗り気だったことは確かである。

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BRICSを足がかりに

 大統領に復帰したプーチンは、日本だけでなく、外交政策の選択肢を増やすことを望む多くの国々の思惑を利用できるようになった。特に、BRICSに属するブラジル、ロシア、インド、中国、南アフリカは、国際問題についての全般的なスタンスは異なるとしても、共通の経済的利益を抱えていた。たとえば五カ国とも、アメリカやその一極支配のシステムに一定の反感を持っていた。そして、プーチンがとりわけ重要視したのは、これらの国々が欧州大西洋地域のシステムに属さない独立した国際社会の一員であることだった。どの国もアメリカの正式な同盟国ではなく、それぞれの地域ではリーダー的存在でもあった。
 BRICSはプーチンにとって理想的な枠組みだった。何といっても、優れた“ブランド”イメージがあった。中国のような経済成長の著しい国々に、ロシアが名を連ねることは成功の証だった。わずか五カ国という規模もちょうどよかった。そして、目標が明確。すべての国が、国際的なシステムにおける欧米諸国の経済的な影響力を抑えることを求めていた。さらに、BRICSは同盟ではないので、危険な義務ではなく、ある種の地政学的な安全網を関係国に与えてくれた。BRICSを重視し、ロシアの外交政策を多角化しようとするプーチンの取り組みは、二〇一四年に大きな成果を生み出すことになる。クリミア併合の直後、一四年三月にロシアがG8から除外された際には、BRICSが緩衝材の役割を果たしてくれた。もともとプーチンは、冬季オリンピック成功の締めくくりとして、ソチでG8首脳会議を主催する予定だった。六月、残りのG7の首脳たちが代わりにブリュッセルに集まってサミットを開催したが、プーチンには痛くも痒くもなかった。数週間後の七月、彼はG7の首脳たちなど無視して、BRICSサミット参加、ワールドカップ決勝観戦、六日間の中南米歴訪に向けてブラジルに出発した。

ドイツへの賭け

 大統領に就任して以来、プーチンは一つの外交関係に固執することは危険だと気づくようになった。そのため、リスクを常に分散させ、状況悪化に備えた有事計画や代替策を用意しておかなければならなくなった。その一環としてプーチンは、ゲアハルト・シュレーダーなどのドイツの“長老”たちに近づき、ゆっくりと時間をかけて個人的な人脈を築いてきた。しかし二〇一二年に大統領職に復帰して以降、プーチンのドイツへの賭けも先行きが怪しくなってきた。原因の一つは、復帰の方法にあった。一一年九月、プーチンはドミートリー・メドヴェージェフとのタンデム体制を解消することを突如として発表し、ロシア都市部のプロフェッショナルたちを失望させた。さらにそれは、大統領時代のメドヴェージェフと密接な関係を築き上げてきた西側諸国の指導者たちをも憤慨させるものだった。
 メドヴェージェフの切り捨て方にとりわけ眉をひそめたのが、アンゲラ・メルケルだった。特に、役職の交換は前々からの計画だったとプーチンが主張すると、彼女は不快感をあらわにした。メルケル首相や各国のリーダーたちは、ロシア大統領としてのメドヴェージェフと真剣に向き合い、会談を繰り返してきた。しかし、彼の大統領就任が見せかけだけのもので、プーチンが権力の座にとどまるための手段にすぎなかったとわかると、首脳たちは侮辱された気分になった。プーチンはロシア国民だけでなく世界をも騙した、とメルケル首相は考えた。彼女の補佐官によれば、二〇一一年に行なわれた会談の最中、プーチンはタンデム体制を維持することをメルケルにほのめかしてさえいたという。それを聞いたメルケルは、自分もその体制を望むことをプーチンにはっきり伝えた。技術に精通する若いドミートリー・メドヴェージェフがトップに立ち、ロシアは着実に現代化して前進している――そうドイツ国民や国会議員に説明するほうが、メルケルとしてもずっとやりやすかった。しかし、プーチンが大統領に復帰するとなると、ロシアが前進していると説明することは難しくなる。
 二〇一三年、ドイツに選挙の時期がやってくると、当局者や国会議員たちは慌ただしく対ロシア戦略を見直しはじめた。彼らの懸念は、プーチンがロシアの大統領職を個人的な閑職に変えたという点だけではなかった。それまで自動車製造業などの分野のドイツ企業は、ロシア政府からの誘いを受けて組立工場のロシア移転を推し進めてきた。しかしドイツの産業界は、ロシアへの巨額投資の見返りや将来性に疑問を抱くようになっていた。さらに一一年一〇月、ドイツの情報機関は、旧ソ連から続く「不法入国者イリーガルズプログラム」によるスパイ活動に従事していたとして、ロシア人工作員二人を逮捕。二人はアンドレアス&ハイドルン・アンシュラークという夫婦で、プーチンのドレスデン駐在時代から二〇年以上ものあいだ、ドイツ西部のヘッセン州で暮らしながら工作活動を続けていた。この事件を機に、ソ連時代の緊張が再びドイツ国内で甦ることになった。また、二人の裁判が続くさなか、ロシアの対ドイツ諜報活動に関するさまざまな事実が明らかになった。一二年末にはドイツ情報機関BNDが、ドイツやヨーロッパにおけるロシア組織犯罪の役割に関する厳しい調査報告を発表。報告書では、キプロスに深く根づく犯罪組織の存在や、クレムリン内部者と組織犯罪のつながりなどが指摘された。
 ドイツ外務省の当局者たちが特に不満を抱いたのは、いわゆる「メーゼベルク・イニシアティブ」の失敗についてだった。メーゼベルク・イニシアティブとは、モルドバとそこから分離した沿ドニエストル共和国との紛争解決に取り組むドイツとロシアの二国間活動として、二〇一〇年に開始された活動である。欧州安全保障協力機構(OSCE)、EU、アメリカなど、多くの組織や国がモルドバの紛争解決に深くかかわってきたが、ドイツ外務省はあえてそれらの枠組みには加わらず、ロシアと組んでメーゼベルク・イニシアティブを推し進める道を選んだ。結局、数カ月に及ぶ交渉は何の成果にも結びつかず、メーゼベルク・イニシアティブはそこで頓挫することになった。一二年末になると、ロシアへの失望は政府、ビジネス界、情報当局からさらに世論へと広がっていた。当時、ドイツ国民への世論調査で、ロシアに対する好感度が二〇年間で最低を記録。メルケル率いる政党〈ドイツキリスト教民主同盟〉に所属する大物議員で、ドイツとロシアの広範な関係構築の橋渡し役を務めるアンドレアス・ショッケンホフまでもが、ロシアの政治・経済・外交政策を痛烈に批判した。ショッケンホフの報告書は、前述のドイツ情報機関の報告書と並んで、ロシア政府とより慎重で冷静な新しい関係を築こうというドイツ側の決断を促すものだった。
 このドイツの立場の転換は、プーチン個人にとって大きな打撃だった。もともと彼は、露独関係を理想的な二国間関係ととらえていた。経済(特に貿易と投資)の面の結びつきは強く、政治の面は緩いという関係だ。さらにプーチンは、欧米諸国のなかでドイツがロシアにとって最大の理解者だと確信していた。良くも悪くも、両国の運命は密接に絡み合っていた。ドイツとロシアは、二〇世紀の二度の大戦で多くの犠牲者を出した。いったん権力や地位を失い、一から国家を復活させるのがどれほど大変なことか、両国は身をもって知っていた。また、ドイツはロシア産業界に新しい技術や手法をもたらし、同時にロシアの天然ガスを大量に購入することによって、ロシア経済の現代化に大きく貢献しつづけた。しかし、ドイツ国民の態度が変化したことで、プーチンは悟った――ドイツ政府と昔のように取引したいなら、新たな関係を構築し、別の対処方法を探るしかない。

