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えげつない! 寄生生物

成田聡子/著

1,430円(税込)

発売日:2020/03/17

  • 書籍
  • 電子書籍あり

宿主を意のままに操り運命を手玉にとる!? 非情なヤツらのしたたかなやり口!!

泳げないカマキリを入水自殺させるハリガネムシ。ゴキブリを奴隷化して監禁、卵を産み付けて孵化まで守らせるエメラルドゴキブリバチ。アリを半死のゾンビにし、絶命の場所・時間まで操るカビ……自然界で生存戦略のため、自分よりも大きな生き物を洗脳する術を身に付けた恐るべき寄生者たち!! お前ら、そこまでやるのか!?

目次
はじめに
Case01 泳げないカマキリが入水自殺!?
ハリガネムシの驚くべきマインドコントロール術
Case02 ゴキブリを奴隷化する宝石のようなハチ
その緻密かつ大胆な洗脳方法
Case03 宝石バチによる“ロボトミー手術”
ゴキブリの切なすぎる末路
Case04 アリがゾンビになる!?
死ぬ場所・時刻まで操る恐ろしい寄生生物の正体
Case05 死体を蘇らせるコマユバチ
心も体も操られるイモムシの断末魔
Case06 フクロムシの枝状器官を全身に張り巡らされ
奴隷にされたカニの皮肉な生涯
Case07 依存させるアカシアの恐ろしい生態
ほかの蜜は食べられない体にされたアリたちのさだめ
Case08 極悪非道な国盗り物語
他国の女王を殺し家臣を奴隷化するそのやり口
Case09 赤の他人に子育てをさせる巧みな育児寄生術
10秒で産み逃げの早業とは
Case10 カッコウの雛のサバイバル術
別種の巣に産み落とされて義兄弟を皆殺し!
Case11 脳細胞を破壊され体中は食い荒らされても
寄生バチを守り続けるテントウムシの悲劇
Case12 ゴミグモを思うがまま操って巣を張らせて
最後は体液を吸い尽くすクモヒメバチの残虐
Case13 寄生性原生生物トキソプラズマ
わざと宿敵に食べられるようしむける高度な感染方法
Case14 事故に遭いやすい? ブチギレやすくなる? 起業したくなる?
感染した人間を変える寄生虫の正体とは
Case15 感染者をほぼ100パーセント死に至らしめる
狂犬病ウイルスの脅威
Case16 コウモリから感染!?
狂犬病から生還した少女の奇跡
あとがき
参考文献

書誌情報

読み仮名 エゲツナイキセイセイブツ
装幀 村林タカノブ/カバーイラスト、新潮社装幀室/装幀
発行形態 書籍、電子書籍
判型 四六判
頁数 176ページ
ISBN 978-4-10-353151-7
C-CODE 0095
ジャンル 科学
定価 1,430円
電子書籍 価格 1,430円
電子書籍 配信開始日 2020/03/27

[試し読み1]水中への憧れ――あるカマキリの物語

Case 01  水中への憧れ――あるカマキリの物語

「決して川には近付いたらいけない」

 その教えを僕はこれまでずっと守ってきた。
 僕たちは泳げない種族だから、絶対に川や水辺に近付いたりしちゃいけないんだ。これは僕ら種族の暗黙の掟でもあったし、そもそも、僕がまだ小さいときは水が怖くて川になんて近付こうとも思わなかった。
 だけど、僕の大好物のカゲロウをたくさん捕まえて食べていくうちに、僕の体はどんどん大きくなってきたんだ。そして、水なんていつの間にか怖くなくなってきた。
 むしろ、あの川のキラキラとした水面に、もっと近付いてその中を覗いてみたくてたまらなくなってきてしまったんだ。
 だから、今日は、みんなには内緒で川に一番近い岩の上まで来てしまった。

 あれ? おかしいな。おしりのあたりが少しだけムズムズする。
 いや、そんなことは今はどうでもいい。

 近くで見る川は、なんて美しいのだろう。
 目の前全部が輝く世界でいっぱいになる。
 この光り輝く世界には何かいいものがあるに決まっている。一度だけ、たった一度だけでいいから入って覗いてみたい。

 僕はその欲求が抑えられなくなって、吸い込まれるように川に入ってしまった。

 く、くるしい……さっきまであんなにも美しかった川の中は、ただ冷たく、息さえできない苦しみの世界だった。川の流れに飲み込まれ、薄れていく意識の中で、僕が最後に見たのは、僕のおしりから、ゆっくりと這い出てきた巨大な蛇のようなものだった。

Case 01  カマキリとハリガネムシ

泳げないカマキリが入水自殺!?
ハリガネムシの
驚くべきマインドコントロール術

 まず、最後に水に飛び込んでしまったカマキリの生涯の一コマを読んでいただきました。

 水の中で泳げないはずのコオロギやカマキリ、カマドウマが川に飛び込んでいく様は、まるで入水自殺です。水に飛び込んだこれらの虫は溺れ死ぬか、魚に食べられるかしか道はありません。それにもかかわらず、なぜ彼らは水に飛び込んでしまうのでしょうか。

 これらの入水自殺する昆虫たちの体内には、宿主の行動を操る寄生者が存在しています。それは「ハリガネムシ」という生物です。「ムシ」という名前はついていますが、昆虫ではなく、非常に単純な形態をした動物で、脚などの突起物はなく、目さえもなく、成体は1本の線でしかありません。まさに黒っぽい針金のような形状をした生物です。

ハリガネムシって針金みたいな虫?

