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ギリシア人の物語III 新しき力

塩野七生/著

3,520円(税込)

発売日:2017/12/15

  • 書籍

塩野七生 最後の歴史長編は「永遠の青春」アレクサンダー大王を描く圧倒的巨編。

混迷のギリシア世界を弱冠二十歳で統一し、ペルシア帝国制覇へと向かったマケドニア王アレクサンダー。トルコ、中東、中央アジアを次々と征服し、ついにはインドに至るまでの大帝国を築きあげるも三十二歳で夭逝――。夢見るように生き、燃え尽きるように死んだ若き天才、その烈しい生涯に肉薄した歴史大作。

書誌情報

読み仮名 ギリシアジンノモノガタリ03アタラシキチカラ
装幀 アレクサンドロスの胸像(アクロポリス博物館蔵)/カバー、高橋千裕/装幀
発行形態 書籍
判型 A5判変型
頁数 480ページ
ISBN 978-4-10-309641-2
C-CODE 0322
ジャンル 世界史
定価 3,520円

書評

騎兵と歩兵、そして政治と人間

冨澤暉

 ともかく面白い本であった。著者の「ストーリーテラー」としての語り口が抜群であり、その魅力に引き込まれて私は大冊を一気に読了した。
 さて、私個人はといえば、十二歳のアレクサンダーが大人の誰もが乗りこなせない怪馬ブケファロス(牛の頭の意)を見事に統御し、その馬と最後のヒダスペス会戦(二十九歳)まで共に戦い一度も負けなかったというところに最も感動した。やはり大王の武人としての本質は戦場に機動をもたらす「騎兵」であり、しかも短命ながら極めて運の良い人であったということが、元自衛隊機甲隊員、即ち騎兵の末裔と自負する私を虜にしたのである。
「歩兵戦に対するものとして騎兵戦というものが存在する。敵の肉体に直接打撃を与えつつ逐次にその抵抗力を奪っていくのが歩兵戦の姿とすれば、騎兵戦は敵の神経中枢に一挙に踏み込んで、一瞬のうちに敵を麻痺打倒するのをその理想の姿とする。このような騎兵戦はかつてアレクサンダー、ハンニバル、スキピオ等によって華やかに用いられたが、シーザーの『歩兵の熟練』から始まるローマ軍団の時代には、決戦兵種として用いられず逼塞していた」と英国の軍事評論家リデル=ハートは1927年に出版した『近代軍の再建』の中で述べている。そして、その後戦場における歩兵と騎兵の主導権争いには紆余曲折があったものの、連発銃・機関銃・大砲等火力の増大の前に騎馬が機動性を失った現代、騎兵に対抗する手段を踏みにじる装甲モーター(即ち戦車)は騎兵史にとってまことに偉大なものになるだろう、という意味のことを続けている。リデル=ハートの「近代軍の再建」とは同時に「戦場に機動をもたらす騎兵の再建」なのであった。
 しかし戦場に機動をもたらす騎兵とは「寡を以て衆に勝つ」きっかけをつくる、即ち相撲の「前捌き」にあたる騎兵のことなのか、それとも「衆を以て寡を圧倒する」、即ち「本腰」にあたる騎兵のことなのかについて彼は明言していない。
 私が『近代軍の再建』を読んだ1960年代の日本では「戦車不要論」という風が吹いており、四面楚歌の機甲職種にいた私は生意気にも「日本でも騎兵の再建を」と呟いたのだが、権力ある人々には無視された。その後「戦車不要論」は益々勢いを増し、かつて千二百両あった戦車定数は三百両に削減されている。本腰に使う戦車が無くなった以上、前捌き用の戦車・装甲車を増加し偵察警戒部隊を強化しようと機甲隊の後輩たちが努力し、それが近く実現されると聞く。米軍では三十年も前に空中騎兵と装甲騎兵のコンビが確立されているのに、遅きに失した話だが先ずは一歩前進である。そして逆に、自衛隊の本腰の弱体化が問題となる。
 アレクサンダーの騎兵隊の隣にはいつも父フィリッポス二世が錬成した精強な歩兵(人数的には常に主力)がいて、その歩兵との協力の下に騎兵が「寡を以て衆に勝つ」決め手となり得たのである。アレクサンダー自身が優れた歩兵であったことも忘れてはならない。
 この騎兵・歩兵の問題の他に、多くのことを私は本書から学んだ。若い頃に悩んだ「海洋国家日本に陸上兵力は要るのか」「自衛隊は国民軍か傭兵か」「兵員補充・募集困難の常態化」「戦費調達の困難性」「持続的兵站の可能性」「国民・地元住民・外国軍との交流・協力の在り方」等々については二千五百年を隔てても変わらぬ難問であることを承知したが、やはり最大の問題は①部隊統率、②国内の統治(政治)、③外国・外国人との協調(外交)だということを教えられた。
 米国大統領の安全保障担当補佐官、マクマスター陸軍中将は「ベトナム・アフガン・イラク戦を通じ米国政府は戦争をテクノロジーで解決できると考えてきたがこれが間違いであった。戦争は昔も今も政治的で人間的なものである」と言っている。
 自己・自国ファーストの蔓延で、やや分裂ぎみの現世界だが、アレクサンダー・シーザー・ナポレオン(=クラウゼヴィッツ)に通ずるこの正道に戻るべきときなのであろう。無論、「哲人王」も「真の民主主義」もあり得ないが、「無政府主義」・「一国平和主義」はもっとあり得ない時代なのである。
 著者は都立日比谷高校で私と同じ一年生であったらしい。そのことは後に知ったことで、私は当時の「地中海を夢見る乙女」を全く知らない。当然、進学校の「落ちこぼれ」であった私を著者も知らなかったであろう。アレクサンダーという今に影響を残す歴史上の人物について、本書を通じ軍事・政治・人間に亘る「夢と現実」を語り合えたことは幸運であり光栄であった。感謝の心をこめて。