ロシアのリノベーション

 プーチンは大統領就任当初から、そしてミレニアム・メッセージのなかでも、ロシアを単なるヨーロッパ諸国の一つではなく再び強国にするため、ロシアの望む形で経済を進化・現代化させたいと明言してきた。ロシア政界の定番の言い回しを借りるなら、「ロシアを第二のポーランドにはさせない」というのが大きな指針だった。ロシアから見ると、ポーランドは大国ではあったが、二流国だった。ヨーロッパの主要国ではあったが、決定権を持つ国ではなかった。しかし、ロシアは大国、一流国、決定権を持つ国でなければいけない。これこそ、プーチンの主権に対する見方や外交政策の軸となるものである。つまり、国際社会におけるロシアの地位、尊敬に値する地位を確立することがすべてなのだ。ロシア国外では気づく人は少ないようだが、欧米の高官がロシアに対して見下すような態度を取ると、ロシアの反体制派でさえ敏感に反応し、プーチンに同情するような姿勢を見せることが多い。実際、二〇一四年四月のラジオ討論で、ベテランのロシア人ジャーナリストのエフゲニア・アリバツとゲストたちは次のように強調した。

 ……プーチンは西側諸国を訪問するたびに言われるのです――ロシア大統領、あなたの国は第二のポーランドですから、そのつもりで話をさせてもらいます、と。もちろん彼は怒り、ロシアが第二のポーランドではないこと、ロシア大統領にそんな口の利き方は許されないことを説明しようとしました。それでも、相手はその前提で彼を扱ったのです。彼が西側諸国に憤慨したのも当然です。

 公正を期すために言っておくと、この問題をややこしくしたのはプーチン本人でもある。たとえば、『プーチン、自らを語る』のなかに、「われわれはヨーロッパ人」という主旨のセクションがある。チェチェンに関する質問から始まるごく短いこのセクションのなかで、プーチンはロシアが特殊な発展の道を模索する必要はないと指摘している。「何も探す必要はない。すべてはすでに見つかっているからだ」。もちろんロシアは「多様な国」だが、同時に「西欧文化の一部」でもある。「そこにこそわれわれの価値観があるのであり、たとえ極東に住もうとも南部に住もうとも、われわれはみなヨーロッパ人なのだ」。ヨーロッパの人々も同じように考えていると思うかと問われると、プーチンはこう答えた。「われわれは自らの地理的・精神的な居場所を確立するために戦うつもりだ。そしてそこから排除されるようであれば、仲間を見つけ、自国を強化するしかない。ほかに方法はないのだから、それも当然の話だ」。これは非常に興味深い考え方だ。つまり、プーチンはこう言いたいのだろう。ロシアはれっきとしたヨーロッパの一部であり、物理的にも文化的にもヨーロッパの一部であることは間違いない。細かい部分では少しばかり修正が必要だとしても、基本的にはすべての西欧諸国と同じレベルの国である。ロシアがヨーロッパの一部でないと主張したり、ロシアを政治的にヨーロッパから締め出そうとしたりすれば、とんでもない結果を生み出すことになるだろう。ロシアには、常にほかの選択肢があるのだから。
 この考えを概念化するあるロシア語がある――家や部屋のヨーロッパ風リノベーションを意味するイェヴロレモントという単語だ。ロシアでは、豪華な見かけや機能性を求めて驚くほど高額で本格的なイェヴロレモントが行なわれることがある。しかし、そうしたリノベーションは表面的な化粧直しと理解されるのが一般的だ。見かけがフランス風の瀟洒なバロック様式に変わっても、根本的にはロシアの家のまま。キッチンやバスルームがイタリアや北欧風スタイルに改修されたとしても、ロシアの家であることに変わりはない。見かけが“ヨーロッパ”でも、核はロシアのまま。これこそ、プーチンが一九九九年以降にロシアに施そうとした「リノベーション」である。ロシアの人々は、家庭や国家というレベルでは、西側諸国にこんな印象を与えることを望んでいた――ロシアは、ピカピカの新しい照明、現代的な設備、高度な電化製品、美しい床を備えたヨーロッパの国だ、と。つまりプーチンやロシア国民が求めたのは、自分たちの「ロシア民族性」を保ったまま進化できるリノベーションだった。ロシアを欧米のほかの一流国家と同じくらい現代的な国家にすることを目指すとしても、実際にヨーロッパの国になるつもりはなかったのだ。
 ある意味、リノベーションは主権と深くかかわるものである――現代化を推し進め、状況の変化に適応していくことによって、主権を向上させる。帝政時代、スウェーデンとの戦いに敗れたあと、ロシア軍は大急ぎで火器を採用せざるをえない状況になった。同じように、現代ロシアも時代の流れや技術についていく必要があった。自由に策を講じるためには、新たな機器、新たな技術、新たな手法を絶えず採り入れていく必要があったのだ。過去から教訓を学び取り、不確実性や不測の事態、特に西側諸国がもたらす難題に備えるために労力や資源を確保すること――つまり、適応することこそがロシアにとって何より重要だったのである。