 ハリガネムシ(針金虫)とは類線形動物門ハリガネムシ綱(線形虫綱)ハリガネムシ目に属する生物の総称です。世界には2000種以上いるといわれており、日本では14種が記載されています。

 種類によっては体長数センチから1メートルに達し、表面はクチクラという丈夫な膜で覆われているため乾燥すると針金のように硬くなることからこの「針金虫」という名前がつきました。実際にハリガネムシの動画などを見るとわかりますが、ミミズのようにうねうねとした柔らかい動きはせず、もがいて、のたうち回るような特徴的な動き方をします。

 では、ごく単純な形状のハリガネムシがどのようにしてカマキリなどの昆虫の体内に入り、自分の何倍もの大きさの昆虫を操って入水自殺させるのか、その生涯を少し覗いてみましょう。

ハリガネムシの赤ちゃん誕生

 まず、ハリガネムシが卵を産むところを見ていきます。単純な形状のハリガネムシですが、オスとメスがあり、やはり交尾なくしては産卵できません。交尾は水中でおこなわれます。

 広い川などで、この小さな体のオスとメスが出会う確率は奇跡に近いようにも感じますが、オスとメスが水の中でどのように相手を捜し当てるかは今のところわかっていません。それでも水の中でどうにか交尾相手を探し出します。そして、オスとメスが出会うと、お互いに巻き付き合って、メスは精子を受け取り、受精します。そのあと、卵の塊を大量に水中に産みます。

 その卵は、川の中で1、2カ月かけて細胞分裂を繰り返し、卵の中で小さなイモムシのようになります。そして、卵から出てきたハリガネムシの赤ちゃん(幼生)は、川底で「あること」が起きるのをじっと待っています。何を待っているのでしょう。驚きですが、自分が食べられるのを待っています。カゲロウやユスリカなどの水生昆虫は子どものうちは川の中で生活し、川の有機物を してエサにしています。そういった昆虫に、運よく食べられるのを待っているのです。

 食べられたハリガネムシの赤ちゃんは、ただエサとして消化されるわけにはいきません。この小さな小さなハリガネムシの赤ちゃんは「武器」を持っています。ノコギリのような、まさに、武器と呼ぶにふさわしいものが体の先端に付いており、しかも、それを出したり引っ込めたりすることができます。

 食べられたハリガネムシの赤ちゃんは、このノコギリを使って水生昆虫の腸管を掘るように進みます。そして、腹の中でちょうどよい場所を見つけると、「シスト」に変身します。

「シスト」とはハリガネムシの休眠最強モードです。イモムシのようだった体を折りたたんで、殻を作り、休眠した状態です。この状態だと、マイナス30℃の極寒でも凍らず、生きることができます。この状態で次は、川から陸に上がる機会を待っているのです。

川での生活から陸の生活へ

 川の中で生活していたカゲロウやユスリカですが、成虫になると羽を持ちます。そして、川から脱出し、陸上生活を始めます。そのお腹の中には、眠っているハリガネムシの赤ちゃんがいます。

 やがて陸上で生活するより大きなカマキリなどの肉食の昆虫が、ハリガネムシの赤ちゃんがお腹の中にいるカゲロウやユスリカを食べます。

 こうしてカマキリの体内に入ったハリガネムシの赤ちゃんは目を覚まします。カマキリの消化管に入り込み、栄養を吸収して数センチから1メートルに大きく、長く成長します。ハリガネムシは体表で養分を吸収するので口を持たず、消化器官もありません。カマキリのお腹の中のハリガネムシはもう小さな赤ちゃんではなく、見た目は立派な針金です。繁殖能力も持つようになります。そうなってしまうと、ハリガネムシはウズウズし始めます。なぜウズウズするのでしょう。人間も同じかもしれませんが、子どもから大人になると異性の相手を見つけたくなるのです。

 しかし、少し前に述べましたが、ハリガネムシの交尾は川の中でしかおこなうことができません。つまり、せっかく、陸にあがったにもかかわらず、結婚相手を見つけるにはもう一度川に戻る必要があります。

 そのために、本来、陸でしか生活しない宿主昆虫をマインドコントロールして川に向かわせるのです。

謀られたカマキリの自殺

 ハリガネムシが寄生しているカマキリなどの陸の昆虫は、川などには決して飛び込んだりしません。しかし、体内にいるハリガネムシは川に戻りたくてたまりません。成熟したハリガネムシに寄生されたカマキリは冒頭のシーンのように、何かに取りつかれたかのごとく、川に近付くと、飛び込んでしまいます。

 その結果、溺れたカマキリのおしりから、大きく成長したハリガネムシがゆっくりとにゅるにゅると這い出てきます。そして、川に戻ったハリガネムシは相手を探して交尾をし、また産卵するのです。

どうやって自殺させているのか

 ハリガネムシが宿主昆虫を水に向かわせることは、かなり昔からわかっていました。しかし、どんな方法で宿主の行動を操っているのかは謎でした。いまだにそのほとんどは謎ですが、2002年にフランスの研究チームがその方法の一部を明らかにすることに成功しました。

 その研究ではY字で分岐する道を作り、出口に水を置いてある道と、出口に水がない道の枝分かれを作っておきます。その道をハリガネムシに寄生されたコオロギと、寄生されていないコオロギを歩かせます。

 そうすると、寄生されているコオロギも、寄生されていないコオロギも、水のある方にもない方にも半々に行きます。つまり、寄生されているからといって水に向かう性質があるわけではないのです。

 しかし、たまたま水がある出口に出てきたところで行動が変化します。寄生されていないコオロギは水がある出口に出たとしても泳げないため、飛び込んだりはせず、ここで止まります。しかし、ハリガネムシに寄生されているコオロギは、水を見るや否やほぼ100パーセント水に飛び込んでしまいます。

 この結果を見た研究者たちは、出口に置かれた水のキラキラした反射にコオロギが反応しているのではないかと予測します。そこで、次に、水は置かずに、単純に光に反応するかという実験もおこなっています。その結果、寄生されたコオロギはその光に反応する行動が見られました。

 

 また、2005年に同じ研究チームはコオロギの脳で発現しているタンパク質を調べています。ハリガネムシに寄生されている個体、寄生されていない個体、寄生されているけれどもまだ行動操作を受けていない個体、寄生されておしりからハリガネムシを出した後の個体などの脳内のタンパク質を比較しました。

