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夕映え天使

浅田次郎/著

1,540円(税込)

発売日:2008/12/19

  • 書籍

まさに人生、まさに小説! 浅田次郎、本年唯一の短編集いよいよ刊行。

さびれた商店街の、父と息子二人だけの小さな中華料理店。味気ない日々を過ごす俺たちの前に現れた天使のような女・純子。あいつは線香花火のように儚い思い出を俺たちに残し、突然消えてしまった。表題作「夕映え天使」をはじめ6編の短編を収録。特別な一日の普通の出来事、日常の生活に起こる特別な事件。人生至る所にドラマあり。

  • テレビ化
    浅田次郎ドラマスペシャル 琥珀(2017年9月放映)
目次
夕映え天使
切符
特別な一日
琥珀
丘の上の白い家
樹海の人

書誌情報

読み仮名 ユウバエテンシ
雑誌から生まれた本 小説新潮から生まれた本
発行形態 書籍
判型 四六判
頁数 256ページ
ISBN 978-4-10-439403-6
C-CODE 0093
ジャンル 文芸作品、文学賞受賞作家
定価 1,540円

インタビュー/対談/エッセイ

天から「箱」が降ってくる!?

浅田次郎

一年八ヶ月ぶりに短編集『夕映え天使』(「夕映え天使」「切符」「特別な一日」「琥珀」「丘の上の白い家」「樹海の人」の六編収録)が刊行された、浅田次郎氏。新刊に収録された作品について、長編と短編の違い、発想の過程など、お話を伺いました。

――このたび刊行された『夕映え天使』は、浅田さんにとって、久しぶりの短編集となりますね。

 短編はけっこう書いているつもりですが、『中原の虹』のような長いものが挟まった関係で、今回は思いがけなく出版の間が空いてしまいました。別に配分して、長編と短編を書き分けているわけではないのですが、デビュー以来、これだけ小説を刊行する間が空いたのは初めてです。そういう意味で、僕にとっては充実感のある短編集になったと思っています。

――浅田さんは、長編をお書きになる一方で、「鉄道員ぽっぽや」をはじめ、短編を数多くお書きになっていますが、ご自分ではどちらが書きやすいのでしょうか。

 小説家には、短編向きか長編向きかという向き不向きが本質的にあります。最初に、「鉄道員」で直木賞を取ったということもあるのか、なぜか、短編をずっと書き続けていかなければならない運命になってしまいました。でも、自分の体質が短編向きか長編向きかと言ったら、性格的には長編向きだと思っています。ゆっくり、ゆったりと物を考えるのが好きなんですね。小説も『戦争と平和』や『チボー家の人々』といった、長くて、面白くも何ともない小説をだらだら読むのが好きで、子供のころからそうでした。そういう、自分の読み筋が昔からあって、短いものより長いものが得意だと思っているのですが、「鉄道員」のたたりがいまだにあるのか、短編小説を書かざるを得なくなってしまいました。そして、短編を書いているうちに、短編小説を書くことが自分の使命だというような錯覚を起こしてしまったのか、今でも短編を書いている、という次第です。

――ご自分は、長編向きではないかとおっしゃいましたけれども、浅田さんにとって短編小説はどういう位置にあるのでしょうか。

 短編小説というのは、スポーツにたとえれば、一〇〇メートル走です。それに引きかえ、長編小説はマラソンで、使う筋肉が違う。だから、『夕映え天使』で難しかったのは、長い物をずっと書いて連載している間に短編の仕事が入ってきたことでした。トラックで長距離の練習をしているときに突然監督からお呼びがかかって、「おい、ちょっと一〇〇メートル走れ」と言われたようなもので、長編を書きながら短編を書くというのは戸惑うんです。シリアスなものを書いていてお笑いを、時代物を書いていて現代物をというケースは問題ない。でも、考え方も、小説のつくり込みも、文体も、短編と長編では、おのずと違うんですね。