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適応という生き残り術

 二〇一二年三月の大統領選の数日前、プーチンはモスクワの選挙活動スタッフたちに向かって、「適応」に対する自身の考え方を示唆するジョークを放った。それは、インターネット上に広く出回るユダヤ人に関するジョークだった。おそらくプーチンは、モスクワの首席ラビ(訳注/ユダヤ教の宗教指導者)であるベレル・ラザルからそのジョークを聞いたに違いない。ラザルがその冗談を言ったのは、プーチンも出席した二〇〇九年のダボス会議でのことだ。二人は頻繁に会う仲で、プーチンも面白いジョークには目がないので、もしかするとプーチンはそれ以前に直接そのジョークを聞かされていたのかもしれない。ラザルがダボスで語ったジョークは、イスラエルの『ハアレツ』紙の記者によって伝えられた。「ラザルは、神のお告げの代弁者であるユダヤ教のラビ、キリスト教の司祭、イスラム教のイマームに関するジョークを語った。そのお告げとは、神が人間の罪にとうとう愛想を尽かし、今回ばかりは洪水で人類を全滅させようとしているというものだ。キリスト教の司祭は人民のところに行き、来るべき大洪水について告げ、最期の日くらいどんちゃん騒ぎで飲みまくり、罪を犯そうと伝える。イスラム教のイマームも同じだった。しかしユダヤ教のラビは人民のところに行き、こう言う――ユダヤの民よ、水中で暮らす術を編み出そう」
 二〇一二年三月にプーチンが飛ばしたジョークも内容はまったく同じで、オチも一緒だった。「ユダヤの民よ、水中で暮らす術を編み出そう」。しかし笑いが収まると、プーチンは真顔でこう言った。「われわれロシア人はユダヤ人を見習わなければいけない。水中で暮らす術を学ぶ必要があるのだ」。彼が冗談を通して伝えたかったのは、ロシアが生き残るためには適応が重要だということだった。生き残ることこそがすべてであり、そのための計画が必要だ。状況の変化に合わせて進路を変え、常に別のやり方で取り組めるようにしておかなければいけない。
 実際、ロシアの政治体制のトップに君臨するあいだ、プーチンは並外れた適応能力を発揮してきた。危機から教訓を学び、国際社会におけるアメリカをはじめとする各国の行動を観察して知見を広めてきた。これは、二〇一一~一二年のモスクワ・デモへのプーチンの対応を見てもわかることだ。一二年、(私たち自身も含め)西側諸国の多くの専門家は、もうプーチンの終わりは近いと考えていた。しかし、彼はロシアの反体制運動を制圧し、自身の政治体制を強化する方法を見つけ出した。大統領就任当初からプーチンについて積極的に報道する著名なドイツ人ジャーナリストは、一三年一一月、この点を強調するべきだと私たちに訴えた。私たち著者二人は、一三年に上梓した本書のオリジナル・バージョンの最終章で、二〇〇〇~一二年にロシアが変わったように、プーチンも変われるだろうかと疑問を投げかけた。すると、それを読んだドイツ人ジャーナリストが、「彼は学ぶ人間だ」と私たちに教えてくれた。そのジャーナリストはそれまで、プーチンと一対一で何時間にもわたり、通訳を介すことなくドイツ語でインタビューを行なってきた。プーチンが変わるかどうかはわからないが、「学んだことは実行に移す人間だ」と彼は続けた。そのジャーナリストは、大統領復帰に対する抗議活動が最高潮のときにプーチンと会ったことがあった。そのとき彼は、反体制派の今後の動きが不安かどうかプーチンに尋ねた。反対運動が大きな政治運動へとつながり、最終的にあなたを失墜させる可能性は? するとプーチンはこう言った。「ヤツらに五年与えてみようじゃないか。そうしたらまた戻ってきて、私の考えや彼らの成果について訊いてくれ」。プーチンは反体制派について詳しく調べ、すでに弱点を見つけていた。統一したリーダーシップもなければ、共通の土台もない。ただただ“プーチン疲れ”を訴え、政治的な自由を要求するばかり。そこで、彼は反体制派のリーダーたちを一人ずつターゲットに定め、一般大衆がデモ参加を躊躇するような状況を作ったのだ。
 プーチンが一九八〇年代と九〇年代にウィリアム・キングとデイヴィッド・クレランドのテキストブックを読んで学んだように、不確実性に備えることは戦略のもっとも重要な要素である。彼らのテキストブックの第三章には、有事計画や適応計画に関するセクションがある。

