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ヌー道 nude―じゅんとなめ子のハダカ芸術入門―

みうらじゅん/著 、辛酸なめ子/著

1,980円(税込)

発売日:2021/12/20

  • 書籍

アートと書いて“いいわけ”と読む!

ロダンから裸のマハまで。土偶から黒田清輝に、街中の銅像まで。斯界のエロフェッショナルとコラムニスト界の巫女が、「芸術だもの」を合言葉に生み出されてきた古今東西のハダカをタネに大談議。そこから浮かび上がるエロとアートの共犯関係に、あなた自身のワイセツ観も一変する――!? 二人初の共著。カラー図版多数。

目次
はじめにみうらじゅん
1
女体にグッドデザイン賞を!
ヌード藝術談議の始まり始まり
2
アートと書いて“いいわけ”と読む
エロスクラップヌード写真史幾星霜
3
首切りと、ヌードと、ロダンと。
国立西洋美術館でハダカ拝見!
4
マスクからブラックホールまで
マイ猥褻はコレだ!
5
巨大権力に気をつけろ!
街場のハダカ「ヌー銅」の謎に迫る
6
土偶から、春画黒田清輝まで
にっぽんのハダカにモノ申す!
おわりに辛酸なめ子

書誌情報

読み仮名 ヌードウヌードジュントナメコノハダカゲイジュツニュウモン
装幀 鳥居清長《女湯》(部分)天明7年(1787) ボストン美術館蔵/カバー表、大久保裕文+深山貴世(Better Days)/ブックデザイン
雑誌から生まれた本 芸術新潮から生まれた本
発行形態 書籍
判型 A5判
頁数 160ページ
ISBN 978-4-10-334152-9
C-CODE 0071
ジャンル ノンフィクション
定価 1,980円