――浅田さんがこれまでにお読みになった数多くの短編の中で、お手本にした作品はありますか。

 これがお手本というような考え方は努めてしないようにしています。職業作家である以上は、誰かのエピゴーネンになってはならないという気持ちがいつもありますからね。ただ、若い時分には、これがお手本だと考えたものは幾つもありました。例えば、何度も読み返して心に残っている小説が、カポーティの『ミリアム』という小説です。短編小説としての肝をしっかりつかまえている感じがあって、「鉄道員」は、その影響を、わずかながら受けています。
 この人は短編がうまいなと思ったのは、芥川龍之介永井龍男さんですね。芥川の文章は、短編小説としてお手本の文章です。今でもその文体は決して古くないし、極めて明晰で知的で美しい。あの文章には憧れます。また、永井さんの一瞬をさっと切り取るような、短編のつくり方はいまだにまねができない。僕の短編を、永井さんの短編と比較してみると、僕の短編は長い話にもなるのに、それを縮めて書いている感じがある。でも、本当の短編の筋肉を持っている作家は、ある瞬間というものをスパッと切り取って小説にする。あのコツが、僕にはいまだにわからないんです。だから、自分の短編を読み直してみて、しばしばもったいないなと思うことがありますよ。これを何で五〇枚で書いちゃったんだろう、三〇〇枚か四〇〇枚になるのにな、と。今回の短編集に収められた「琥珀」という短編もその一つです。

――浅田さんは、作品の発想をどのように得られているのでしょうか。

 僕は、アイデアにはあまり不自由しないので、なるべく頭の中で温めないようにしています。温めていると、かえって、書くパッションが衰える。作品のアイデアは、惜しげなく使っていく。そうすれば、また次のものが出てくる。そういう感覚で書いています。だからアイデアがドーンと落ちてきたら、それを一気に出した方がいい。深く深く考えれば、それだけいいものになるかというと、そうでもない。一番大切なのは、そのとき、それを担保している情熱です。だから、一年も前から連載小説のテーマはこれだと決めておいて、資料も集めて読み込んで、連載開始の直前に変わってしまうということがよくあります。どんなに積み重ねた資料や自分のストーリーよりも、情熱の方がずっと物を言う。
 小説というのは自分で考えるものではなくて、誰かからもらうものですね。天から降ってきたものをもらうのだというふうに思います。ストーリーのディテールに関しては考えて絞り出すことはあるけれど、じっくり考えて思いついたものなんてない。小説全体の形は箱みたいな感じで、頭の上に落ちてくるんです。平べったい紙ではなくて、立体的な箱で、ガツンと頭の上にのっかってくる。その段階でもう九九%できているんですよ。だからもらった感じがするんですね。そして、それから文章を考え始める。その時点では、小説のストーリーは、全くわからない場合が多く、文章を組み立て始めていって、徐々にストーリーができていくんです。考えているうちに、頭の中で文章が一気に出てくる。だから、小説を書くときには、大概の場合、ボーッとしているように見える。でも、それは落ちてきた箱を開けて整理している、つまり、頭の中で文章を書いている時間なんです。冒頭の文章が何十枚かでき上がると、ストーリーもそのときにできている。文章に支えられて、ストーリーが立ち上がってくるんです。それで書き始めるから、ともかく最初は速い。最初の一〇枚、二〇枚は本当に速い。オートマチックな感じで書いています。途中で止まったりすると、またボーッとして、文章を考える。頭の中で字を書いているんです。傍から見ると、ただボーッとしているように見えるかもしれませんが。