組織の効果的な計画には、変化する環境への適応能力が必要である。そのような適応を効率的に実現するためには、有事のための計画が必須となる……有事計画の目的は、予測するための環境上の主な仮定が成り立たなくなったり、不正確になったりした場合に、組織が取るべき行動を定めることだ。戦略的計画はその性質からして非常に主観的であり、さまざまな仮定、判断、予測に基づくものである。また、それぞれに異なるリスクや不確実性がある。その主な仮定や予測が成り立たなくなると何が起こるのか? それをじっくりと考え抜くことが重要だ。この概念は、軍の司令官という観点で見てみると理解しやすい。司令官は作戦が予想どおりに行かなかった場合に備えて、退却の計画を用意しておくものだ。しかし、軍以外ではこの考え方が広く実践されていないのが現状である……有事計画とは、次の疑問に具体的に対処するものだ――物事が想定どおりに進まなかったら?……そうした有事計画がなければ、環境の変化は大打撃を及ぼすだけでなく、組織は苦渋の選択を強いられる状況に陥ることがある。迫り来る困難を前にして、ただ指をくわえて待っているだけなのか、プレッシャーやパニックに襲われた危機的状況下での意思決定に基づいて大胆な戦略的行動を取るか、二つに一つを選ばざるをえなくなるのだ。

 要するに、不測の事態はいつやってきてもおかしくないということだ。初めから決まっていることなど一つもないし、例外もない。状況はいつでも悪化しうる。予期せぬ出来事や戦略の後退は常に起こるものだ。だからこそ、準備と有事計画が大切になる。どんな状況にも対応できるように視野を広げ、あらゆる選択肢を残しておかなければいけない。不可逆的なことはいっさいしてはならない。あとで抜け出すことのできない立場に自分を追いやるような意思決定や行動は避けるべきだ。その点、二〇一一~一二年はプーチンにとって厳しい時期だった。彼が大統領職に復帰すると宣言したとき、まったく予想もしていなかったことが起きた。物事は何一つ計画どおりに進まなかった。ロシア国内で開始された攻撃の背後には、西側諸国が隠れていると彼は信じていた。プーチンは新たな状況に適応し、状況を再びコントロールするために戦略を次々と修正せざるをえなかった。実際、〇八年にもグルジアで同じような事態になったことがあった。ドミートリー・メドヴェージェフの大統領時代にグルジアとの戦争が始まった際、裏で指揮を執っていたのはプーチンだった。

グルジア作戦

 二〇〇八年八月のロシア・グルジア戦争(南オセチア紛争)は、プーチンにとってチェチェン紛争以来となる本格的な軍事作戦だった。しかも、今回の戦場はロシア国境の外側だった。〇八年初めに欧米諸国がコソボ独立を承認し、〇八年四月のブカレスト・サミットでNATOがウクライナとグルジアの将来的な加盟を認めたことで、戦争の機運がますます高まっていった。グルジアのミヘイル・サアカシュヴィリ大統領が南オセチアの分離主義勢力に対する報復を決定すると、ついに戦いの火ぶたが切られた。ロシア軍は即座に軍事行動を開始し、まずは南オセチアでグルジア軍と対決、さらにグルジア領内へと侵攻していった。それは、ロシア政府の権威に反抗しようとするグルジアや旧ソ連諸国に向けたメッセージだった。プーチンやクレムリンの役人たちも、グルジア当局者に対して個人的にはっきりとそう伝えた。「NATO加盟を強行し、アブハジアと南オセチアを武力によって取り戻すことのないようわれわれは警告した。だが、君たちは耳を貸さなかった。君たちの西側諸国のパートナーは君たちを守ると約束したが、約束を守らなかった。われわれは警告を無視すれば大変なことになると約束した。われわれはその約束を守ったまでだ」。このメッセージはグルジアや旧ソ連諸国だけでなく、アメリカとNATOにも向けられたものだった。
 グルジア戦争は、前年二月にプーチンがミュンヘンで発したメッセージを、単刀直入かつ残忍な形で繰り返したものだった――「われわれはもう我慢の限界だ!」。しかしながら、(今回はドミートリー・メドヴェージェフによって表明された)この増強版メッセージも、アメリカ政府やNATOはミュンヘンのときと同様にしか受け取らなかった。グルジア戦争が勃発すると、西側諸国の政府は、ロシアの安全保障上の懸念を尊重すべきだと思い直すわけではなく、それまで以上にプーチンを被害者ではなく加害者とみなすようになった。プーチンから見れば、グルジア問題はチェチェン紛争での経験の再現だった。ロシアが自国の安全保障上の脅威を取り除こうとする。そのため、その行動や理由について説明しようとする。しかし、ほかの国々はロシア政府の説明を拒絶、あるいは無視する。そして、ロシアの行動を弱い者いじめだと決めつけ、近隣諸国のNATO圏へのさらなる取り込みを正当化するのだ。プーチンにとってグルジアの一件は、ロシア側の視点を理解しようとさえしない西側諸国の姿勢の新たな好例だった。今回も、それがすべて故意によるものだとプーチンは確信していた。アメリカとNATOがグルジアに関与するのは、ロシアの近隣諸国への影響力を弱めるためだ、と。
 グルジア戦争は、プーチンの思惑どおりに西側諸国に警告を与えるという点では失敗だったが、西側諸国との将来的な対立にどう備えるべきかという点で決定的な役割を果たした。プーチンと彼の側近たちは、グルジア戦争のあらゆる側面を精査した。グルジア戦争はロシア軍やクレムリンにとっての参考基準となるだけでなく、外界の反応を予測するための参考基準にもなった。アメリカの反応は、プーチンのかねてからの疑念を裏づけるものだった――アメリカの行動は、必ずしもその言葉(少なくとも、プーチンの解釈した言葉)と一致しない。アメリカのある新聞記事によれば、戦争が勃発する前に米政府の高官たちは「断固としてグルジアを支援する」と公言していた。しかし、いざ実際に戦争が始まると、アメリカからグルジアへの軍事的な支援はいっさいなかった。そして戦闘が終わると、国際社会から戦争に対する大きな政治的反発が起こったが、それも比較的短期間で弱まった。というのも、アメリカを含む多くの国々の政府筋のあいだでは、サアカシュヴィリが重要な局面で対露関係への対応を誤り、南オセチアで軍事活動を勝手に開始して自ら戦争を招いたという見方が強かったからだ。さらにグルジア戦争についていえば、アメリカ、NATO、ヨーロッパ、国連がそれぞれ別々の反応を示したことも特徴的だった。プーチンのチームにとって、この足並みの乱れは、将来的に同じような状況になったときに利用できそうな点だった。

