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ナボコフ・コレクション 賜物 父の蝶

ウラジーミル・ナボコフ/著 、沼野充義/訳 、小西昌隆/訳

6,270円(税込)

発売日:2019/07/29

  • 書籍

ロシア語時代のナボコフ最高傑作に蝶への情熱に満ちた初邦訳の短篇を付す。

ロシアから亡命し、ベルリンに暮らす駆け出しの詩人フョードルは、祖国への郷愁、鱗翅学者の父への追慕、急進的知識人の伝記執筆、ジーナとの恋愛を通じて芸術家へと成長していく。言葉遊戯を尽くし、偉大なるロシア文学作品の引喩に彩られた「賜物」と、その関連作品としてナボコフの死後に発表された「父の蝶」を収録。

目次
賜物 Дар
英語版への序文
父の蝶 Отцовскиe бабочки
作品解説
ウラジーミル・ナボコフ略年譜

書誌情報

読み仮名 ナボコフコレクションタマモノチチノチョウ
シリーズ名 全集・著作集
装幀 新潮社装幀室/デザイン
発行形態 書籍
判型 四六判変型
頁数 640ページ
ISBN 978-4-10-505609-4
C-CODE 0397
ジャンル 文芸作品
定価 6,270円

書評

遥か彼方の

野中柊

 ときおり気まぐれにページを捲り、ふと心惹かれた文章をあらためて読んでみる、そんな本が何冊かある。たとえば、『ナボコフ自伝 記憶よ、語れ』だ。この本をはじめて手にしたのは、十代の頃? いや、二十代になっていただろうか。いったい、いつサイドラインを引いたものか、色褪せかけた赤インクの、すこし震えた線の脇には、こんなセンテンスがある。「私は自分がだれかを愛していると思うと、つい自分の愛を――自分の心を、自分のなかのいちばん敏感な核を――宇宙のはるかかなたの地点と直線で結びつけてしまう。」もう何度も読んで心に刻んだはずなのに、ナボコフの言葉は、そのつど、わたしのからだに真新しく響く。
 同書にて、ナボコフは「率直に告白するが、私は時間の存在を信じる者ではない。」と書いているけれど、その独自の時間感覚にもとづいて綴られた過去は、現在よりよほどくっきりとした輪郭で目の前に現れてくるようで、ことに光や色彩の描写の美しさ、鮮やかさには驚いてしまう。この著者にとって記憶というのは、もはや存在しないのかもしれない遥か彼方の星を、その光彩をたどって見極めるための高性能のテレスコープのようなものなのだろうか。
 だからこそ、この文章を読んだときには、胸を突かれる思いがした。「ロシアから救い出してきた唯一の財産――ロシア語――を外国語の影響で忘れたり、損なったりしないかという心配は本当に病的なほどだった。それは二十年後英語の散文をロシア語の域まで高めることができなくて経験する不安よりもはるかに強い不安だった。」
 ロシア語と英語のバイリンガル――いや、フランス語での執筆も可能だったというから、トライリンガルの亡命作家であるナボコフは、軽々と異言語の垣根を超えて、流麗に言葉を操り、緻密な作品を生み出してきたようにみえて、その実、日々、不安に慄いていた。そう思って読むと、『賜物』は、いっそうせつなく面白い。英語で書かれたメモワール『記憶よ、語れ』の刊行から遡ること十四年前に、ナボコフが『マーシェンカ』『キング、クイーン、ジャック』『絶望』など何作もの小説をものしたあとで、ロシア語で執筆した最後の長編小説である。
 主人公は、フョードル・コンスタンチノヴィチ・ゴドゥノフ=チェルディンツェフ。ロシア革命により祖国を追われた二十代半ばの貴族の子息で、ベルリンで亡命生活を送っている。文学を志す一方で、蝶やチェスを愛好。くわえて敬愛する父を失ってしまったという点においても、自伝的小説であるように読める――が、ナボコフ本人は、それをあくまでも否定している。この作品において伝えようとしたのは自らのことではなく、ロシア文学についてなのだと言いたかったのかもしれない。なにしろ、作中のあちこちに宝石のようにロシアの小説や詩からの引用を鏤めたうえに、英語版の序文には「そのヒロインはジーナではなく、ロシア文学である。」と書いているのだから。ちなみに、ジーナはナボコフ夫人・ヴェーラを彷彿とさせる、フョードルの運命の恋人だ。
 父も祖国も失い、いずれロシア文学も、この世界からなし崩しに失われゆくのではないか、という畏れと危惧――この小説を執筆しているさなか、実はナボコフはただひとり、ここではない未来に生きていたのだとしたら? 『賜物』とタイトルを付けられた、この作品は遥か彼方の星のような過去であり、記憶であり、今まさに失われようとしているたいせつなものを、断じて失わないための祈りの装置だったのかもしれない、と考えずにいられなくなる。
 なお本書には、『父の蝶』が併録されている。フョードルの少年時代の追想が、鱗翅類学者だった父への思慕、蝶や蛾、進化や分類学についての論考とともに語られている。未完の草稿のまま、ナボコフの生前には発表されなかったものだ。あきらかに『賜物』と深い関わりがある、どこか謎めいた佇まいの短編小説が、いつ書かれ、なぜ完成されることがなかったのか諸説あるようだが、いつか読みたいと思っていた作品を、ついに手にすることができて嬉しい。「私が朝真っ先に外を見るのが太陽のためだったとすれば、それは、太陽が出れば蝶が出てくるからだった。」と、ナボコフの記憶が語るところの美しい文章を、また思い出してしまった。

(のなか・ひいらぎ 作家)
波 2019年8月号より
単行本刊行時掲載

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著者プロフィール

(1899-1977)1899年、サンクト・ペテルブルグで貴族の家に生まれる。1919年、ロシア革命により家族で西欧に亡命。ケンブリッジ大学卒業後、ベルリン、パリと移り住み、主にロシア語で執筆活動を続ける。1940年、アメリカに移住。ハーバード、コーネル大学などで教育、研究に携わる傍ら、英語でも創作活動を本格的に始める。1955年に英語で発表された『ロリータ』が大センセーションを巻き起こし、教師の職を辞す。1962年、スイスのモントルーに居を定め、1977年、78歳で死去。

沼野充義

ヌマノ・ミツヨシ

1954年東京生まれ。東京大学教養学部を卒業、ハーバード大学スラヴ語スラヴ文学科に学ぶ。東京大学教授。著書に『チェーホフ 七分の絶望と三分の希望』(講談社)、訳書に『ナボコフ全短篇』(作品社、共訳)、スタニスワフ・レム『ソラリス』(国書刊行会)など。

小西昌隆

コニシ・マサタカ

1972年神奈川生まれ。早稲田大学文学部卒業。同大学大学院文学研究科博士課程満期退学。専門はロシア文学。獨協大学非常勤講師。論文「パラドックスと無限」(『書きなおすナボコフ、読みなおすナボコフ』研究社所収)など。

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