ホーム > 書籍詳細:決壊(上)

決壊(上)

平野啓一郎/著

1,980円(税込)

発売日:2008/06/27

  • 書籍

デビューから十年、平野啓一郎が連続殺人に挑む話題沸騰の新たな代表作。

違う、俺じゃない、俺は殺していない! 2002年10月全国で犯行声明付きのバラバラ遺体が発見された。容疑者として疑われたのは、被害者の兄・沢野崇。警察による事情聴取から、容疑者として逮捕。ところが後に実行犯が判明、そして予期せぬ結末が……。現代日本のあらゆる問題を読む者に突きつける衝撃長篇1500枚。

目次
一 疑念
二 沢野崇の帰郷
三 秘密の行方
四 悪魔
五 決壊

書誌情報

読み仮名 ケッカイ1
雑誌から生まれた本 新潮から生まれた本
発行形態 書籍
判型 四六判変型
頁数 384ページ
ISBN 978-4-10-426007-2
C-CODE 0093
ジャンル 文芸作品、文学賞受賞作家
定価 1,980円

書評

波 2008年7月号より 〈神〉が創った世界に残るのは〈悪魔〉だけなのか

大澤真幸

恐ろしいほどにタイムリーな小説である。われわれは、今、秋葉原で起きた連続殺傷事件―― 一種の「無差別テロ」――に戦慄している。このような事件がなぜ起きたのか、なぜ起こりえたのかに当惑し、恐怖を覚えている。この度の平野啓一郎の長編小説『決壊』は、この秋葉原の事件を彷彿とさせるような――あるいは秋葉原の事件を予見するような――連続殺人事件を描いている。
『決壊』の主人公の沢野崇は、国会図書館に勤める、有能で知的な調査員である。独身だが、女性にはよくもてて、何人も恋人がいる。二〇〇二年十月、京都の三条大橋で、バラバラ遺体の一部が、犯行声明付きで発見された。やがて、その遺体が、沢野の弟で会社員の良介のものであることが明らかになる。良介が、殺害される直前に崇と会っていたこと、良介の妻佳枝が、良介が密かに作っていたブログにたびたびアクセスし、コメントを付していた人物を義兄の崇ではないかと考えていたこと等が原因となって、警察は、崇を犯人だとほぼ断定する。
事件は、日本各地で次々と起きる――それどころか海外にまで飛び火した――、連続殺人へと発展する。崇への疑いは、十一月に実行犯の中学生北崎友哉が逮捕されたことで、晴れることになるのだが、事件の拡大は止まらない。クリスマスイブには、お台場のフジテレビと渋谷で連続的に爆破テロまでが起きる…
この小説と「現実」との意図した、あるいは意図せざる、数々の共鳴には驚かざるをえない。たとえば、良介殺害の実行犯(の一人)友哉は、「孤独な殺人者の夢想」なるブログを開設しているが、それは、秋葉原事件の加藤智大容疑者によるネットの掲示板への大量書き込みを連想させる。無論、友哉が中学生であるのは、酒鬼薔薇聖斗(を始めとする少年殺人犯)を意識してのことであろう。無差別的なテロや殺人の正当性を哲学的に語る、〈悪魔〉と名乗る人物が登場するが、彼の主張は、加藤智大容疑者の「世界そのものへの怨恨」や、オウムの「ポア」の思想に通じている。秋葉原事件に関して、われわれは、ターゲットとなった「秋葉原」という場所の象徴的な中心性を考慮に入れざるをえないが、『決壊』のテロの標的となっているお台場や渋谷は、秋葉原と表裏関係にあるような、東京の――あるいは日本の――中心ではないだろうか。
『決壊』が「現実」とのこうした共鳴を通じて格闘しているのは、意味と真理の間の乖離をどう埋めるのかという問い、言い換えれば「悪」の存在をどのように解釈し、それにどう対処すればよいのかという問いである。問いの中核を理解するには、これを宗教的な言葉に置き換えるとよい。もし神が全能であるとすれば、なぜ、神は、悪がはびこる不完全な世界を創ったのだろうか? 神が創った有意味な世界という像と極端な悪の存在という真理とは、どのように両立できるというのか? これは、神学上の古典的な問いだが、特定の信仰など前提にしなくても、現代的に言い換えることができる。もし普遍的な説得力を有する「善」が存在するとすれば、「人を殺してはならない」という規範に代表されるような普遍的な「善」が存在するとすれば、要するに神の命令に匹敵する普遍的な「善」が存在するとすれば、連続無差別殺人や無差別テロのような極端な悪が、どうして可能なのか? ひどく異常ではないように見える(ほんのわずかしか変わっていないように見える)普通の人が、どうしてこれほどに極端な悪を犯すことができるのだろうか?
どうにも解釈しがたいほどのひどい悪を目の当たりにしたときの、最も直截な神学的解答は、神の全能性を、ひいては神の存在そのものを疑ってしまうことである。同様に、われわれは、普遍的で基底的な善への信頼を放棄すべきなのか? このときには、もはや、善だけではなく、倫理的に罰したり、救済したりする対象としての悪すら存在せず、ただ、「悪」と名づけられたシステムの意図せざる機能障害だけが残ることになる。『決壊』で、〈悪魔〉は、こうした結論を暗示しているが、われわれは、これに抗することができるのか?