(とみざわ・ひかる 軍事評論家)
波 2018年1月号より
単行本刊行時掲載

インタビュー/対談/エッセイ

作家は自分を捨ててこそ生きる 後編

塩野七生

聞き手 伊藤幸人(新潮社取締役)

五十年もの長さにわたって作家生活を送ってきた塩野七生さん。歴史を書く上でもっとも大切なこととは何だったのか――。また、仕事をともにしてきた、忘れられぬ人々の横顔を語ってもらった。(前編はこちら

――今作のあとがきにも書いておられますが、塩野さんは「中央公論」の編集長・粕谷一希さんと花形編集者だった塙嘉彦さんに見出される形でデビューを果たしたわけですが、お二人だけではなく、文藝春秋であれば社長にもなった田中健五さん、そして新潮社でいえば常務・新田敞という、私にとっては仰ぎ見るような大先輩と、塩野さんは仕事をしてきました。

塩野 彼らに加えて新潮社の先代の社長(佐藤亮一)ね。彼らはみんな私の年上なんです。だからちょっと甘ったれて付き合えるような感じがあった。新田さんに「売れない」ってボヤいたら、「だいたい君は売れるように書いているのか」なんて言い返されました。「いや、そういうわけでもないです」としか答えられなかった(笑)。「そのうち売れますよ」なんていなされましたね。粕谷さんにもよくお説教されました。デビュー作である『ルネサンスの女たち』には四人の女が登場するわけですが、その三人目「カテリーナ・スフォルツァ」の原稿を編集部に渡したところ、長いというので粕谷さんが二回に分けて掲載した。それで私が「あれは分断されたら困る」と抗議したら、「『中央公論』は原稿用紙にすれば全部で一千五百枚ぐらいだが、君の一篇は百五十枚もある。君に雑誌の十分の一をやるわけにはいかない。自分を中心にして世界が回っていると思ってはいけないよ」なんて叱られました。はじめはそういう編集者たちと仕事をしていた。そしたら、その人たちが全員なぜか同じ時期に社長になったり、偉くなったりしたものだから、各社とも若いのが担当になったというわけ。その中の一人があなたなんだけれど、困っちゃったわよね。

――そうでしょうね。まだ右も左もわからない若僧でしたから。前回も少し触れましたが、塩野さんとのお付き合いももう三十五年。私が二十八歳の時以来です。少し思い出話をさせて下さい。

編集者との悪戯

塩野 担当になった時、あなたはずいぶん年下でね。そのときに思ったのは、若い叔母さんと甥は何でも話せる仲だというけれど、その線でいくしかないと思いました。いまだにあなたのことを、クン付けで呼んでしまうのはそのせいね。あなたはいまや重役でもあるわけだけれど、まあ一人くらいはクン付けで呼ぶ人がいたっていいじゃないですか。