軍事改革の弾み

 もっとも直接的な影響として、グルジア戦争はロシア軍の改革の強化に弾みをもたらした。当初、西側諸国の一部はグルジアにおけるロシアの成果を好意的に評価した。「アフガニスタンで屈辱を味わったロシア軍とは似ても似つかないし、自分たちを守るためにチェチェンを叩き潰したロシア軍とも違う」とあるペンタゴン関係者は述べた。別の関係者は「本物のロシア軍が帰ってきた。間違いなく脅威になる」と指摘した。しかし実際のところ、ロシア軍はグルジアでそれほど立派な振る舞いを見せてはいなかった。ロシアは二〇〇六年以降、グルジアとの国境に程近い北コーカサス軍管区で大規模な軍事演習を行ない、不測の事態に備えて訓練をしてきたが、〇八年時点ではまだ新しい軍事作戦の準備が整っていなかった。そのため、突如として戦争が始まると、昔ながらの人海戦術に頼るしか選択肢はなかった。
 戦争後にロシアの指導者たちが出した公式声明は、どれも自信に満ち溢れたものだった。戦争からわずか数カ月後、ドミートリー・メドヴェージェフ大統領は議会への年次演説に「紛争の教訓」というセクションを盛り込んだ。ロシアはグルジアで勝利を収め、ついにこの国が復活したというメッセージを届けることができた、と彼は誇らしげに語った。さらに、八月のグルジアとは違う時期または場所でロシアの新たな力を発揮する準備を進めていたことを示唆しつつ、メドヴェージェフはこう説明した。「八月の危機は“審判の瞬間”の到来を早めたにすぎない。現にわれわれは、グルジアの現政権の支援者たちを含めた多くの人々に対して、ロシア市民を守る力があることを証明したのだ。そして、ロシアの国益を守る力があることも」
 その一方で、軍の能力がまだ不十分だという見方もあった。同じ演説のなかで、メドヴェージェフは作戦上のいくつかの「大失敗」について言及し、軍の指導部に「重要な教訓」として心に刻むよう促した。それは、西側諸国の専門家なら呆れてしまうような失敗だった(もちろん、ロシアの専門家もそうわかっていた)。時にロシア軍は恥ずべき失態を犯した。通信が途絶えると、兵士は自分の携帯電話を使って命令を受けなければいけなかった。ロシア軍の戦車には夜間照準器が搭載されていなかった。グルジアの対戦車兵器からの攻撃に耐えるために設置された反応装甲は使い物にならなかった。カナダ人ジャーナリストのフレッド・ウィアーは、『クリスチャン・サイエンス・モニター』誌にこう記した。「南オセチアに進攻するロシア軍は、グルジア軍の大砲の位置や部隊の配置についての基本的な情報さえ持ち合わせていなかった。そのため、先頭部隊の一部が待ち伏せ攻撃に遭って大きな犠牲を払うことになった……何とか情報を得ようと、電子偵察型のツポレフTu-22Mバックファイア爆撃機を戦場の上空に送り込んだが、撃墜されてしまった。結局、予想以上に優秀なグルジアの防空技術に阻まれ、三機のスホーイSu-25攻撃機を含め、ロシアは計四機の航空機を失った」。つまり、グルジア作戦はある種の虚勢だった。その虚勢が見破られなかったのは、ロシア側にとって幸運なことだった。
 プーチンと彼の安全保障チームは、次なる軍事衝突は回避できないと考えており、すぐに準備を進めた。二〇〇八年のグルジア戦争が終結して文字どおり数日後から一三年までのあいだ、ロシアはグルジアの教訓をもとに、軍の全面的な見直しや改革に取り組んだ。改革プロセスは二つのレベルで進められた。一つは非常に表向きのレベルで進める改革で、目的は最大限の注目を集めること。もう一つは水面下のレベルで行なわれ、西側諸国の目が届かない場所で進む改革だ。クリミアとウクライナでロシア軍が力を発揮したのは、二つ目の水面下のレベルでの改革の成果だった。