 その結果、まさにハリガネムシから行動操作を受けているコオロギの脳内でだけ、特別に発現しているタンパク質がいくつか見つかりました。それらのタンパク質は、神経の異常発達、場所認識、光応答にかかわる行動などに関係するタンパク質と似ていました。

 さらに、それらの寄生されたコオロギの脳内にはハリガネムシが作ったと思われるタンパク質まで含まれていたのです。お腹の中にいる寄生者が脳内の物質まで作り出し、操っていたという驚きの結果です。

 これらの研究から、ハリガネムシは寄生したコオロギの神経発達を混乱させ、光への反応を異常にし、キラキラとした水辺に近づいたら飛び込むように操っているのではないかと考えられています。

川で自殺する昆虫が魚の重要なエサ資源

 ハリガネムシに寄生され、マインドコントロールされることによって川で自殺をする昆虫は日本全国で後を絶ちません。けれども、それらの昆虫はただ無駄死にしているのではなく、川や森の生態系において大切な役割をもっていることが研究によって明らかになりました。

 2011年に発表された研究では、川のまわりをビニールで覆ってハリガネムシに寄生されたカマドウマが飛び込めないようにした区画と、自然なままの区画(入水自殺し放題!?)を2カ月間観察しました。

 その結果、川に生息する川魚が得る総エネルギー量の60パーセント程度が川に飛び込んだカマドウマであることがわかりました。川魚のエサの半分以上は自ら入水した昆虫だったのです。

 一方、カマドウマが飛び込めないようにした区画では、川魚は自殺するカマドウマを食することができないので、川の中の水生昆虫類をたくさん捕食していました。そのため、カマドウマが入水できない河川では、川魚に食べられ水生昆虫が減ります。これらの水生昆虫類のエサは藻類や落葉です。そのため、川の水生昆虫が減ると、その水生昆虫のエサとなるのを逃れた藻類の現存量が2倍に増大していました。同時に、水生昆虫が分解する川の落葉の分解速度は約30パーセント減少していました。

 このように、昆虫の体内で暮らす小さな寄生者であるハリガネムシが、昆虫を操り、川に入水自殺させるだけでなく、河川の生態系にさえ、大きな影響をもたらしていたのです。

 「Case 02  宝石バチとの出会い――あるゴキブリの物語」につづく

つづきは書籍版『えげつない! 寄生生物』で。購入はコチラ

[試し読み2]宝石バチとの出会い――あるゴキブリの物語

Case 02  宝石バチとの出会い――あるゴキブリの物語

「もう何日くらいこの薄暗い洞穴で過ごしただろう」
 アイツが昨日、出て行ったばかりの出口を見つめながら、そんなことを考えていた。
 あの出口を破れば、そこにはまた太陽が輝く野山があり、昔のように自由に走り回れるんだ。あの出口なんて、ただの土で埋めただけの簡単に壊れそうな出口じゃないか。
 なのに、どうしてだろう、そんな気にならない。
 ここ数日の記憶はなんとなく曖昧で断片的にしか思い出せない。僕はきっと大事なことを忘れてしまっているんだ。よく、思い出せ。
 最初にアイツに会ったのは、どこだったっけ。
 そうだ、近所の草原だ。その日、僕は一生懸命、何か食べられるものを探していたんだ。
 その時、ふと遠くからブーンという羽音が近付いてきて、ハチたちもこの近くで花の蜜でも探しているのかなと思った。次の瞬間、僕の胸のあたりにチクッという痛みが走った。
 僕はびっくりして、振り返った。そうしたら、キラキラとしたまるで宝石のエメラルドのようなハチが僕の胸のあたりを刺していた。僕は痛みと急な襲撃に猛烈に腹が立って、そいつをすぐに追い払おうとした。
 だって、そいつは僕の大きさの半分もない小柄な奴だったし、何よりこの僕は、この界隈ではすばしっこさではちょっと知られた存在だった。
 こんな小さい奴、すぐに追い払ってやる。
 さっそく、僕は素早く動く手足を使って、僕にのしかかってくるそいつに応戦した。だけど、そいつは顎で僕にかみついて離そうとしない。
 なんだよ、こいつ、尻から針を出している。
 僕を刺そうとしているんだ。
 絶対に負けてなるもんか。
 だけど、おかしい、前足に力が入らない。
 どんどん、足の感覚がなくなって力が抜けていく。
 そいつは動きが鈍くなった僕をここぞとばかりに押さえつけてきた。ほんの一瞬あの針が見えたかと思うと、頭のあたりがチクリとした。
 そのあと、僕は意識が朦朧として、目の前が真っ暗になったんだ。

Case 02  エメラルドゴキブリバチ 1

ゴキブリを奴隷化する宝石のようなハチ
その緻密かつ大胆な洗脳方法

 キラキラとしたハチに襲われたのは、ワモンゴキブリというゴキブリの一種です。日本に住む多くの方が一度や二度は自宅で目にしたことのある、あの虫です。

 ゴキブリの種類は全世界に約4000 種もあります。その数は1兆4853億匹ともいわれており、日本だけでも236億匹が生息するものと推定されています。ざっと計算すると、日本人1人につき、200匹のゴキブリがいるということですね。これを多いとするか、少ないとするかはさておき、ゴキブリはいろいろな意味で驚くべき昆虫です。

ゴキブリのすごい所4つ

 第一に、ゴキブリは相当な古参者です。約3億年前の古生代・石炭紀に地球に登場した最古の昆虫の1つ。大きさも形も当時とほぼ変わっていません。3億年前なんて、人類はおろか哺乳類さえ地球に存在していなかった時代です。そんな時代から絶滅もせず、生き残ってきた奇跡の昆虫とも言えます。むしろ、私たちはそんな何億年にもわたって生きてきた生物と共存できている現在に、感動しなければならないのかもしれません。