――親子というほどには離れていないし、弟にしては離れている年齢という間柄です。編集者とはいかにあるべきかをずいぶん教えられたと思います。当時は「新潮45+」という雑誌の編集部にいたのですが、初めて受け持ったのが塩野さんの『サイレント・マイノリティ』という連載コラム(現在は新潮文庫刊)。この連載で私は大ミステイクをしているんです。1983年3月のことですが。覚えていらっしゃいますか。

塩野 そんなこともあったわね。

――受け取った原稿に「凡なる一将は、非凡なる二将に優る」という言葉があったんです。ナポレオンの言葉ですが、指揮系統の一本化はそのくらい大事なことなんだと、ナポレオンは言いたかったわけです。ところが私は何を勘違いしたのか、変だなと思ってしまった。

塩野 それで、あなた、直したのよね。私に断らずに。「非凡なる一将は、凡なる二将に優る」と。

――その直後に「非凡なる一将は、凡なる二将に優る」とも書いておられるし、つい何かの書き損じかなと思ってしまったんですね。常識的に考えれば、この方が正しいに違いないと思いこんでしまったのです。国際電話をかければいいんだけれど、通信事情が今ほどよくない時代のことです。塩野さんも国際郵便で原稿を送ってくれていた。ファックスさえもまだない。

塩野 「凡なる頭脳で非凡なる文章を直すな」って怒ったわね(笑)。でも喧嘩は一度もしなかった。

――そうなんです。塩野さんはあまり怒りが長続きしない方なので(笑)、その大失敗をした後にも、いろいろと面白い仕事をしていただきました。まずは中曽根内閣の官房長官だった後藤田正晴氏に二人で会いに行って単独インタビューをしているんですね。後藤田さんは新聞の記者会見には応じるけれど、個別の対談やインタビューには一切応じない人で、ベールに包まれていた。

塩野 たしかイタリアから一時帰国している最中で、連載を休ませてほしいって言ったのよね。そしたらあなたが「それは困る」というから、「じゃあ対談ぐらいならばする」と。で、「じゃ、誰とやりましょう」とあなたが言うから、「うーん、そうね、後藤田さんあたりはどう?」って。

――ますます困ったのを覚えています。なにしろ個別取材には応じない恐い官房長官だというので有名でしたから。「そんな非現実的なこと言わないでください」って。

塩野 そうそう。でも会ってみるとけっこういろいろ話してくれたじゃない。

――後藤田さんがこんなに自分自身のことをあけすけに語ったのは珍しいと思います。

塩野 「新潮45+」ではほかにも対談をしたと思うんですが。

――そうです。当時の市民運動のプリンスだった江田五月氏と共産党の法律顧問だった弁護士の石島泰氏。

塩野 石島氏の時はね、われわれはちょっとばかり策を練ったわけ。相手は共産党だと。よし、ならば舞台装置はブルジョアでいこうと。

――対談場所としてホテルオークラの部屋を用意しました。

塩野 シャンパンも用意しなさいって言ったんだったわね。

――なぜこの弁護士が注目を浴びたかというと、左派の弁護士にもかかわらず、田中角栄のロッキード裁判を批判したんです。ゴリゴリの共産党シンパが「田中角栄裁判というのは問題だ」と。実際あの裁判は確かに検察が無理をしているところがあった。で、その人に好きなように語らせたんですね。そしたら、しゃべり過ぎちゃったんです。共産党関係者としてはまずいことも、いろいろと。

塩野 そうだったわね。

――もう塩野さんに乗せられて、どんどんしゃべる。で、原稿ができて見せにいったら、ほとんどどこも使うな、ボツだって言い始めた。だけど、それはダメですと。実際にしゃべっているんだから。そんなのダメだと言って、載せました。