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表向きのレベルでの軍事改革

 一九九〇年代、プーチンは軍事改革に大きな関心を寄せていた。そんな彼が本格的に改革に着手するまで、これほど長く待ったというのは実に意味深いことだといえる。世界のほかの指導者と同じように、当然ながらプーチンにとっても国防は重要な懸念事項だった。しかし、大統領に就任したばかりの最初の数年のあいだ、それは最優先すべき懸案ではなかった。プーチンは、ロシアがさまざまな面で脆弱であることを把握し、もっと急を要する分野がほかにあることに気づいていた。たとえば、ロシアの財政再建と対外債務の完済は、二〇〇〇年代初めのプーチンにとってもっとも重要な課題だった。その後、プーチンが国防分野の改革に取り組むようになったのは、軍の弱さに懸念を抱いたからという理由のほかに、軍事費の増大に歯止めをかけるという狙いもあった。
 二〇〇七年二月にプーチンは、〇一年から国防大臣を務めていたセルゲイ・イワノフの後任として、アナトリー・セルジュコフを抜擢した。新大臣のセルジュコフはイワノフとは好対照だった。イワノフはKGB出身の将軍だった。しかし、セルジュコフは完全なる文民出身で、直近まで閣僚級の役職である連邦税務庁長官を務めていた人物だった。イワノフはプーチンと親交の長い仲間であり、いわゆる側近グループの一人だった。対照的に、セルジュコフはプーチンとの個人的なつながりをほとんど持っていなかった。しかし、彼の義父が重鎮のヴィクトル・ズブコフだったため、軍上層部に恐怖を植えつけるだけの権力は持っていた。つまり彼もまた、秘密の財務情報を掌握するプーチンの部下の一人だったのである。
 セルジュコフの当初の任務は、軍事部門の腐敗を止め、軍の財政を健全化することだった。ところが、グルジア戦争後に新たな軍事改革が始まると、その目的が変化した。それまでの改革計画と同様、二〇〇八年の軍事改革でも大げさな言葉がずらりと並んだ。その内容の大部分はアメリカにおける議論と酷似するもので、実際にロシアが詳しく研究を進めていたアメリカの軍事政策に関する文書から直接引っぱり出してきた言葉もあった。たとえば、「ネットワーク中心の戦い」「サイバー戦争」「情報戦」「統合作戦」「統合司令」といった専門用語だ。しかし最後には、過去の取り組みと同じように、改革の目的は一つの重要問題へと絞られていった――大きく膨れ上がってバランスを欠いた軍の人員問題に、どう対処するべきか。この問題を解決して初めて、時代遅れで低品質な設備の交換などのほかの重要問題に着手できるようになる。つまりセルジュコフの仕事は、数十万の人員を削減し、旧ソ連式の大量動員型の軍を、スリムで機動力のあるプロ集団へと生まれ変わらせることだった。そうして軍が小型化すれば、新たな兵器や現代的な訓練方法を導入できるようになると考えたのだ。
 三年間続いたこの改革が終わると、軍の人員削減と構造改革は滞りなく完了したという安堵感がロシアの政治の世界に広がった。セルジュコフの改革中に参謀総長を務めたニコライ・マカロフは、二〇一二年一月のスピーチにおいて将校団のあいだに広がる感情を代弁し、「ようやく改革の話をやめる時がやってきた。さあ、兵器の話をしよう」と語った。一二年初めのプーチンも同様だった。三期目の大統領選に向けた選挙運動中、今後は軍需産業の現代化に集中的に取り組むことになると彼は宣言。一二年五月、再選したプーチンはすぐさま公約どおりの大統領令を出した。それは、軍の活動を向上させ、最新式のハイテク兵器を開発・調達するという命令だった。
 同時に、多くの問題も露呈することになった。二〇〇八年の軍事改革は、ロシア史上最大規模の改革だとみなされることが多かった。にもかかわらず、実際に一二年に改革が終わったとき、現代的な戦闘部隊が誕生したと一〇〇パーセント胸を張って主張できる者は、ロシア国内外に一人もいなかった。改革が始まった当初に存在した問題は、相変わらず残ったままだった。たとえば、汚職や調達関連のスキャンダル、不適切な予算管理、低品質な兵器の生産、人口統計的なバランスの欠如、質の低い訓練、労働市場の問題……。改革を終えても、グルジア作戦当時を上回る軍はできあがっていない、というのが大方の評価だった。
 こうした意見が劇的に変化したのが、二〇一四年三月、クリミア半島でのステルス軍事作戦のあとだった。突然、多くの記事のなかで、ロシアの“新しい”軍を高く評価する西側諸国の専門家の意見が取り上げられるようになった。専門家たちは、ロシア軍の能力がグルジアのときと比べて大きく進歩したと口を揃えた。今回、ロシア軍は驚くほどプロフェッショナルになった、と。こういった記事では、ロシアの新たな軍事能力だけでなく、クリミアで展開されたまったく新しい戦争の方式についても言及された。それは「特殊な戦争」「非線形の戦争」「ハイブリッド戦争」と呼ぶにふさわしいものだった。

密かな変化――攻撃は最大の防御

 元ロシア大統領経済顧問のアンドレイ・イラリオノフをはじめとする一部の観測筋は、実際に戦争が起きるずっと前から、プーチンはグルジアやウクライナと戦争をするつもりだったと主張してきた。毎度のことながら、プーチンが行動を取ると決めた正確な時期を断言するのは難しいし、彼の考えがいつごろ大きく変化したのかを特定するのも難しい。有事計画の重要性をしきりに訴えたプーチンは、変化する状況への対応・適応策を常に用意していた。事実、ロシア軍は北コーカサス軍管区や西部軍管区において、その後のグルジアやウクライナの戦争での出来事を彷彿とさせるシナリオを含む軍事演習を定期的に行なっていた。しかし表向きには、プーチンが新たなタイプの戦争を計画している兆候はまったく見られなかった。二〇一二年を通して、プーチンがロシアの国防政策の転換を示唆したことはなかった。たとえば、選挙運動の一環として発表された一二年二月の軍事政策に関する記事でも、五月の国防関連の二つの大統領令のなかでも、プーチンの訴えはきわめて一般的なものでしかなかった。しかし同年一〇月、彼はロシア国防法の改正案を提出。それは、国防に関してより直接的な権力を大統領に与えるものだった。いわば、彼は指揮系統を統一したのである。同じころ、プーチンは国防計画に関するまったく新しい文書の策定も求めたが、その言葉はどれもあいまいなものだった。
 今から振り返ってみると、ターニングポイントとなったのは、プーチンが二〇一二年一一月に国防大臣のアナトリー・セルジュコフと参謀総長のニコライ・マカロフを同時に解任したことだった。プーチンは再び自身の側近に目を向け、新国防大臣にセルゲイ・ショイグを任命した。彼は軍事機関にも似た非常事態省の大臣を一一年間にわたって務めた将官である。そして何より、プーチンにとって政府内の数少ない友人の一人だった。シベリア南部のトゥヴァ共和国出身のショイグは、プーチンの夏の旅行で事実上の同行者兼ホスト役を務めた人物だった。プーチンが上半身裸で釣り、ハンティング、乗馬を楽しんだことが大きく報道された前述の旅である。一方の参謀総長には、ワレリー・ゲラシモフが任命された。彼は経験豊富な戦車指揮官で、チェチェン紛争で重要な司令塔としての役職を務めた人物だった。「プーチンの腹心の部下」であるショイグが抜擢されたのは、プーチンと国防省の官僚たちとのあいだに密接な個人的関係を築く役割を期待されてのことだと見られていた。一方のゲラシモフは、別の重要な人々――現場で働く制服組の軍人たち――への橋渡し役としての活躍が期待されたようだ。ゲラシモフ新参謀総長の任務は、のちにクリミアで展開されることになる軍事防衛・動員の新たな計画を策定・実行することだった。また、そういった新たなアプローチを公の場で発表するのも彼の役目だった。実際、一三年一月、彼は軍事関連の会議のスピーチでその役目を果たした。その際、ロシア軍は二一世紀の現実と向き合う必要があるとゲラシモフは宣言した。