 第二に、ゴキブリは好き嫌いがなく何でも食べられます。昆虫の多くは、ある数種類の植物や昆虫しか食べられず、言わば好き嫌いが激しいのです。もちろん、実際は好き嫌いという嗜好の問題ではなく、他の種類の植物などを食べても栄養として吸収できない体なのです。しかし、ゴキブリは何でも食べる雑食性。人間の食べかすはもちろん、家の壁紙や本の紙、仲間の死骸やフンまで平気で食べて命をつなぎます。

 第三にゴキブリはとても繁殖力旺盛です。ゴキブリのメスは一度の交尾で何度も産卵でき、そのたびに“らんしょう”と呼ばれる、複数個の卵が納められているカプセルを産み落としていきます。この1センチ強の卵鞘は、見た目は少し大きめの小豆のようです。そして、この卵鞘はとても硬い殻に覆われているので、殺虫剤が効きません。

 一般家庭でよく見られるクロゴキブリの卵鞘1個の中には卵が22~28個入っています。そして、メスの産卵回数は15~20回。つまり、1匹のメスがゴキブリの子どもを500匹ほど産むことができるのです。「家にゴキブリが1匹出たら、100匹はいると思え」とはよく聞かれることですが、正確には「家にメスのゴキブリが1匹出たら、500匹はいると思え」が正確かと思われます。

 第四にとにかく素早いこと 。ワモンゴキブリの場合、1秒間に約1・5メートル走ることができます。つまり1秒間に自分の体長の40~50倍の距離を進むことに相当します。このスピードですが、人間の大きさに換算すると1秒間に85メートルほどのスピードで、東海道新幹線よりも速いということになります。

 やはり、知れば知るほど卓越したその能力に敗北感を味わわされ、人はゴキブリを怖がり嫌うのかもしれません。しかし、そんな世界の嫌われ者のゴキブリを意のままに操り、奴隷のように自分に仕えさせるハチがいるのです。

ゴキブリを襲う美しいハチ

 ゴキブリに襲いかかるのは、エメラルドゴキブリバチという寄生バチです。このハチは名前の通り、宝石のエメラルドのようなハチです。メタリック光沢を持ち、脚の一部はオレンジ色ですが、それ以外の部分はエメラルド色に輝く美しい金属の調度品のようです。その美しさから、英語圏では「ジュエル・ワスプ (宝石バチ)」と呼ばれています。

 エメラルドゴキブリバチは主に南アジア、アフリカ、太平洋諸島などの熱帯地域に分布するジガバチ(セナガアナバチの一種)の仲間で、体長は2センチ程度です。残念ながら、日本には住んでいません。

 このハチの名前には「エメラルド」の他に「ゴキブリ」という言葉も入っています。お察しのように、このハチはその名の通り、ゴキブリだけを襲撃します。そして、その襲撃相手は、ワモンゴキブリやイエゴキブリなど自分よりも倍以上体の大きいゴキブリたちです。

 しかも、先ほども少し触れましたが、ゴキブリはその素早さを武器に、走り去ったり、飛んだりすることもできます。自分の体よりも何倍も大きく、素早いゴキブリを襲撃して、成功する確率はかなり低そうに見えます。しかし、このエメラルドゴキブリバチには秘策があります。

 では、その緻密かつ大胆な秘策を見ていきましょう。

逃げる気が失せるゴキブリ

 エメラルドゴキブリバチは、最初に逃げまどうゴキブリの上から覆いかぶさり、顎でかみついて身動きを取れないようにします。そして、すばやく針を刺します。針を刺す場所は、かなり厳密です。

 どんな場所に針を刺していたかについて、2003年に行われた研究で明らかになりました。この研究では、放射性同位体をトレーサーとして用いて、ハチの毒がゴキブリの体のどこに向かったかを追跡しました。すると、ハチの毒はゴキブリの胸部神経節に入っていることがわかったのです。しかも、その場所に毒を注入されることによって、ゴキブリは前肢が麻痺しました。

 この1回目の麻酔は、2回目の注入のための準備です。前肢が麻痺したゴキブリはほとんど動けなくなります。その間に、より正確な場所を狙ってゴキブリの脳へ毒を送り込みます。

 次の2回目の注入では、ゴキブリの逃避反射を制御する神経細胞を狙ってハチの毒が流入しています。つまり、1回目の注入で、ゴキブリを暴れないようにし、2回目の注入で「逃げる」という行動そのものを抑えていたのです。

 2回目の注入の効果について明らかにした2007年の論文があります。この論文では、エメラルドゴキブリバチの毒が神経伝達物質であるオクトパミンの受容体をブロックし、それによって「逃げる」という行動を抑制していたことが明らかとなっています。