塩野 あのときは新田さんが英断を下したんですよね。「いや、このまま載せましょう」って。あれで当時の共産主義者の化けの皮を剥いだわよね(笑)。

仕事仲間に求めること

――私がまだ三十五歳で、編集長として「フォーサイト」という雑誌を創刊することになったときのことです。不安でいっぱいだったんですが、相談すると塩野さんは「あなた、部下を選んではいけない」とおっしゃった。で、その先がすごい。カエサルはまさにルビコンを越えんとするとき、彼がもっとも信頼する子飼いであるはずの第十軍団が来ていなかった。彼らを引き連れてルビコンを渡り、ローマに侵攻しようと考えていたんだけれど、現実には子飼いではない第十三軍団しかいない。しかし、もう時、満ちたりと。それで例の「賽は投げられた」となるわけです。ポンペイウスを中心にした反カエサル包囲網が作られていて、一刻もはやくローマに行かなければならないという状況ですから、カエサルは迷わず第十三軍団とともにルビコンを渡ったというんです。だからあなたも、部下を選んではいけない、と。この壮大な比喩には痺れましたね。塩野さんは若い人間へのアドバイスが本当にお上手です。

塩野 そんなことないですよ。私も楽しく仕事をしているわけだから、私の仕事に協力してくれる人たちにも楽しんでほしいと願っているだけのことです。楽しく、面白がって仕事をしていると、意外に成功しちゃうものですから。私もこうして五十年もこの仕事を続けられたのは、真面目なことばかりやってきたわけではないからかもね。

――相当な悪戯もしてきました。

塩野 編集者たちには悪いなとも思うのよ。なにしろこちらの頭がまだ整理されていないときに、長電話に付き合わせるでしょう? しかも長電話で話していたことが原稿になったときは、まったく違った形になっていることさえある。

――原稿にならないことだってありますしね。

塩野 でもね、対話っていうのはすごいものなんですよ。私があなたに話すわね。そして意が相手に通じる、それだけじゃないんです。自分の中で整理していくわけ、話しながら。司馬遼太郎先生はすごくおしゃべりだったと聞きますけれど、きっとご自分の中で考えを固めていったんじゃないかしら。黒澤明もおしゃべりだった。話しながら整理しているんだと思うんです。

――われわれは時には二時間、三時間と長電話することもありますね。

塩野 編集者はやっぱり原稿を書く上ではもっとも重要な協力者ですから。まだまだ粗の多い草稿を送った時なんかは、あなた方も文句があるでしょうけれど。でもいちいち粗探しをされるとゲンナリしちゃうわけ。だけど、パッと一つだけ何かいいことを言ってくれるだけでね、頑張ろうという気持ちになる。今でも覚えています。中央公論の塙さんの言葉ですが、「われわれは君が書いてる史実の結末を知っている。しかし、それでも読んでるうちに、サスペンスを感じる」と。そういうようなことを言われるとね、なんだか水をつけられたって感じで、お餅をつく手が元気づくのです。私にとっての一番いい編集者はそれです。餅つきの合いの手を入れてくれる人。

完璧な白紙になる

――『ギリシア人の物語』に話を戻しましょうか。

塩野 最近思うことですが、理論的に言えばウィキペディアとAI(人工知能)を組み合わせればローマ史もギリシア史も書けるかもしれません。しかし、実際は書けないでしょう。というのは、ある資料をどう読み込み、解釈するかというのは、やっぱり書く人間次第なんです。なにしろ古代に関していえば資料というのはだいたいもう出揃っていて、上限は決まっている。つまり、決めるのはデータの量ではない。学者が書く歴史よりも作家が書く歴史が面白い理由はね、両者とも勉強することでは同じなんですが、学者たちはその過去のデータに囚われるからです。それに対して作家というのは過去のデータ、つまり資料の一行をどう読み込むかに自分の全精神、生命をかけるわけです。

――学者でも作家でも人工知能でも、取り扱う資料データは一緒ですよね。公開されている情報です。

塩野 ええ。でも集めただけではダメ。読み込む必要がある。そして作家にとって一番面白い対象は人間です。でも学者はそうではない。人間に対して感情移入してはいけないことになっている。歴史の教科書から坂本龍馬だとかハンニバルが消されそうだと聞きますけれど、どうかしていると思います。歴史はやはり人です。

――ハンニバルでいえば、彼は戦地で野営するときに、ほかの兵士たちとともに地べたで眠り、兵士たちがそっと彼に毛布をかけたという話が『ローマ人の物語』に登場します。これは公開資料に書かれていることですよね。学者は注目しないけれども、作家はそこからするどく何かを持ってくる。