(おおさわ・まさち 社会学者/京都大学大学院人間・環境学研究科教授)

刊行記念インタビュー

波 2008年7月号より

刊行記念インタビュー
無差別殺人に挑戦した新たな代表作誕生!
平野啓一郎

何故、人は人を殺すのか? 匿名でのブログ、鬱、引きこもり、いじめ、少年犯罪、そして無差別殺人――。現代日本の様々な現象を題材に、1500枚の大作を発表したデビュー10周年の平野啓一郎氏に訊く。

――この作品を書かれた理由を教えて下さい。
平野 僕は今年三十三歳でデビュー十年なのですが、その間、現代という難しい時代を描くために、小説にどういう方法が可能かという事を常に考えてきました。作品によっては、その可能性の追求に主眼を置いた作品も発表してきたのですが、三十代になるにあたって、そもそも自分が小説というものに魅了されてきた根本に立ち返って、今こそ社会に訴えたいテーマで、小説に関心のない人が手に取ったとしても、読者を引きずり込んで問題を共有出来るような作品を、文学というものの強い力を信じて書きたいと思ったんです。
 今の日本には非常に複雑な問題が起きています。特に僕の世代は経済的な格差が強調され、一方でワーキングプアという深刻な状況に陥っている人もいれば、他方では大きな組織で、それはそれでいろんな矛盾を抱えながら必死に働いていても、悪しき「勝ち組」のように呼ばれてしまっている人たちもいる。どちらの立場に対しても冷淡な社会に対して、信頼感をもてずに、「自分とは何だろう」という事を手探りで考え続けて、三十代を過ごしている。そうした同世代の人に向けて、そしてその世代のことが「よく分からない」という人に向けて、自分の言葉を届けたい気持ちがありました。

――しかし、バラバラ殺人をモチーフにした小説という事で読者はとても意外に感じられると思うのですが。
平野 小説の中でごく平凡な家庭を営むサラリーマンがある日突然殺される、という絶望的な殺人事件が起こります。鍵を握っていると見られるのは、事件当夜に面会していた、エリート公務員の兄です。他方で、母親からの過剰な愛情を受けながら、自分は人から「愛されない」と煩悶している少年の物語がある。エンターテインメントの道具として「殺人」を扱うのではなくて、それに巻き込まれた人たちが、加害者の側も被害者の側も決して癒される事のない傷を負って、しかしその中で生きていかなければならないということを徹底して描きたかった。「殺人と赦し」をモチーフにして、何故人は人を殺すのか、人を赦すというのはどういう事か、絶対に赦し得ない出来事が起こったときに、人はどのように行動するのか、それを文学のテーマとして追求したかったんです。