 逃げる気を失ってしまったゴキブリは、この後どうなってしまうのでしょう。

 「Case 03 洗脳された僕――あるゴキブリのその後」につづく

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[試し読み3]洗脳された僕――あるゴキブリのその後

Case 03 洗脳された僕――あるゴキブリのその後

 ふと意識が戻ると前足に力が入るようになっていた。僕はすっくと立ちあがった。そこには、まだあのキラキラとしたアイツがいた。そして、僕にゆっくり近付いてきた。
 逃げなきゃ、また何かされる。
 そう思う自分もいるし、体も動く。なのに、僕はなぜか逃げようという気になれず近付いてくるそいつを見ていた。
 そいつは僕の顔のところにきて、僕の大事な大事な触角を2本とも真ん中のところでちょん切った。
 僕の触角――光を感じ、匂いを感じ、その日の天気を感じ、ご飯がどこにあるか、それを教えてくれるたった2本しかない触角。それを、何のためらいもなく、アイツは真ん中から切り落とした。この時、死ぬ気で戦えば、アイツから逃れられたかもしれない。だけど、どうしようもなく、そんな気が起こらなかったんだ。
 アイツは、僕を連れてどこかへ移動する気のようだ。
 半分になった僕の触角をちょいちょいと引っ張って、こっちへ来いと言ってくる。僕はただアイツに従って歩くことしかできなかった。
 そして、この真っ暗な洞穴にきたのだ。
 そのあと、アイツは僕に何をしたんだ? すごく気持ちが悪かったのだけは覚えているのに……。あぁ、頭がぼんやりとする。僕は何かもっと重要なことを思い出さなくてはいけない気がする。
 待てよ、そうだ。
 あのあと、アイツがおもむろに、僕の肢の根元に丸い小さな卵を産み付け始めたんだ。僕は何度も、「そんな気持ちの悪いことやめてくれ」と言おうかと思った。
 だけど、僕はそうしなかった。それに、アイツの小さな卵なんて僕の器用な肢を使えば払い落とすことだってできた。だけど、僕はそうしなかった。なぜだか、そうする必要がないように思ってしまったんだ。
 その数日後に、僕に産み付けられた小さな卵から小さなイモムシみたいなヤツが出てきた。そして、ゆっくりと僕の体に穴をあけて、腹の中にモゾモゾと入っていった。
 僕はただそれをじっと見ていた。なんてことだ。
 僕の体に入っていったアイツらは今頃何をしているんだろう。日に日に、僕のお腹の中でモゾモゾとアイツらが動き回るのを強く感じるようになってきているんだ。

Case 03  エメラルドゴキブリバチ 2

宝石バチによる“ロボトミー手術”
ゴキブリの切なすぎる末路

ぼーっとするゴキブリ

 他の昆虫やクモ類などを捕らえて巣に持ち帰り、自分の子どものエサにするハチは「狩りバチ」と呼ばれます。これらのハチは、獲物を持ち帰る際、一発の毒で獲物を仮死状態にして巣に持ち帰ります。つまり、お持ち帰りできる大きさの獲物を狙います。

 しかし、エメラルドゴキブリバチの獲物は自分の体よりも何倍も大きいワモンゴキブリです。仮死状態になってしまったら、自分の力では巣に持ち帰ることができません。そのために、仮死状態にはせず、より複雑な毒を組み合わせて、獲物を自分の足で歩かせるのです。

 では、2回目の毒を脳に注入されたゴキブリのその後を見ていきましょう。

 ゴキブリは麻酔から覚めると何事もなかったように起き上がります。ほぼ無傷で元気に生きてはいます。しかし、1回目の毒を注入された時と違い、もう暴れたり逃げようとしたりはしません。それは、前項でもお話ししましたように、逃避反射を制御する神経細胞に毒を送り込まれているからです。

 逃げる気を失ってしまったゴキブリはまるでハチの言いなりの奴隷です。ゴキブリは自分の足で歩くこともできますし、普段通りの身づくろいなど自分の身の回りのことをすることもできます。ただし動きが明らかに鈍く、自らの意志ではほとんど動きません。

 このように2回毒を注入されたゴキブリは約72時間、遊泳能力や侵害反射が著しく低下しますが、一方で飛翔能力や反転能力は損なわれていないことが研究により明らかとなっています。

大事な触角が!

 ただ、ぼーっと突っ立っているゴキブリを見ると、エメラルドゴキブリバチは、さらに、ゴキブリに酷いことをします。ゴキブリの触角を2本とも半分だけ噛み切るのです。

 ゴキブリの触角は、人間の想像以上に大切な器官です。この触角を頼りに生活しているといっても過言ではありません。まず、この触角で障害物を察知しています。触角に感じる風の動きや刺激によって、障害物があるのかないのかを認識し、それによって自分の進む方向を決めています。また、エサを探すときにも触角を使います。あの長い触角をフリフリさせて、エサを察知します。

 そんな大切なゴキブリの触角をエメラルドゴキブリバチは容赦なく真ん中から切り落とします。切り落とされた触角からは当然、ゴキブリの体液が溢れます。ハチはこの体液を吸う行動を見せます。

 この行動はハチが単に自分の体液を補充するため、あるいはゴキブリに注入した毒の量を調節するためであると考えられています。毒が多すぎるとゴキブリが死んでしまい、また少なすぎても逃げられてしまうからです。

 この脳に対する毒の注入と、それによる行動の制御は、まさに人間でおこなわれた“ロボトミー手術”のようです。

人間で実際におこなわれていた恐ろしい脳手術

 脳の前頭葉の一部を切除あるいは破壊するロボトミー手術は、1935年にアントニオ・デ・エガス・モーニスという神経学者が考案した療法です。興奮しやすい精神病患者や自殺癖のある鬱病患者にこの手術をおこなうと、感情の起伏がなくなり、おとなしくなりました。

 そのため、この手術が精神疾患に絶大な効果があるとされ、この手術の開発の功績によってモーニスはノーベル賞を受けています。そして、その後、20年以上世界で大流行し、日本でも1975年までおこなわれていました。

 ロボトミー手術は「脳を切り取る手術」のため、頭蓋骨に穴をあけて長いメスで前頭葉を切る方法や、眼窩からアイスピック状の器具を打ち込み、神経繊維の切断をするといった方法がとられました。

 しかし、1950年代に入ると、この手術の恐ろしさが徐々に明るみに出てきます。ロボトミー手術を受けた患者は、知覚、知性、感情といった人間らしさが無くなっているという後遺症が次々と報告されました。そして、1960年代には人権思想の高まりもあってほとんどおこなわれなくなりました。

 

 日本では1942年に初めておこなわれ、第二次世界大戦中および戦後しばらく、主に統合失調症患者を対象として各地で施行されました。その間に日本でも3万人から10万人以上の人が手術を受けたと言われています。

 さらに、日本では、このロボトミー手術を受けた患者が、自分の同意のないまま手術をおこなった医師の家族を、復讐と称して殺害した事件まで起きています(ロボトミー殺人事件)。