塩野 佐藤優さんが言っていたことだと思うんだけれど、インテリジェンスも結局は公開資料がもっとも大事な情報源だって。歴史も同じです。

――大事なのは公開資料をどう読み込むかですね。

塩野 将棋の羽生善治さんがどこかで言っていましたが、われわれの頭脳と人工知能のどこが違うかというと、「汎用性」という言葉を彼は使っていました。つまりデータや資料が、誰にでもアクセスできる状態で、ある。しかし、そこに変なものをつなげたり、思いもよらないものと組み合わせることができるのが、われわれの頭脳だということなんです。歴史を書くときも同じです。大事なのは書く人間がどう公開資料を解釈し、組み合わせるかということです。

――なるほど。

塩野 とはいえ解釈ありきで資料そのものはないがしろにしていいということではありません。解釈を過信してはいけません。歴史や史実に対しては常に謙虚でなくてはいけない。「蟹は自分の甲羅に似せて穴を掘る」という言葉があります。つまり、塩野七生なんてつまらない女なのだから、私に合った穴を掘っていたら、小型の蟹しか入ってこないことになっちゃうでしょう。だから私は、この男を書くということだけ決めたら、あとは白紙なんです。書きたい対象を前にして、私は完璧な白紙になるの。だから、塩野七生のオリジナリティだとか、塩野七生の文体とか、そんなことは知ったことではない。自分の独自性を発揮しなきゃと思うと、本当に苦労すると思います。

――若い作家が陥りがちなところかもしれません。

塩野 現代の美術はパワーがないと私は思っていますが、それは独自性を求め過ぎだからだと思います。私はすべてのものは独自性を求めたときに、純なるパワーが失われると思ってます。少しばかり刺激的な比喩を持ち出しますが、男と恋愛するのが嫌、ベッドインするのが嫌だっていう女性がいますよね。彼女たちの言い分は、そういう関係になると主導権を失って、自分の個性が損なわれるからということなんだと思うんですが、私から言わせたら、そんなことで損なわれるような個性は個性ではない。愛した男の前で白紙になることを畏れてはいけません。それにね、「死んで生きる」という考え方があると思うんです。

――死んでこそ、生きるということですか。

塩野 ええ。死んでこそ生きる。私は自分、塩野七生を捨てるわけですよ、書くたびごとに。

――そうすることで対象が生きる。生かす。

塩野 そう。そしてその対象を生かすことによって、私がまた生き返るわけ。塩野七生なんてたいした女ではないけれども、惚れる相手、選ぶ男には少しばかり自信があります。だから、今度の男アレクサンダーも魅力的なはずですよ。

(しおの・ななみ)
波 2018年2月号より
単行本刊行時掲載

私は二千五百年を生きた 前編

塩野七生

聞き手 伊藤幸人(新潮社取締役)

「最後の歴史エッセイ」と決めて書いた作品が刊行されたばかりの塩野七生さん。選ばれた題材は、弱冠二十歳でマケドニアの王となり、三十二歳で夢のように消え去ってしまったアレクサンダー大王。なぜアレクサンダーを選んだのか、歴史を書く喜び、読む愉しみについて聞いた。

――塩野さんが書いた文章がはじめて雑誌「中央公論」に掲載されたのが1968年。来年でデビュー五十年ということになります。今日はこの間のことをいろいろとお聞かせいただければと思っています。私がはじめて塩野さんと仕事をしたのは二十八歳のとき、三十五年前ということになります。

塩野 聞き手があなたでなければ言葉を選ぶところですが、今日はちょっとしゃべりすぎちゃうかもね。それにしても三十五年ですか。ずいぶんうまいこと続いたわね。喧嘩もせずに。

――どうしてでしょうね。私も至らないことがずいぶんありましたが。

塩野 私が外国にいたからよ。あんまり会わなかったっていうだけ(笑)。喧嘩もせず、非常にいい距離感で仕事をしながら、この三十五年を過ごしてきたわけです。

――歴史エッセイ、つまり塩野さんの定義するところの「調べて、考えて、歴史を再構築する作品」としては最後と決めてお書きになりました。

塩野 そう。これでおしまい。作家生命の終わりってわけ(笑)。

二十二年間、愛撫してきた

――最後の歴史エッセイ、編集作業を終えていかがですか。

塩野 これまでも一作ごと、「やった!」という感じで書いてきましたけれど、今度も「終わった!」という、ただそれだけです。あんまり私、過去は振り返らないので。振り返るほどの過去でもないし……。