 現在、世界じゅうで“新種の戦争”が行なわれており、政治的・戦略的な目標を実現するため、非軍事的な方法がますます多用されるようになった……戦いにおける手法の重点は、政治、経済、情報、人道主義などの非軍事的な手段を大々的に駆使し、住民たちの抗議活動を利用して実行に移すという方向へとシフトしつつある。そのすべてを補うのが水面下の軍事施策だ。これには、情報戦争や特殊作戦部隊の活動が含まれる。あからさまな武力の行使は、たいてい平和維持や危機管理という大義名分のもとに、一定の段階でのみ行なわれる。主として、紛争での成功を確かなものにするために利用されることが多い。

 クリミア事変のあとで振り返ってみると、ゲラシモフの言葉は実に不吉だ。しかし当時、彼の発言は目新しいものではなかった。長年、軍民を問わずロシアの人々は、アメリカがこの種の戦争をロシアに仕掛けようとしていると主張し、そのさまざまな手法を非難してきた。しかしスピーチの後半になると、ゲラシモフの発言はそれまでとは異なる新しいものに変わった――生き残るためには、ロシアもこの種の戦い方にシフトしなければいけない。彼の発言はまさに、「水中で暮らす術を編み出そう」というプーチンのジョークの軍事版だった。時代は変わった。状況は深刻だ。ロシアには適応が必要である。ただ指をくわえて状況を見守り、「二一世紀の新種の戦争」について愚痴を言っているだけでは済まされない、というのがゲラシモフのメッセージだった。ロシアは相手と同じ手法で応戦できるよう、軍を組織する必要があった。さらに、アメリカやその同盟国との軍事力や経済力の格差を考えれば、ロシアは相手よりも効率的かつ積極的に、より賢く戦うことを求められた。
 この段階では、ロシアが実際に攻撃的な軍事行動を開始する兆しはなかった。ゲラシモフの発言は、単に「ロシアが“領土防衛”のために何をする必要があるか」という観点から述べられたものに思われた。しかし二〇一四年七月、イギリスの安全保障問題の専門家マーク・ガレオッティは、ゲラシモフは相手を惑わすような言葉遣いをあえて選んでいたと指摘した――「防衛」という言葉は「隠語的な意味で使われた」。ガレオッティによれば、ゲラシモフのスピーチは明らかに攻撃的な政策を主張したものだった。つまり、「軍事活動、諜報活動、情報活動の密接な連携を必要とする新たな戦争方式」を採る可能性を示したものだった。
 ゲラシモフのスピーチから一年後に起きたクリミア危機のあと、ガレオッティは今いちどそのスピーチを振り返って分析し、こう結論づけた――ロシア国家のシステムのあらゆる要素が、二〇一四年のクリミアとウクライナの作戦で一定の役割を果たした。まず、クリミアで先陣を切ったのはロシア連邦軍参謀本部情報総局(GRU)だった。戦域がウクライナ東部に移ると、FSBが最前線に立って「ウクライナの保安機構に侵入し……離反を促し、ウクライナ政府の計画を監視した」。ロシア内務省が「ウクライナ当局者とのコネを利用して潜在的な工作員や情報源を見つけ出す一方で、ロシア軍は最大限の効果を得るために国境付近で大いに武力を誇示した」。ロシアのメディアや外交筋は「キエフの“バンデラ派”政府に違法で残虐というレッテルを貼るキャンペーンを続けた。サイバースペースも例外ではなく、“愛国的なハッカー”がウクライナの銀行や政府のウェブサイトを攻撃した」。ウクライナでのロシアの作戦は新たな「非線形の戦争」を見事なまでに体現化したものだった、とガレオッティは強調した。「ゲラシモフも述べるように……戦争は至るところで行なわれているのだ」
 軍事、諜報、情報手法を総動員させて戦争を行なう必要がある、などと発言したロシア軍のトップは、ゲラシモフが初めてだった。少なくとも表面的には、ゲラシモフは典型的な兵士のなかの兵士だった。その点こそが、かえって彼のスピーチや政策の変化の過激さを際立たせた。一介の戦車指揮官が、非軍事的な政治的手段がメインとなる包括的・戦略的な抑止策の必要性を訴える――それは革命的としかいいようがなかった。
 二〇一四年に入っても、ゲラシモフはロシアの新政策について熱弁をふるいつづけた。一年前にも出席したロシア軍事科学アカデミーの会議のなかで、彼は前年と同じ考えを繰り返した――二一世紀の戦争でまず利用されるのは非軍事的な戦闘(「国際的なNGO」の支援によって繰り広げられる政治戦・情報戦)であり、軍事的な戦闘はそのあと。では、ロシアが自国を守り、敵国が軍事的な段階へと進むのを抑止するにはどうすればいいのか? ゲラシモフはこう続けた。