犬の散歩ならぬゴキブリの散歩

 話を哀れなゴキブリに戻しましょう。

 ロボトミー手術のようなことをされたゴキブリは、逃げる気を失い、触角を半分切り取られてもぼんやりとしており、本来の機敏さもありません。そして、エメラルドゴキブリバチがゴキブリの触角をちょいちょいと引っ張ると、その方向にゴキブリは歩いていきます。まるで犬の散歩のようです。そして、ハチの促すままにある場所へと自分の足で歩いていきます。

 着いた場所は、真っ暗な地中の巣穴です。これはエメラルドゴキブリバチの母親が、自分の子どもを育てる場所として事前に作っておいた巣です。ゴキブリは自分の足で歩いて巣穴の奥深くに到着すると、長径2ミリほどのエメラルドゴキブリバチの卵を肢に産み付けられます。その間もゴキブリはじっとしています。

 卵を産み付け終わると、ハチは地中の巣から自分だけ外に出ます。そして、外側から、巣穴の入り口を土で覆います。これは、自分の卵とその卵を産み付けられたゴキブリが他の捕食者に見つからないようにするためです。そして、ハチは次の産卵のために、またゴキブリを探しに飛び立ちます。

 閉じ込められたゴキブリはというと、巣穴の出入り口を塞がれても、相変わらず巣の中でおとなしく待っています。何を待っているのか。それは、もちろん、ハチの子が卵から出てくるのを、です。

体を食い荒らされてもなお生きる

 ハチの子が卵からかえるまでは3日間程度あります。その間も、ゴキブリは肢の根元についている卵をくっつけたまま、静かに自分の身づくろいなどをして過ごしています。やがて、エメラルドゴキブリバチの幼虫が卵から孵ると、ハチの子どもはゴキブリの体に穴を開けゴキブリの体内に侵入していきます。

 ゴキブリはもちろん生きていますし、そしてある程度自由に動き回れる力も残っていますが、なんの抵抗も示しません。

 そして、その後の約8日もの間、ゴキブリは生き続けたまま、ハチの子どもに自分の内臓を食されます。生きたまま食すのには理由があります。このエメラルドゴキブリバチの幼虫は死肉ではなく新鮮な肉から栄養を摂取したいのです。そのため、自分が蛹になって肉を食べなくなるぎりぎりの時期までゴキブリを生かすように食べ進めます。

死んでもまだ役に立つゴキブリ

 ゴキブリの内臓をたっぷりと食べたエメラルドゴキブリバチの幼虫は、ゴキブリの体内で大きくなり、やがて蛹になります。そして、ゴキブリはハチの子どもが蛹になって体を食べなくなると、その使命を果たし終わり、ひっそりと息を引き取ります。

 しかし、内臓が空っぽになったゴキブリにもまだ役割はあります。内臓は空っぽですが、外側はゴキブリそのものです。昆虫は外骨格といって、外側の殻が最も固く、内臓や筋肉を守っています。エメラルドゴキブリバチはゴキブリの殻の中で蛹になります。ハチの子どもは蛹の間の4週間、動けず完全に無防備な状態です。その間をこのゴキブリの固い亡骸で守ってもらっているのです。

 そして、ハチの幼虫が蛹になって4週間後、成虫となったエメラルドゴキブリバチは、ゴキブリの亡骸を突き破り、美しいエメラルド色の姿で飛び出してきます。

ゴキブリ対策として、どう?

 エメラルドゴキブリバチの成虫の寿命は数カ月あります。そして、ハチのメスがゴキブリに数十個という卵を産み付けるには1回の交尾で十分なのです。

 じゃあ、衛生害虫としても問題になるゴキブリをエメラルドゴキブリバチにどんどん狩ってもらえばいいのでは? そう思われた方も多いでしょう。もちろん研究者にもそう考えた方はいました。

 1941年、エメラルドゴキブリバチはゴキブリの生物的防除を目的としてハワイに導入されました。結果はというと、残念ながらゴキブリ防除には期待していたほど効果がありませんでした。

 なぜなら、エメラルドゴキブリバチを大量に放し飼いしても、このハチは縄張り行動が強いため、広い範囲に広がってはくれませんでした。また1匹あたりで数十個という卵しか産まないため、ゴキブリの繁殖力に比べると歯が立ちませんでした。

日本にもいるゴキブリを狩るハチ

 エメラルドゴキブリバチは日本には生息していませんが、近縁の2種類のセナガアナバチ属がいます。セナガアナバチ(サトセナガアナバチ)とミツバセナガアナバチです。日本産の2種はエメラルドゴキブリバチよりもやや小ぶりで、体長は15~18ミリ程度です。