――「決壊」というタイトルは何故付けられたのでしょうか。
平野 第一には、今の社会の状況から感じたことなんです。「決壊」というのは、ダムとか堤防とかそうですけど、ギリギリまでがんばってるものが、とうとう限界を超えて一気に壊れてしまう現象ですよね。そういう危うさというのは、日々の生活を通じてみんな感じてるんじゃないかと思います。
 特に、コミュニケーションの問題を重視しました。最近僕は、人間を言葉として語られる「情報」と生きている存在としての「情報源」とに分けて考えてます。情報源としての人間は、結局のところ、どこまでいっても言葉では汲み尽くせないし、言葉と完全に一致することもない。「平野啓一郎というのはこういう人間だ」という情報は、十人が語れば、十人とも違っているはずだし、僕の自己認識でさえ、どんなに言葉を尽くしてみても、情報源である僕のすべてを十分には語れない。その埋め尽くせない、一致させられない情報源というものの空白というか、穴というか、それがあるからこそ、人間は自由であり、同時にお互いに寂しいんだと思うんです。どんなに愛している人でも、最後の最後には、タッチできない部分がある。それが、現代人の孤独の根源なんじゃないかと。でも、僕は、一人の人間の言葉になりきれない、複雑でデリケートな部分に、ギュウギュウ言葉を押し込んでいったら、茶碗が割れるみたいに、いつか人間は壊れてしまうと思うんです。今の社会は、失言を捉えて、あいつはあんなヤツだと断定してしまうみたいに、人が人に対して、乱暴になりがちな傾向をもっている。僕は、何かが壊れるときに起こっていることは、大体バカげたことだと思うんです。明らかにそんなふうに扱えば壊れると分かっているはずなのに、案外丈夫だから、乱暴に扱っていたら、案の定壊れた、というような。いじめとか過剰労働とか、人間に対する扱いも同じですよ。どんなに幸せそうに見えても、それぞれの人間がギリギリのところで自分を維持している。そして、人間の耐性は限界があるというのが、僕の考えです。乱暴なことをすれば、当然のように人間は壊れるし、コミュニケーションは「決壊」する。それを改めて知ってもらいたい。子供がおもちゃを乱暴に扱ってて、「壊れるぞ」と注意するとハッとしますよね。それと同じです。

――「情報源としての人間」とサラッと口にされましたけど、人間の定義を情報によって行うという、すごく独創的な価値観、世界観じゃないかなと思います。
平野 「死」という現象を考えたときに、この定義がよく当てはまると思うんです。死ぬと、情報源としての人間が消滅して、その人の情報だけが、記憶の中だとか、アルバムの中だとかに一定期間残る。それから後は、その人自身からは、もう二度と情報化されるべき何かは発信されない。オリジナルの情報源が喪失しても、その情報源から発せられるであろう情報を期待するのが「死者の声を聞く」という事ですね。今回の小説では、警察やマスコミが、事件に関わっている人間の情報をいろいろと収集して、それを情報源そのもののように扱うわけですが、やっぱりそれは、主人公当人とは必ずズレてるんですね。僕たちも、事件報道などでは、そうした情報から、犯人はこんなヤツだとつい考えてしまいがちですけど。その意味で、小説の中で「犯人が誰か」がなかなか分からないというのには、本質的な意味があるんです。
 あと、僕自身の実感を込めて、「現代人の苦悩」というのを自分なりに考えました。経済的格差の問題のように、お金に還元できる話は確かにあるし、それは何とか手を打つべきですけど、それが解決されたとしても、その先に解決し切れないものがまだ残っている。僕が拘ったのは、そこのところです。生きていくための矢印というか、方向性みたいなものを現代人は明確には信じられない。この小説の主人公はエリートで、異性関係にもお金にも困ってないけれど、やっぱり満たされていない。傍目には結構な生活に見えても、本人の中ではギリギリいっぱいだったりする。だから、そこに「何か」が起きてしまえば、たちまちすべてが決壊してしまう。そうした今の時代の危うさと、この時代を生きなければならない現代人の哀しみ、孤独をどこまでも追求していきたいというのがこの小説のモチーフとなっています。