――長大なマラソンを走り続けてきたみたいなものですよ。

塩野 まあ、そうかもしれません。誰も走らない道を。

――最後の作品をアレクサンダーでいくということは、ずいぶん前から伺っていました。一番最後に一番若い男を書く、と。有言実行ですね。先に宣言してしまって、それに向けて自分を追い込んできたということですか。

塩野 そんな格好のいいものじゃないんです。そんな真面目に考えていたら五十年も続かない。ただ書きたいなと、ずっとそう思っていたというだけ。イタリア語で「アカレツァーレ」っていうんです。「愛撫する」という意味。「書こうかな、書きたいな」という想いを愛撫し続けてきた。時にはコラムか何かでちょっと書いてみて、自分の気持ちを確かめたりして。そして、これ以上はもう待てないというところまで持っていくわけ。カエサルについて書こうかなと思っていたときなんて、カエサルの名前を耳にするだけで気分が昂ぶりました。そこまで行って、ようやく書ける。ずいぶん時間はかかりましたけれど、それでもきちんと書いたでしょう? 私、自分の人生はね、あんまりオーガナイズできないの。なんだか散らかった人生です。でも仕事はオーガナイズする。もう二十数年前のことだと思いますが、アレクサンダーを「書ける!」と思って、それからアカレツァーレ、愛撫してきた。愛撫はするけれども、ベッドインまではしていないという感じでね(笑)。

――ベッドインするまでに二十数年もかけたわけですね。

塩野 こんなこと言っちゃっていいのかしら、私。「」の生真面目な読者には刺激的過ぎるかな。

――塩野さんらしい比喩です(笑)。

塩野 もともとアレクサンダーのことは、それほど好きではなかった。誰かの書いたものを読んで、なんだか優等生みたいなことばかり言うなという印象だった。しかしある時――『ローマ人の物語』の第四巻第五巻でユリウス・カエサルを書き終えた直後の頃だと思いますが――大英博物館が企画したアレクサンダー展がローマに巡回してきて、それを昼下がりに見たんです。「イッソスの会戦」に代表される有名な戦闘を再現したミニチュアなんかを見ていて、「書ける!」と思った。「書きたい!」と。カエサルは「成熟した天才」でした。そのカエサルを書き終えた時だからこそ、「未完の大器」だった男を書きたい、書けると思ったんです。

――カエサルを書き終えた頃となると二十二年前ですね。

塩野 アレクサンダーという男は西洋史最大のスターの一人です。ヨーロッパ人であれば誰でも彼のことを知っている。それは彼が「永遠の青春」、その象徴だから。だけどおかしな話でね。『ローマ人の物語』だってはじめからローマの通史を書こうと思ってたんじゃないんです。ただカエサルが書きたかった。これは歴史家ブルクハルトの言葉ですけれど、歴史上にはなぜか過去がすべてその一人の人物の中に注ぎ込み、そのあとにやってくる時代のすべてがその一人の人間から流れ出すような、そういう人間がいるんです。

――カエサルがそうだったわけですね。

塩野 ソクラテスもそうかもしれない。イエス・キリストもそうです。卑近な例を挙げればエルヴィス・プレスリーもそう。黒人音楽やカントリー・ミュージック、ヒスパニックの音楽まで、何から何までもが彼に流れ込み、その後はすべて彼から始まる。ビートルズやローリング・ストーンズ――。だからカエサルを書こうと思ったら、彼の前の時代のローマを書かなければ話にならないと思ったし、彼のあとのローマも書かなきゃってことで、それであんな十五巻もの長い作品になったんですね。アレクサンダーも同じことです。うちの息子には「ママ、アレクサンダーだけを書くって話だったんじゃないの?」って言われましたけれど。いろいろとお勉強をしてみると、この人はマケドニア王ではあるけれど、やっぱり「ギリシア人」だと。となれば、ギリシア人の歴史すべてを書かないといけない。