 セナガアナバチは本州の愛知県以南、四国、九州、対馬、種子島に、ミツバセナガアナバチはさらに南方の、奄美大島、石垣島、西表島に生息しています。

 この2種はエメラルドゴキブリバチ同様、体色は金属光沢を持ったエメラルド色で、クロゴキブリ、ワモンゴキブリなどを幼虫のエサとすることが知られています。

 「Case 11 受難――あるテントウムシの物語」につづく

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[試し読み4]受難――あるテントウムシの物語

Case 11 受難――あるテントウムシの物語

 僕は昆虫界の愛されキャラクター、テントウムシだ。ゴキブリなんて同じ昆虫でも世界中で嫌われているのに、僕たちは多くの人に好かれている。
 この真ん丸で赤い背中に斑点という姿が好感を呼ぶのかもね。
 僕たちは英語では「Ladybug:レディーバグ」なんて呼ばれているんだ。
 僕はオスだけど、それでも Lady(レディー)が付くよ。しかも、この Lady は聖母マリアっていう意味なんだ。僕たちは人間の農作物を荒らすアブラムシをたくさん食べるから、人間たちにとっては聖母みたいな存在なのかな。
 人間たちは僕たちを見つけると、「かわいいー」なんていうけど、こう見えても僕たちはとっても防衛能力が高いんだ。
 この赤や黒のきれいな斑点は、鳥たちにとっては警戒色だから気持ち悪がって僕たちを食べようとはしない。もちろん、僕たちを食べようとして、口に入れる動物もいるけど、その時は脚の関節から強い異臭と苦味がある有毒な黄色い液体を出してやるんだ。そうすると、僕たちを食べた動物はあまりのまずさにすぐに吐き出すし、次から僕たちを狙わなくなる。
 だから、僕たちにはあまり敵はいないんだ。
 だけど、僕たちにも恐れているものはいる。
 それは、時々僕たちに寄ってくる小さなハチだ。
「近付いてくる小さなハチには気をつけろ」って耳にタコができるほど仲間から言われていた。
 僕はこれまでそんなハチに出会ったことはなかったから、本当にそんなハチがいるのかな、なんて少し疑っていたけど、少し前、僕を狙って針を刺そうとするハチにはじめて遭遇した。そいつは、僕ににじりよってきて、針を刺そうとしてきた。僕はとにかく必死で抵抗した。気づくのがあと一瞬遅かったら、あの針に刺されていたと思う。
 だけど、僕はそいつを防ぐことができた。
 そいつは僕を狙うのを諦めたのか、あたりを見渡し始めた。そして、次の瞬間、隣の木でがむしゃらにアブラムシを食べている仲間の方に飛んで行った。
 仲間はハチに気づくのが遅くて、針を刺されてしまった。そのせいだと思うけど、仲間は動きが鈍くなっていた。
 その間に、ハチはもう一度、仲間の脇腹のあたりに何かを刺したように見えた。
 僕は心配になって仲間のところに駆け寄ったけど、その時にはもう仲間は普段通り動けるようになっていた。
 そして、何事もなかったようにまたアブラムシを食べ始めたんだ。
 ハチに刺された仲間は次の日もその次の日も必死でアブラムシを食べていた。その様子がなんだか鬼気迫っていて、僕はその仲間が心配で少し離れたところから毎日見守っていた。

 そうして数日がたったある日。
 仲間は急に動くのをやめた。そして、次の瞬間、仲間の腹から巨大なイモムシがゆっくりと這い出てきた。
 僕は恐怖で身動きが取れなかった。
 その巨大なイモムシは仲間の腹から完全に出ると、もう一度、仲間の腹の下に移動した。そして、糸を吐きながら繭を作った。その繭は仲間と同じくらいの大きさだった。
 仲間は、その巨大な繭を抱く形で動きを止めたままだ。
 僕はその異形がひどく恐ろしかった。
 だけど、死んでしまえば、仲間はもう苦しまずに済むと思って少しだけ安心した。
「ちがう!」
 仲間は死んではいなかった。
 繭を抱きながら、時々動いている。
 目を凝らしてよく見ると、繭を食べようと狙って近づいてくる虫たちを足で蹴飛ばして追い払っている。
「なんてことだ……」
 もう仲間はきっと僕たちの元には戻ってこないだろう。

 この時、僕はそう確信した。
 それが覆されたのは、たった1週間後のことだった。
 仲間は、何事もなかったかのようにまた僕の前に現れた。
 もちろん、巨大な繭なんてもう抱いていない。
 ただ、僕の前で以前と同じようにアブラムシを美味しそうに食べていた。
 僕が見ていたのはきっと夢だ。
 そう思わなければ、僕の頭がおかしくなってしまいそうだ。だから、僕は今まで見てきたことを全部夢だと思うことにしたんだ。

Case 11  あるテントウムシの受難

脳細胞を破壊され
体中は食い荒らされても
寄生バチを守り続ける
テントウムシの悲劇

 テントウムシは、コウチュウ目テントウムシ科に分類される昆虫の総称です。テントウムシは英語圏では「Ladybug:レディーバグ=聖母のムシ」と呼ばれ、農作物を守ってくれる益虫ととらえられています。

 日本では、テントウムシは「天道虫」という字を書きます。天道とは太陽のことです。テントウムシは太陽に向かって飛び立つという習性をもちます。そのために天道(太陽)に向かって飛ぶ虫ということでテントウムシと名づけられています。

 ゴキブリが近くにいたら「ギャー!」と叫んでしまう人が多いのに対し、テントウムシが近くにいてもほとんどの人は叫んだりしません。テントウムシを題材にしたアクセサリーや筆記用具なども見かけますし、一昔前は、結婚式の定番曲として「てんとう虫のサンバ」がありました。これが「ゴキブリのサンバ」という曲名だとしたらお祝いの席では受け入れられないことは確実です。それほどテントウムシは昆虫の中では、嫌悪感を抱かれにくいキャラクターなのでしょう。

 

 テントウムシは赤や黄色の色鮮やかな体色をもち、小さくて真ん丸な体です。そして、ゴキブリのようにすばやく動くことはほとんどなく、家の中に急に出現することもありません。このような見た目とおっとりとした特性に加えて、一部のテントウムシは農作物を荒らすアブラムシを大量に捕食してくれます。

 しかし、テントウムシと一口にいっても、その種類も様々でエサとなるものも大きく違います。そのエサとなるものは大きく分けて3つあり、アブラムシやカイガラムシなどを食べる肉食性の種類、うどんこ病菌などを食べる菌食性の種類、ナス科植物などを食べる草食性の種類がいます。肉食性の種が害虫のアブラムシなどを捕食するため世界中で重宝されてきたテントウムシです。そして、これらの種のテントウムシは、農薬代わりに使用される生物農薬の1つとして活用されています。

 小さく丸くかわいらしい姿をしたテントウムシですが、自分を捕食しようとする多くの敵から身を守る手段をもっています。

 私たちが水玉のようでかわいいと思っている赤や黒の斑点は、実は捕食動物に向けた警戒色です。そのため、鳥などはテントウムシをあまり捕食しません。また、幼虫・成虫とも敵に出会って突かれたりすると死んだふりをして難を逃れます。それでも、動物の口などに入れられてしまった時には、脚の関節から強い異臭と苦味がある有毒な黄色い液体を分泌し、口にした動物はすぐに吐き出してしまいます。