――刊行直前に秋葉原で小説の中の出来事を彷彿とさせるような事件が起きましたが、どのようにお考えですか?
平野 秋葉原の事件は、恨みのある誰それを殺すというのではなくて、今の社会そのものに犯行予告を出して破壊的行動に出てるんですから、一種のテロだと思います。完全に間違った方法だと思いますが。僕は、そういう事件が起きると巻き込まれた人たちはどんな滅茶苦茶な状況に陥ってしまうか、それを丁寧に描く事で、その悲惨さと絶望的な苦悩、哀しみを小説で強く訴えたかったんです。小説執筆中にも、学校裏サイトやネットを使った犯罪、練炭自殺に硫化水素自殺など、メディアで報道されるとバーッと全国で起こるというような現象があって、現実から刺激を受けたのは事実です。『決壊』のメッセージは、そんな事をすると、殺した人間はもちろん、巻き込まれたすべての人間が取り返しのつかないまでに壊されてしまう、という事なんです。悲惨な事件は、小説の中だけでたくさんというのが、僕のあの事件に対する痛切な思いです。
『決壊』で説かれている無差別殺人の「理由」は、作者の僕というよりは、今の社会こそが語っているのだと思います。それでも、僕を含めてほとんどの人は人を殺すということはなく、一方ではやはり、人を殺す人間がいる。それは何故だろう? これは酒鬼薔薇事件とかオウム事件を経た九〇年代からの問いですよね。心情的には酒鬼薔薇に共感する人や、オウム信者の考えてる事もよくわかるという人はいたんですけど、普通は殺さない。その境目を追求して、人を殺すという事をヴァーチャルに妄想するのではなく、一つの殺人がこんな悲惨な事を招くという、もっと生身の人間に迫った想像力を持ってもらいたい。だからこそ、小説の力を信頼しつつ、小説らしい、都合の良い結末は全部疑って、本当にそんなことで済むのかと、最後まで徹底的に問題を掘り下げました。結末については、連載時から賛否両論で、分かるという人と分からないという人とがはっきり分かれましたけど、今度はそれを、単行本の読者の皆さんに委ねたいと思います。
 現代という困難な時代に生きているすべての人に、僕は、小説の醍醐味を十分に味わってもらい、その感情の一番深いところまで、作品の中に生きている人たちの言葉を届かせたいと願いながら、この『決壊』という作品を書きました。読後には、小説のテーマでもある「なぜ?」という部分について、多くの人に感想を語り合ってもらいたいですし、作者の僕にも、是非その感想を届けてもらいたいと思っています。
(ひらの・けいいちろう 作家)

著者プロフィール

平野啓一郎

ヒラノ・ケイイチロウ

1975(昭和50)年、愛知県生れ。京都大学法学部卒。1999(平成11)年、大学在学中に文芸誌「新潮」に投稿した『日蝕』により芥川賞を受賞。著書は小説作品として、『日蝕・一月物語』、『葬送』、『高瀬川』、『滴り落ちる時計たちの波紋』、『顔のない裸体たち』、『決壊』(芸術選奨文部科学大臣新人賞)、『ドーン』(第19回 Bunkamuraドゥマゴ文学賞)、『かたちだけの愛』、『空白を満たしなさい』、『透明な迷宮』、『マチネの終わりに』(第2回渡辺淳一文学賞)、『ある男』(第70回読売文学賞)、『本心』などがある。評論、対談、エッセイとして、『文明の憂鬱』、『ディアローグ』、『モノローグ』、『私とは何か 「個人」から「分人」へ』、『「生命力」の行方 変わりゆく世界と分人主義』、『「カッコいい」とは何か』などがある。

平野啓一郎公式サイト (外部リンク)

関連書籍

判型違い(文庫)

この本へのご意見・ご感想をお待ちしております。

感想を送る

新刊お知らせメール

平野啓一郎
登録
文芸作品
登録
文学賞受賞作家
登録

書籍の分類