 軍事衝突を回避するには、国家機構全体にわたる包括的かつ戦略的な抑止策が必要だ。これを実現するために不可欠なのが、軍事、情報、その他の方策と密接に結びついた政治外交的・対外経済的な政策である。こういった戦略の主たる目的は、ロシア連邦やその同盟国にいかなる形の圧力をかけても無駄だ、と潜在的な攻撃者に知らしめることにある。

軍事演習としてのウクライナ

 二〇一三~一四年のウクライナ危機では、ロシアの軍事政策のアプローチが全面展開することになった。親露派のヴィクトル・ヤヌコーヴィチ大統領が突然キエフを脱出し、ウクライナの政権が転覆し、ロシアの立場が危うくなると、(ゲラシモフの言葉どおり)プーチンは西側諸国の介入を抑止する必要に迫られた。攻撃的な作戦を通じて、ロシアが二一世紀の戦争にどれだけ強いかを示さなければいけなかったのだ。しかし、危機が広がりを見せはじめた一三年末、プーチンは問題に直面した――その時点では、ロシアに必要な戦力はまだ揃っておらず、いまだ発展途上にあった。一四年三月のクリミア併合後のプーチンのあらゆる動きを見ればわかるように、その後の紛争はロシアにとって事実上、二一世紀の戦争に向けた一つの巨大な軍事演習となった(この点についてはあとで詳しく解説する)。彼は実世界のインプットとシミュレーションのインプットを組み合わせ、ロシアの戦力を継続的に成長させたのだ。
 ここでいう「インプット」とは、シナリオに沿った図上演習や軍事演習で使われる専門用語である。演習の指揮官は新たな情報(インプット)がふんだんに含まれたシナリオを参加者に示し、正しい意思決定ができるかどうか、彼らの決定が状況の変化に適応できるしっかりしたものかどうかを検証する。演習の「評価」の部分では、参加者がこうした「新たなインプット」にどう対応できたかに注目する。プーチン、ロシア軍、保安当局、政治・経済の司令チームにとっては、ウクライナ危機のあらゆる出来事や進展がシナリオの新たなインプットになった。実際の作戦であれ正式な軍事演習であれ、部隊や司令官は本番を想定して配置に就いた。そのため演習の指揮官は、実世界とシミュレーションの両方のインプットを別々に見つつも、同じ視点で評価することができた。部隊、組織、リーダー、司令官はどのように行動したか? 特定の新しいインプットにどう対応したのか?
 実際、ウクライナ危機について述べるプーチンのスピーチには、彼なりの図上演習という考えが反映されていた。二〇一四年五月一四日、軍需産業の代表者や軍指導部との会議に出席したプーチンは、半年前に開かれた同じような会議の話し合いの内容を参加者に思い出させた――国防調達計画、つまり新しい兵器システムの生産と軍への引き渡しスケジュールについてだ。ロシア軍需産業は西側諸国から制裁を受けていたため、調達計画は明らかに見直しが必要だった。「こういう場合によくある表現を使うとすれば、シナリオに新たなインプットが加わったということだ。輸入代替の問題の解決を必要たらしめる新たなインプットがね」とプーチンは言った。要するに、「よし、新たな事態が発生した。君たちのお手並み拝見といこう」と言いたかったのだろう。プーチンの部下たちも同じ言い回しを用いた。ウクライナ東部の分離派がドネツク地域の独立の是非を問う住民投票を行なうことを決めると(プーチンは表向きには住民投票を控えるよう訴えた)、一四年五月八日、プーチンの大統領報道官ドミートリー・ペスコフは、この出来事をウクライナ情勢の「新たなインプット」と呼び、「詳しい分析が必要だ」と付け加えた。さらに、ウクライナ紛争に伴い、ロシア領内ではさまざまな分野で継続的な軍事演習が行なわれた――宇宙・ミサイル部隊、核部隊、特殊部隊、従来型の軍部隊、心理作戦チーム、政治工作員チーム。こうした演習には、軍や保安当局、政府指導部のあらゆる部門が参加した。そして、クレムリンがこっそりと発表したように、プーチンは、ウクライナの外からこの巨大な図上演習を「実戦モードで」監督したのだった。
 プーチンが二〇一四年のウクライナを軍事演習や訓練場の一つとして扱わざるをえないのは至極当然のことだった。ゲラシモフの提唱する二一世紀の新たな戦争方式には、新しい兵器が必要だった。そうした兵器の大半は非軍事的なものだったが、開発や配備のサイクルは軍事兵器とよく似ていた。まずは研究開発に始まり、限定的な生産、テスト、配備、そしてさらなるテストへと続く開発サイクルが必要になる。次に、新たな兵器を戦争戦略に取り込み、さまざまな状況に適応させ、さらに洗練させていかなくてはいけない。そして、(〇八年のグルジア戦争時と同じように)準備万端になる前にウクライナ戦争が始まったため、ロシアはリアルタイムで兵器の開発を進める必要に迫られた。
 ロシアが二〇一四年のウクライナで取った攻撃的な行動はすべて、何らかの形で新たな戦争の軍事的、政治的、経済的な兵器の開発や配備と結びついていた。ゲラシモフの言葉を借りるなら、プーチンは「ロシア連邦やその同盟国にいかなる形の圧力をかけても無駄だ、と潜在的な攻撃者に知らしめる」ため、シミュレーションだけでなく実世界の軍事作戦を通じて、そうした兵器に磨きをかけていった。ウクライナ作戦の根底には、「攻撃は最大の防御」という前提があった。「軍事、情報、その他の方策と密接に結びついた政治外交的・対外経済的な政策」によって、西側諸国が軍事行動に出るのを抑制できると考えられていたのである。

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