――それで全三巻になったわけですね。

塩野 一巻のはずが三巻に増えちゃった(笑)。

ボーダーレスな生き方

――塩野さんは、単に「若い男」というよりは「精神が若い人」が好きですよね。つまり、若々しい精神。

塩野 粕谷一希(中央公論社の編集者。塩野さんのデビューのきっかけを作った)が言ったことだったかな。私の好きな男にはタイプがあるんですって。まずもってエリートであること。それでいて偏見から自由な男。つまり「ボーダーレス」な男が好きなんです。

――境界を越える男。アレクサンダーもその一人ですね。

塩野 通史を書く以上は、ボーダーを越えられなくてウジウジする男たちのことも書かなきゃならない場合もありますが、中心的な人物は必ずそういうタイプだった。神聖ローマ皇帝だったフリードリッヒ二世だってその典型ですよ。彼はドイツとイタリアのハーフですしね。

――逆に「純血主義」とか「頑迷固陋」とか、柔軟性の欠如した人々は許し難いともお考えですよね。

塩野 私が一番嫌いなのは、「狂信的」な人。なにしろ私自身がボーダーレスなんです。普通ならばお見合いして結婚するのが私の卒業した学習院大学の女の子の伝統なのに、ヨーロッパに行って、イタリア男と結婚し、子どもまで作っちゃった。これだけでも相当に型破りだったんです。今でも覚えています。最初にヨーロッパに向けて発ったとき、飛行機の座席に座って、「もう後戻りはできない。お見合いして、妥当に結婚するという道は、もはやない」と思った。当時はね、イタリア男は「ラテン・ラバー」とかって言われて、いたく悪名高くてね。そういう国に娘を送ることになったんだから、うちの両親もちょっとばかりは心配したかもしれない。

――それはご心配だったでしょう。

塩野 帰国して、お見合いしたとしても、「イタリアに一年いました」っていうだけで、なんというか、「傷がついてる」とまでは言わないけどね(笑)。そう思われたでしょう。しかし普通の道から外れることを、私は選んだ。だから境界を悠然と越える男たちが好きなんですよ。それにもう一つ、私はリスクを負う男が好きなんです。「一人で全責任を負う」という男が好き。

――アレクサンダーはまさにその典型ですね。今度の作品の中で僕らがもっとも魅了されるのは、常に戦闘の最前線に立つという点ですね。「ダイヤの切っ先」という比喩をお使いになっていましたけれど。

塩野 彼は部下たち、つまり兵士たちに愛されたんです。だって、いつだって誰よりも先にリスクを負って飛び出すのだから。人間ってみんな、そうじゃないかと思うんですね。リスクを負う人間を愛するんです。

――リーダーにとって絶対に必要な条件ですよね。リスクを取らないリーダー、常に自分の身の安全を図ろうとするリーダーには誰もついていかない。

塩野 アレクサンダーを書くということは、私自身がリスクを負うということでもあったんです。何しろこちらは八十歳で、二十代の男を書こうというのだから。最後まで安全な人生は選ばなかったつもりです。だから書き終えた今は少しくらい休んでもいいんじゃないのかなという気分です(笑)。うちの息子は信じませんけれど。「ママは書いているから生きてんだ」って言ってます。それで、あなたはこの作品はどうでした? 面白かった?

――面白かった。胸がすく思いがしましたね。若さゆえに成し得た大偉業、若さゆえに駆け抜けた。まさに「永遠の青春」ですね。

塩野 私はもう老いぼれだけど、老いぼれた作家が老いぼれた主人公を書くというのはリスクを負っていないということになると思うんです。だってそれはごくごく自然なことじゃないですか。書評家たちは褒めてくれるかもしれないけれど。「ついに塩野七生も老境を書いた、枯淡の域に達した」とかいってね。でも私が最後の作品で背負うことができるリスクというのは何かといったらね、三十二歳で燃え尽きるように死んでしまったこの若い男を、八十歳になったこの私が書くということですよ。

歴史を書く喜び、読む愉しみ

塩野 私は独自性とかオリジナリティなんて考えたこともないんです。かのアインシュタインが「われわれの仕事の成果は九十五パーセント以上、先人の業績に負っている」と言うんだから、私のような凡人は百パーセント近く先人の業績に負っているわけです。私はアレクサンダーを書きたいんであって、塩野七生を書きたいということではない。塩野七生の独自性がどこにあるかといえば、このアレクサンダーという人間を選んだという、それだけのことです。

