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まえがき

 明石家さんま。
 お笑い怪獣、国民的お笑い芸人、日本で最も露出の多いテレビスター、トークの魔術師など、明石家さんまさんにはさまざまな称号が冠せられています。その姿をテレビで見ない日はないし、その存在を知らない日本人はいないでしょう。
 しかし、1955年7月1日に杉本高文としてこの世に生を享け、18歳で落語家に入門、テレビでブレイクして大スターとなった現在に至るまで、その詳細な歴史を知る人は、はたしてどれだけいるでしょうか。
 どんな少年時代を過ごしたのか?
 芸人を目指すようになったきっかけは?
 なぜあの師匠に弟子入りしたのか?
 入門直後に女性と駆け落ちしたのは本当か?
 芸名「明石家さんま」の由来は?
 初めて出演したテレビ番組は?
 ブレイクのきっかけは?
 なぜ落語をやらなくなったのか?
 本格的に東京へ進出するきっかけになった出来事は?
 島田紳助や笑福亭鶴瓶、ビートたけしとの出会いは――。
「明石家さんま」という存在が大きすぎるがゆえ、その人生の全貌は意外と知られていないのではないでしょうか。
 その歴史を克明に記した書籍が、本書『明石家さんまヒストリー1 1955~1981 「明石家さんま」の誕生』です。ここまで詳細にさんまさんの人生をまとめたものは日本で唯一のものであると自負しています。
 とはいえ、明石家さんまさんの偉大な歴史を細大漏らさず記録するのは並大抵のことではありません。それには膨大な時間と手間が必要で、文字通り人生をさんまさんに捧げなければできないことです。
 生まれてから芸人となるまで、芸人となってから現在に至るまで、大まかな年表を作るだけでも大変な作業です。頼りとなるのは、新聞や雑誌などの資料、テレビやラジオなどで語られる本人の証言です。精査は必要ですが、ネットに書き込まれる情報も無視できません。そこに大きな発見や重大なヒントが隠されていることもしばしばあります。
 こうした情報をできる限り多く集め、精査し、さんまさんの年表を作成していく。どうしても不明確な部分が生じることもありますが、時には本人に直接確認しながら、少しずつその“穴”を埋めていく。この作業を丁寧に、時間をかけ、ひたすら地道に続けていくためには、尋常ではない根気が必要で、少なく見積もっても数年はかかる作業です。 
 それをまさか、これまでの人生で何をやっても長続きしなかった自分が、こうして書籍としてまとめることになるとは夢にも思っていませんでした。
 ただ、最初に白状しますが、1973年生まれの僕は20歳になるまでさんまさんについてほとんど何も知らない、ごく普通の視聴者でした。もちろん、出演番組にはそれなりに親しんでいましたが、同世代の多くが熱狂した『オレたちひょうきん族』は当時数えるほどしか観たことがなく、『男女7人夏物語』や『あっぱれさんま大先生』といった番組も、さんまさん目当てというよりは、それぞれ先の展開が気になるドラマ、面白い子どもたちが出演する番組というような認識でした。
 そんなある日のこと。ふとテレビをつけると、間寛平、村上ショージ、ジミー大西の3人が小学生でもわかるようなクイズに苦戦しながらボケ解答を連発し、それを司会のさんまさんが全力のノリツッコミで応じる姿が映し出されていました。
 番組のタイトルは『痛快!明石家電視台』。時に怒り、時に大笑いしながら、あらゆるヒントを与え、正解へと導くさんまさん。それに反発するように次々と大ボケをかましていく3人。僕はそのあまりにバカらしいやりとりがツボにはまって、ふとんの上で転げ回るほど大笑いしました。あれほど大声を出して笑ったのは、あの日が最初で最後かもしれません。
 20歳の頃の僕は、肉体労働に明け暮れ、テレビゲームをするのが唯一の楽しみ。大病を患った家族の世話や職場での人間関係のもつれなどに苦悩し、先行きの見えない不安を抱えながら、溜息ばかりをつく毎日を過ごしていたので、本当に救われた気がしました。
 それからというもの、僕は新聞のラテ欄をくまなくチェックし、腰を据えてさんまさんが出演している番組を観るようになりました。そして、『MBSヤングタウン』という毎日放送のラジオ番組に出会います。
 そこでさんまさんは、少年の頃の話、芸人を志したきっかけ、若手芸人の頃の失敗談や、過去のテレビ番組の誕生秘話、結婚・離婚の話、前日に撮影したドラマの裏話など、毎週、自身の人生にまつわる様々な逸話を語っていました。
「なんて面白い人生なんだろう!」と、気づけばさんまさんに夢中になっていました。
 同時に、すでに国民的なお笑い芸人であったさんまさんについて何も知らなかったことを思い知らされました。さんまさんの逸話を忘れたくないとの思いから、発言をそっくりそのままノートに書き記すようになるまで時間はかかりませんでした。それだけでは飽き足らず、さんまさんが出演されているテレビ番組やラジオ番組はもちろんのこと、関係者が出演する番組に至るまで、可能な限りチェックし、保存。さらに、テレビ誌や週刊誌に掲載されている関連記事を収集するようになったのです。
 そうして迎えた1996年3月23日、僕は『MBSヤングタウン』で発言されたさんまさんのこの言葉を記すことになります。
「言っときましょう。私は、しゃべる商売なんですよ。本を売る商売じゃないんですよ。しゃべって伝えられる間は、できる限りしゃべりたい。本で自分の気持ちを訴えるほど、俺はヤワじゃない」
 この言葉に感銘を受けた僕は、さんまさんがしゃべって伝えてくれた言葉をこの先もずっと記録していこうと決意しました。大げさかもしれませんが、それは“使命感”のようなものでした。もちろんこのときはまだ、それを誰かに見せたり、世間に発表したりしようなんてことは考えておらず、ただただ自分のために記していこうと決めたのです。