――『夕映え天使』に収録されている、それぞれの短編についてお話を伺いたいのですが。

「夕映え天使」は、以前に聞いた実話が元になっています。人の話を聞いていて、「箱」が突然落ちてくるということがある。僕はおしゃべりの方ですが、人の話を聞くのも好きです。「実はさあ」と言って切り出されるような話には、「そのままいただきよ」というのが本当に沢山ある。何の役にも立たないような話が、小説家には役に立つんです。とくにサウナの中は、小説のネタの宝庫ですよ。
「切符」の舞台となった時代は、東京オリンピックの頃です。僕が中学一年生のときで、東京オリンピックは子供の目で見ると、発展でしかなかったのですが、いま考えれば、それは同時に、以前あった風景がどんどん壊されていくということです。だから、「切符」のテーマを一口で言えば、「喪失」ということになりますね。あの時代を、新しく手に入れたもの、建設したもの、始まるものというように発展的に考えがちですが、実はその裏に大きな喪失があったということです。「切符」の登場人物はみんな何かしら失くしていく。あるいは、失くすまいとしがみついているんです。
「特別な一日」は、銀座で花売りを見ていて「箱」が落ちてきてできた作品です。どこで「箱」がぶつかってくるかわからないから、小説を書くときには部屋の中にいるよりも動いた方がいい。特に短編の場合はそうですね。長編はある程度作る部分が多いけれど、短編の場合は落ちてくるのは一瞬ですから。
「琥珀」は岩手県のある港町がモデルになっています。たまたま用があってその町に行ったら、ここはすごい町だ、と。飛行場からも遠く離れていて、ある意味では日本で一番行きにくい。そういううらさびれた町というのはいいですね。発展している町は小説のネタにならないけれども、うらさびれた町というのは幾らでも小説になる。人間を描くとき幸福の様相というのは大体一定だから、幸せな人間を書いても面白い話は作れない。しかし、不幸の様相というのは千差万別だから、全部違ったストーリーができるわけですよ。あの町に行ったときは、ちょっと燃えましたね。町を歩いていて、都会で過ぎ去っていく時間と、こういう町で過ぎ去って行く時間は重みが違うだろうなというふうに思った、そこがこの小説の出発点です。
「丘の上の白い家」はとてもむなしい小説。どんなに頑張っても、どんなにやっても近づけない人というのがいる。何の理由もなく、そいつが何をしたわけでも、何の力があるわけでもないけれど、どうしても近寄れない、どうしても乗り越えられない。一種の運命ですね。小説を書いていてしばしば思うことは、いくら自分が金や人間の苦労をして努力はしてきても、それが万能かというと、決して万能ではないんですね。特に小説で美しいものを書こうと思ったときに、汚いものを見ていない人間には敵わない。子供のころからの英才教育で何の不幸もなく温室の中で育ってきた人間の美学というものにはやはり敵わないわけです。普通、人間の汚いものを見れば、反動として自分に美しいものを見る力ができるのではないだろうかと考えますね。そして、人間のいろいろなしがらみの中に一つの美しさというものを見出すことができるのではないかとも考える。しかし、いざ自分で小説を書いてみると、三島由紀夫さんの美学には、全く敵わない。世のしがらみを抜けてきた人だったら、普通、四十過ぎてあんなこと考えない。汚いものを見ていない強みを三島さんには特に感じます。もちろん、あんな悪い時代に青春時代を送っているわけだから、時代的な苦労というのはあるだろうけれども、それにしても、あの下層の人たちとは違う美学には、圧倒的なものがある。
 例えば、平安貴族は美しい歌を詠んだ。普通、言葉を知っていれば誰でも同じように詠めるだろうと思うけれど、やはり貴族には敵わない訳です。万葉集の時代には、詠み人知らずの歌というのもありますね。でも、詠み人知らずの防人の歌と宮廷の雅人たちが詠んでいる歌というのは、同じ歌でも違うものです。万葉の時代には、そういう絶対的美学というものを信じていなかったけれど、平安時代になると、もうその違いに気がつくんですね。本当に美しいもの、純化された美学というものは、防人の歌ではないということに。そうすると、編者たちはもう、和歌集に採り入れなくなる。その当時でも、下層の人たちの詠んだ歌はあったはずですよ。でも、その歌をとらなかったのは、文学というものを純粋に作っていく上においては正しい判断だと思います。僕はいま小説家という職業をやっているけれど、三島さんのように、もうしみじみ敵わない、乗り越えられないなと思う美学を持っている人がいる。今さら何をやってもだめで、「俺は汚れてしまった」という感じ。やはり純粋なものに憧れ、いいなと思いますね。絶対に自分には到達できない、自分の小説家としての矛盾というものが、この小説の根底にあるんです。
「樹海の人」は、全くの体験談みたいなものです。僕は自衛隊の出身ですが、世界中の軍隊で、実際、ああいうばかばかしい事をしている。だから、この小説は、世界中のどの国で翻訳しても、みんなわかるんじゃないですかね。