――しかしこれで、古代・中世・ルネサンスと、地中海が西洋史の中心だった時代をすべて一人で書きましたね。

塩野 神話のような時代を含めれば二千五百年くらいですか。この仕事を始めた頃から数えれば五十年くらい生きてきたわけですが、しかし歴史を書くということは、その二千五百年を生きたということなんです。そしてそれは読者も同じことです。二千五百年を読むことで、二千五百年を生きることができる。これが歴史を書き、読む愉しみなの。私は読者にもそれを体験してもらいたいんです。

――塩野さんの後を追いかけて、歴史を追体験するようなものですからね。

塩野 私は「現代ビジネスマンのための世界史」というような本は死んでも書きたくありません。なぜなら、ビジネスマンのためになる史実、歴史だけをピックアップすることになってしまう。

――あとは捨象しちゃうことになります。

塩野 そう。それでは歴史を書いたことにはならない。それにもう一つ。作家としてはちょっとばかり打算的な計算もあるわけだ。

――打算的?

塩野 だって現代人のためだけに書いていたら、時代が変わってしまったときに困るじゃない。売れなくなっちゃうもの(笑)。そういうものって、必ずしも経済的に見ても利口なやり方ではないのではないですか? 時代に合ったものって、非常に早く時代遅れになりますから。

――しかし現代人のために加工した歴史は書かないとなると、読者に求める水準が高いとも言えませんか。

塩野 その通り。筋肉だってちょっと無理しないと強くならないじゃないですか。いつもできることばかりやっていたら筋肉は鍛えられない。頭脳もまったく同じなんです。

――でも塩野さんご自身は非常にビジネスマン的でもありますよね。

塩野 だってあなた、全力投球して書いた作品ですよ。いかに長い命を持たせるか考えるなんて、当たり前のことじゃないですか。

オープンな精神を持った人々に支えられてきた

塩野 といって私だって商売のことばかり考えているわけでもないんです。「アマデウス」という映画をご覧になりましたか。主人公のモーツァルトがお姑さんに何だか文句を言われているシーン。彼はそれをてきとうに聞き流しているわけですが、そんな時にあの「魔笛」の「夜の女王のアリア」のメロディが生まれる。ふっと……テイクオフするみたいに。「善悪の彼岸を超える瞬間」といってもいい。

――離陸する感じですか。ふっと。

塩野 いつまでも飛行場に留まっていては、私にとっては書く意味がない。テイクオフする瞬間がなければ、作家とは言えない。私の読者はみんなその瞬間を待ってくれているのですから。私の読者ってね、この五十年の経験から言えば、まずもって男女の別がない。年齢の別もない。地位の別もありません。大会社の社長がいるかと思うと看護婦さんがいたり、小さい町の町長さんもいるし、公務員もいれば、学者、学生もいる。もちろん主婦もいる。でも彼ら彼女らに共通するのは、自分の世界に安住しない人だということなんです。自分の知らない世界へとテイクオフする勇気を持っている人々。オープンな精神を持った人。そういう読者に私は支えられてきましたね。

――狂信的とは真逆の人々ですね。

塩野 私はこの五十年間、ボーダーを越える勇気を持った人々に支えられて書いてきたのです。

次号に続く

(しおの・ななみ)
波 2018年1月号より
単行本刊行時掲載

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塩野七生

シオノ・ナナミ

1937年7月7日、東京生れ。学習院大学文学部哲学科卒業後、イタリアに遊学。1968年に執筆活動を開始し、「ルネサンスの女たち」を「中央公論」誌に発表。初めての書下ろし長編『チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷』により1970年度毎日出版文化賞を受賞。この年からイタリアに住む。1982年、『海の都の物語』によりサントリー学芸賞。1983年、菊池寛賞。1992年より、ローマ帝国興亡の歴史を描く「ローマ人の物語」にとりくむ(2006 年に完結)。1993年、『ローマ人の物語I』により新潮学芸賞。1999年、司馬遼太郎賞。2002年、イタリア政府より国家功労勲章を授与される。2007年、文化功労者に選ばれる。2008ー2009年、『ローマ亡き後の地中海世界』(上・下)を刊行。2011年、「十字軍物語」シリーズ全4冊完結。2013年、『皇帝フリードリッヒ二世の生涯』(上・下)を刊行。2017年、「ギリシア人の物語」シリーズ全3巻を完結させた。

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