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 それから17年の歳月が流れた、2013年8月26日午後10時28分のこと。お笑い芸人の水道橋博士さんからツイッターを介し、一通のメールが届きました。内容は、博士さんが編集長を務める「水道橋博士のメルマ旬報」というメールマガジンへの執筆依頼でした。
 その5日前の8月21日、当時大阪にあったTSUTAYA梅田堂山店で開催された博士さんの著書『藝人春秋』のサイン会に参加し、博士さんと初めて言葉を交わしました。博士さんにサインを書いてもらっている間、僕は助手の方から博士さんの半生がびっしりと書かれた「水道橋博士の半世紀 Life 年表」をいただき、「ツイッターでフォローしていただいているエムカクと申します。僕はこの年表を参考にして明石家さんま年表を作りたいと思います!」と声をかけました。すると、「あ、君があのエムカクさんなの?」と気さくに対応してくださり、喜び勇んだ僕は、いただいた年表を熟読しながら帰路についたことを今でも鮮明に覚えています。
 執筆経験のなかった僕は、豪華なメンバーに囲まれて連載を続けていくことができるのかという不安もありましたが、「水道橋博士のメルマ旬報」は書く内容も、字数も自由。博士さんから「いずれ作る年表のエピソードを積み上げていく感じで」というヒントをいただき、さんまさんの人生を年表形式で綴る「明石家さんまヒストリー」を連載することになったのです。
 幸いなことに、連載についてさんまさん本人の承認を得ることもでき、約20年かけて蓄積してきたさんまさんの発言ノート、映像資料、書籍資料、雑誌資料などを頼りにコツコツと書き始めてから約7年の月日が経ちました。その間、いろいろな方たちとの出会いがあり、貴重な情報を提供していただいたおかげで、なんとか連載を続けることができたのだと思います。

 そしてこのたび一冊の本としてまとめることとなりました。
「それはお前のやから、お前の勝手にすればいい」
 この言葉は、連載「明石家さんまヒストリー」を書籍化させてくださいと直接お願いした時にいただいた、さんまさんの返答です。その時のさんまさんの笑顔を、僕は一生忘れることはないと思います。
 本書は、さんまさんが生まれた1955年から、『オレたちひょうきん族』が始まる1981年までの人生――つまり、少年時代に笑いと出会ったさんまさんが芸人となり、未熟で粗削りであった日々を経て、様々な仲間たちと出会い、スターダムにのし上がるまでの道のりを記しています(1981年以降も続篇としてまとめる予定です)。

 僕が27年間さんまさんの背中を追い続け、学んだことは、「日々、全力を尽くしていれば必ず道は開ける」ということ。とてもシンプルな考えですが実践するのは非常に難しいことだと思います。
 さんまさんがテレビやラジオに出演するようになってから44年の歳月が流れました。これまでの番組出演回数は1万回をゆうに超えており、そのすべての回でさんまさんは手を抜くことなく、そのときの全力を尽くし、休むことなく出演を続けてこられました。もはや全力が習慣となっており、たとえそれが遊びの場であっても変わりません。
 師匠である笑福亭松之助師匠は、さんまさんのことを直接褒めることはあまりなかったようですが、1996年7月13日に放送された『さんま・所の乱れ咲き花の芸能界 オシャベリの殿堂(秘)夏の特別編』という日本テレビの特番で共演された際、このような発言をされました。
「僕ねぇ、彼が出てる番組を時々見ますけどねぇ、やっぱり、精一杯やってんのちゃいます? それだけはわかるんですわ。“あっ、精一杯やっとるな”と思う」
 隣の席で恐縮しながら、師匠のこの言葉にじっと耳を傾けていたさんまさんの姿がとても印象に残っています。
 2017年11月26日に日本テレビで放送された『誰も知らない明石家さんま ロングインタビューで解禁!』において、「生まれ変わっても芸人になる?」と質問されたさんまさんは次のように答えました。
「ならない、ならない。もう芸人にはなりたくないですね。一度で十分。これだけしんどいのは……ポジション守るとか、維持するっていうのは、しんどすぎると思うんで。それは二度とやらないと思う」
「人生最期の瞬間は何をしていたい?」との質問には、「人生最期の瞬間……まだ俺はたぶん、死ぬとは思ってないと思うねん。ギリギリまで“俺は助かる”と思って死んでいくんちゃうかな(笑)」と話した後、「最期の瞬間は誰かの足を持っときたい。もうその人、一生俺のこと忘れへんやんか。死んでいく人に足持たれたら。ひとりでも俺のこと、覚えといてほしい。強く」と語りました。
 どんなに落ち込むようなことがあっても、さんまさんの番組を見れば笑顔になれる。僕にとってさんまさんは人生の恩人です。
 今年で65歳となったさんまさんは、2020年現在も、日々、全力で笑いと向き合い、お笑いの第一線で精一杯戦い続け、前進されています。今日もどこかのスタジオで人々を笑顔にしているにちがいありません。
 僕はこれからもその背中を追い続け、人生最期の瞬間まで強く覚えていられるよう、全力で“明石家さんまの人生”を記していこうと思っています。

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