書評

「アートと書いて○○と読む」

山田五郎

 あきらかに無理があるいいわけも、あまりに堂々と押し通されると、つい許してしまったり、呆れるのを通り越して笑ってしまったりもする。
『ヌー道 nude―じゅんとなめ子のハダカ芸術入門―』は、アートという名のいいわけが、いかに堂々と見逃され、いかに滑稽な事態を招いてきたかを教えてくれる対談集。語り合うのはこのお二人だ。
 700巻を超えてなお増殖中のサグラダ・ファミリア的コラージュ大作“エロスクラップ”や、既存の裸体画に下着を上描きして脱構築する“穿かせたろう”など、やることなすこと現代アートの文脈に沿っていながら、それを指摘すると頑なに否定し、しまいには怒り出すみうらじゅん。本名の池松江美名義でどう見ても現代アートな活動を続けていながら、そこに触れると妙に恥じらい、ついには謝り出す辛酸なめ子――。共に武蔵野美術大学の出身で、絵画と文章を生業としながら、アーティストと呼ばれることを喜ばない。
 酒の席では時に面倒くさいお二人に、古今東西のアートとヌードを語らせれば、よくある「芸術か猥褻か」論議で終わらせてくれるはずがない。芸術と猥褻は必ずしも背反せず、両者の境は常に曖昧で幅がある。それを二者択一で断ずるのは意味がないだけではなく無理があり、無理が高じてしばしば滑稽な事態に陥ることを、その道のプロたる彼らは熟知している。
 たとえば、みうらじゅんが“ヌー銅”と命名した、日本全国の公園や駅や役所に置かれたヌード銅像。善男善女が行き交う公共の場に、あられもない裸像が寄付金や公金で設置されている状況は、冷静に考えればどうかしている。そんな異常事態がまかり通るのも、「芸術なら裸でも認められる」という理屈でなんとなく納得させられてきたからにほかならない。だが、これもよく考えれば何の説明にもなっていない。問題は、認められるか否か以前に、数ある芸術の中からなぜよりにもよってヌードを選んだのかという点にあるからだ。
 答を先にいってしまうと、「芸術なら裸も認められる」からではなく逆に「裸なら芸術と認められる」から。西洋美術における裸体表現は、無理ないいわけを押し通し続けることで、ヌードとアートの因果関係を逆転させてしまったのだ。
 アートに懐疑的なお二人は、もちろんそこを見逃さない。早くも第2章の見出しにおいて、一言で核心を突いてくる。曰く、「アートと書いて“いいわけ”と読む」。
 ルネサンスは古代ギリシャ・ローマの享楽的な裸体表現を単に復興しただけでなく、それを禁欲的キリスト教文化に組み込むという無茶に挑んだ。そこで考案されたのが、聖書や神話の登場人物、つまり同時代に実在しない歴史上の人物を描く場合には裸もやむなしといういいわけだ。かつて「東京都青少年の健全な育成に関する条例」をめぐる議論で耳にした、“非実在青少年”を思い出す。
 このいいわけは、やはりルネサンス期に確立されたアートという概念に上手くなじんだ。“非実在裸体”は、まさに時代を超越した普遍的な美を表現するアートにほかならないというわけだ。かくして非実在裸体は“ヌード”と呼ばれて実在裸体“ネイキッド”の上に立ち、西洋美術の堂々たる王道として開き直ることで、ヌードこそがアートであると人々に思い込ませることに成功した。
“ヌー銅”にしても、普通に服を着た銅像では、実在する人物の記念像と区別がつかない。そこにあるはずのない裸だからこそ、非日常的なアートと認識されるのだ。「アートと書いて“非常識”と読む」といってもいい。
 本書でも言及されているが、特に我が国では戦前に軍人の銅像を乱立させた反省から、平和を象徴するパブリック・アートが好まれた。公共の場に無防備な裸をさらせる国は、間違いなく平和といえる。今日の日本が“ヌー銅”だらけなのは、「ヌードと書いて“平和”と読む」からだったのだ。
 困ったことに、アートといういいわけは確かに欺瞞であり違和感に満ちてはいるが、そこが逆に面白く、憎みきれないところでもあったりする。
「いつか未来人がこの違和感に気がつくんですかね」
「とうとう芸術の正体が暴かれるでしょうね」
 そう語るお二人は、とうに芸術の正体に気づいている。だからアーティストと呼ばれることを喜ばない。だがその一方で、彼らはアートといういいわけが生む違和感を面白がり、それを制作の原動力とするアーティストでもあるのだろう。その証拠に、図版も豊富な『ヌー道』はそれ自体が“アートを疑うアート”というメタ作品に仕上がっている。お二人にとっては不本意極まりない評価だろうが、苦情はまた飲みに行ったときにでもゆっくり伺うので、この場はひとつお目こぼしを願いたい。

(やまだ・ごろう 編集者)
波 2022年1月号より
単行本刊行時掲載

著者プロフィール

みうらじゅん

ミウラ・ジュン

イラストレーターなど。1958(昭和33)年京都市生まれ。武蔵野美術大学造形学部視覚伝達デザイン学科卒業。在学中に漫画家デビュー。1997(平成9)年、造語「マイブーム」が新語・流行語大賞に。2018年、仏教伝道文化賞沼田奨励賞を受賞。著書に『マイ仏教』『「ない仕事」の作り方』『人生エロエロ』『見仏記』シリーズ(いとうせいこうとの共著)など多数。

辛酸なめ子

シンサン・ナメコ

漫画家、イラストレーター、コラムニスト。1974(昭和49)年東京都生れ、埼玉県育ち。武蔵野美術大学短期大学部デザイン科グラフィックデザイン専攻卒業。興味対象はセレブ、芸能人、精神世界、開運、風変わりなイベントなど。鋭い観察眼と妄想力で女の煩悩を全方位に網羅する画文で人気を博す。著書に『スピリチュアル系のトリセツ』『無心セラピー』『女子校礼讃』『電車のおじさん』『新・人間関係のルール』など多数。

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