寄生バチに狙われるテントウムシ

 テントウムシは様々な防衛手段を持っていますが、寄生バチにはまんまとやられてしまうことがあります。テントウムシに寄生するのは、テントウハラボソコマユバチという寄生バチです。名前に「テントウ」と入っているのを見て、ピンとくるかもしれませんが、この寄生バチはテントウムシにしか寄生しません。体長わずか3ミリほどです。

 テントウハラボソコマユバチのメスは産卵できるようになると、まずテントウムシを探します。そして、テントウムシを見つけると、最初に麻酔を打ちこみ、その後、テントウムシの脇腹に卵を1つ産み付けていきます。

 卵から出てきたテントウハラボソコマユバチの幼虫はテントウムシの体に入り込みます。そして、テントウムシの体液を吸って大きく成長していきます。その間、寄生されたテントウムシの体は少しずつ蝕まれていきますが、外見や行動に変化はなく普段と同じように生活します。

 テントウムシの体内で体を食べに食べまくって約3週間後、テントウムシの半分以上の大きさになったハチの幼虫はテントウムシの外骨格の割れ目からゆっくりと這い出してきます。こんなにも大きなハチの幼虫に体内を食い荒らされていたテントウムシは、それでもなお30~40パーセントは生きています。その理由は、寄生バチの幼虫が、生死に直接影響しない脂肪などの組織を重点的に食べているからだと考えられています。

体中を食い荒らされてもなお寄生バチを守る

 テントウムシの体から出てきたテントウハラボソコマユバチの幼虫はテントウムシの腹の下にもぐるような形で繭を作り、その中で蛹になります。そうして、テントウムシは繭を抱くような形になります。

 そして、3割以上のテントウムシはこの時まだ生きています。命があるうちに、さっさと逃げたら良いのにと思いますが、寄生バチの幼虫が体内からいなくなった後も、逃げようとはせず繭を抱いています。

 ただじっと抱いて守っているだけではありません。自分の体の中身を食い荒らした寄生バチが蛹となって動けない間、蛹のボディーガードをします。蛹になった寄生バチは動けず外敵に狙われやすい状態です。クサカゲロウの幼虫などは、このハチの蛹が大好物です。しかし、瀕死のテントウムシは、蛹を狙った捕食動物が近付いてくると、脚をばたばた動かして追い払い、蛹を守ります。こうして、ハチが成虫になって飛び立っていくまでの約1週間、テントウムシは蛹を守り続けるのです。

寄生されたテントウムシの末路

 体内を巨大なハチの幼虫に食い荒らされ、そのうえ1週間も飲まず食わずで蛹のボディーガードをしていたテントウムシは、そろそろ死んでしまうのではないかと想像できます。しかし、信じられないことに寄生されたテントウムシの4分の1が最終的に元の生活に戻ります。そして、その奇跡の生還をしたテントウムシの一部は、再びテントウハラボソコマユバチに寄生される可能性もあるという皮肉な結果になるのです。

どうやってテントウムシを操るのか

 寄生されたテントウムシは寄生バチの幼虫が体から出てからもなお自分の意思とは関係なく寄生バチを守ろうとします。体内に寄生している状態であればマインドコントロールされてしまうのもわかりますが、体内に寄生バチがいなくなってからもマインドコントロールは続きます。

 なぜこのようなことが起こるのか、最近まで不明なままでした。しかし、2015年の論文で、その謎の一部がわかってきました。なんと、寄生バチは麻酔物質と一緒に脳に感染するウイルスをテントウムシに送り込んでいたのです。

 研究チームはハチに寄生されたテントウムシの脳はある未知のウイルスに侵され、脳内がそのウイルスでいっぱいになっていたことを発見しました。そして、寄生されていないテントウムシからはもちろんそのようなウイルスは見つかりません。研究チームはこの新規のウイルスをDCPV(Dinocampus coccinellae paralysis virus)と命名しました。

 テントウハラボソコマユバチはテントウムシに麻酔をして卵を産み付ける際に、同時にこのウイルスをテントウムシの体内に送り込んでいました。そして、ウイルスはテントウムシの体内で複製を繰り返して、その数を増やしていますが、この時点ではまだ脳まで広がっておらず無害な状態でいます。そして、寄生バチの幼虫がテントウムシの体内から出てくるとすぐに、ウイルスがテントウムシの脳内に入り込んで充満し、テントウムシの脳細胞は破壊されていきます。

 しかし、この脳細胞の破壊は、テントウムシ自身の免疫システムによるものだと考えられています。寄生したハチの幼虫がテントウムシの体内で生きている間は、テントウムシ側の免疫遺伝子が抑制されているのですが、ハチの幼虫がテントウムシの体内から這い出てくると、このテントウムシの免疫遺伝子は抑制を解かれ再活性化します。再活性化したテントウムシの免疫システムがウイルスに感染した自分の細胞を攻撃しているのです。

 そして、自己の免疫システムによって傷つけられた脳は、新規の寄生バチにまた寄生された場合、再び麻痺することがわかっています。

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著者プロフィール

成田聡子

ナリタ・サトコ

1978年生まれ。千葉大学大学院自然科学研究科博士課程修了。理学博士。大学院で共生細菌を研究した後、国立研究開発法人農業生物資源研究所、国立研究開発法人医薬基盤・健康・栄養研究所霊長類医科学研究センターなどで細菌、感染症、ワクチンの研究をおこなう。2020年3月現在、株式会社日本バイオセラピー研究所筑波研究所所長代理。幹細胞を用いた細胞療法、再生医療に従事している。著書に『したたかな寄生』(幻冬舎新書)、『共生細菌の世界』(東海大学出版会)など。趣味はチェロ、マラソン。

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