――浅田さんの今までの作品では、「涙」という言葉がよく言われましたが、今度の短編集には、単に「涙」という言葉だけでは語れないものを感じたのですが。

 そうですね。僕も年とったなという感じ、枯れたなという感じはします。お涙作家だの、泣かせの何とかだのと言われるのには、抵抗を感じているんですよ。そう言われ始めたときには、涙を流すということは感動の表現だから、たんに泣いているのではなくて感動しているのだろうというふうに考えて、自分を納得させていたのですが、近ごろは、そういうふうに言われると、「それだけではないだろう、俺の小説は」と考えるようになったので、ちょっとへそを曲げています。あまり涙ばかり期待されると、別に泣かせるために書いているわけではないのに、泣ける部分だけを探される気がしてしまう。最初から泣きたいという姿勢でいられても困るんです。小説を読んで、心に残してほしい。泣いて、忘れてほしくはないんです。泣くということだったら、目指すところは、空手の「三年殺し」ならぬ、「三年泣き」ですね。本を読み終わって、「へえー」と言って閉じてから三年ぐらいたって、話を思い出して涙する。「三年泣き」は無理かもしれないけれど、せめて「三日泣き」くらいにはしたいですね。
 短編が読まれるということは、ふだん本を読む習慣のない人まで本に親しんでいるということです。いわゆる読書好き、小説好きというのは長いものを好む。しかし、本を読み始めるときには短いものから読み始めるのが普通です。中学生のころに、短編を読む体力というものをつけて、長いものにどんどん挑戦していく。それを考えると、短編が読まれているということは小説を読む人の底辺を広げていることになるから、短編が読まれている時代は文学的にはとても幸福な時代なんですね。幸い、僕の作品では、短編集が弱いということはなく、むしろ短編集の方が確実に読まれている。これは、本当にありがたいことです。

(あさだ・じろう 作家)
波 2009年1月号より
単行本刊行時掲載

著者プロフィール

浅田次郎

アサダ・ジロウ

1951年東京生まれ。1995年『地下鉄(メトロ)に乗って』で第16回吉川英治文学新人賞を受賞。以降、『鉄道員(ぽっぽや)』で1997年に第117回直木賞、2000年『壬生義士伝』で第13回柴田錬三郎賞、2006年『お腹(はら)召しませ』で第1回中央公論文芸賞・第10回司馬遼太郎賞、2008年『中原の虹』で第42回吉川英治文学賞、2010年『終わらざる夏』で第64回毎日出版文化賞、2016年『帰郷』で第43回大佛次郎賞を受賞するなど数々の文学賞に輝く。また旺盛な執筆活動とその功績により、2015年に紫綬褒章を受章、2019年に第67回菊池寛賞を受賞している。他の著書に『プリズンホテル』『天切り松 闇がたり』『蒼穹の昴』のシリーズや『憑神』『赤猫異聞』『一路』『神坐す山の物語』『ブラック オア ホワイト』『わが心のジェニファー』『おもかげ』『長く高い壁 The Great Wall』『大名倒産』『流人道中記』など多数。2011年から6年にわたり、第16代日本ペンクラブ会長も務めている。

判型違い(文庫)

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