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ブロッコリー・レボリューション

岡田利規/著

1,980円(税込)

発売日:2022/06/30

  • 書籍
  • 電子書籍あり

泣いてるのはたぶん、自分の無力さに対してだと思う、わかんないけど。【[第35回]三島由紀夫賞受賞作】

海辺のちいさな部屋で。もう二度と訪れることはないかもしれない東京で。延々と改装工事が続く横浜駅の地下通路で。そして、タイの洞窟にサッカー少年たちが閉じ込められていたあの夏、きみは部屋から姿を消した。どうしようもなくこんがらがっていく世界を生きるわたしたちの姿を演劇界の気鋭が描きだす、15年ぶり待望の第二小説集。

  • 受賞
    第64回 熊日文学賞
  • 受賞
    第35回 三島由紀夫賞
目次
楽観的な方のケース
ショッピングモールで過ごせなかった休日
ブレックファスト
黄金期
ブロッコリー・レボリューション

書誌情報

読み仮名 ブロッコリーレボリューション
装幀 guse ars/Artwork、新潮社装幀室/デザイン
雑誌から生まれた本 新潮から生まれた本
発行形態 書籍、電子書籍
判型 四六判
頁数 224ページ
ISBN 978-4-10-304052-1
C-CODE 0093
ジャンル 文芸作品
定価 1,980円
電子書籍 価格 1,980円
電子書籍 配信開始日 2022/06/30

書評

一人称ではない私

星野智幸

 驚異的な小説集だ。いともシンプルな方法で、私たちを縛る透明な縄を鮮やかに見せてくれるのだから。
 冒頭の「楽観的な方のケース」は、「私」が近所にできたパン屋にはまり、「彼」と一緒に暮らすようになってパンを一緒に食べ、パン作りにものめり込んでいく話だが、作品の印象はこの内容説明とは著しく異なる。
 それは視点のせいである。「私」の語りによってパン屋の様子が丁寧に語られていくのだけど、五ページ目を過ぎたところで、語り手は「私」のまま、話は私のいないところへと移っていく。パンを買い終わって「風景の領域の外に私が消えて行き、すると次の来客までは、しばらく間が空きました」。そしてその後には、子連れの女性がパンを買いに来た場面が叙述される。けれどその間、「私はすでにアパートに戻っていて」、買ったパンを食べている。
 語り手は視点人物の「私」であるはずなのに、「私」には見も知りもできないはずのことが、平然と語られる。「彼」についても、「私」には知覚できないはずの内心や行動が、「私」の語りでまったく自然に書かれていく。
 読んでいると、ものすごく奇妙な気分になる。書かれている内容はごく些細な日常生活の描写なのに、その語り方が常軌をさらりと逸していくのだから。
 これを常軌に戻すのは、じつは簡単。「私」と書かれている部分をすべて「彼女」といった三人称の言葉に置き換えれば、奇妙さはすっと消えてしまう。つまり、三人称で書かれるはずの小説を一人称で書いた結果、現実にはありえない幻想性が現れているのである。
 これはじつは、三人称で書かれる小説こそが幻想的であることを、逆説的に証している。「神の視点」と呼ばれる三人称で書かれたいわゆる「リアリズム小説」は、本当はリアルでも何でもない。全知全能の視点で書かれた文章を三人称の標準とする、というルールが読者に刷り込まれているがゆえに、自然に感じるだけ。絵画で考えれば、ベラスケスの描く肖像画をリアルと感じる人には、顔の裏側まで一緒に描いたピカソ作の肖像画は奇妙に感じられるようなもの。遠近法のルールが異なる、という違いでしかない。
 視点と人称のつながりが失調している岡田作品の文章は、読み手にとてつもない解放を与えてくれる。私たちは、神の視点という実際には誰のものだか不明な監視システムに、小説を読むさいには骨の髄まで縛られている。それを自然と感じるのは、たんに慣れさせられているからにすぎないことを、人称の言葉の置き換えのみで暴いてしまう!
 この一人称ではない「私」の登場は、あらゆる関係性を相対化する。「私」がパンに「小麦本来の甘み」を感じるのはネットの言葉に影響されてのことだし、これまで食べたパンとの違和感しか感じなかった「彼」が、「これが美味しいということなのだと分かって」いくのは、「私」と毎日そのパンを食べるようになったせい。自分の判断や好みは、必ずしも自分に属しているとは限らないのだ。
 続く数編の短編でも、この方法で次々と私たち読者を囚われから解放してくれるのだが、「ブロッコリー・レボリューション」に至ると、これが悪夢に変わる。
 語り手「ぼく」は、自分のふるったDVの結果、「きみ」がこっそりタイに逃げて送る生活の一部始終を詳述する。作中何度も「ぼくはいまだにそのことを知らないでいるしこの先も知ることは決してないけれども」との断りをリフレインしながら、「きみ」のタイでの解放感や、「きみ」がタイの友人レオテーとかわす会話を事細かに語る。
 DVに及んだ者が、その暴力の被害者の解放を何もかも語る、という事態は、本当の解放といえるだろうか? 暴力をふるわれた人間にとっては、ふるった人間の目や耳や想像力が届かない場所にたどり着くことこそが解放ではないだろうか?
 DVを含め、すべての暴力は、相手を支配するのが目的である。相手の言葉を奪うのも、根源的な支配の形態だ。神の視点というシステムから解放してくれたはずの一人称化は、一方で、特定の語り手による支配を許しもする。
 しかし、おぞましい語りの構造の中で語られるタイの日々の描写は、あまりにも豊かで魅力的でどこか不条理な笑いに満ちていて、読んでいて風通しがよく心地よい。それは「きみ」が、自分を圧迫してくる「ぼく」及び「ぼく」が象徴する日本社会の支配から逃れたからだ。だが、タイにはタイの暴力支配があり、レオテーはその圧迫を受けている。「きみ」はその現実のやましさから目をそらす。
 巻頭の短編の解放から、「ブロッコリー」に至る閉塞や幽閉の感覚への変化は、この作品群が書かれたここ十数年の世の変化を、精緻に表していると私には感じられる。読めば読むほど怖さが深まるのに、読み続けていたい快楽に溺れさせてくれる小説集だ。

(ほしの・ともゆき 作家)
波 2022年7月号より
単行本刊行時掲載

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著者プロフィール

岡田利規

オカダ・トシキ

1973年横浜生まれ。演劇作家、小説家。主宰を務める演劇カンパニー・チェルフィッチュでの独特な言葉と身体の関係性による方法論や現代社会への批評的な眼差しが評価され、国内外で高い注目を集める。2005年「三月の5日間」で第49回岸田國士戯曲賞を受賞。2008年、初の小説集『わたしたちに許された特別な時間の終わり』で第2回大江健三郎賞を受賞。海外での評価も高く、2016年よりドイツの劇場レパートリー作品の作・演出を複数回務める。2020年、タイの小説家ウティット・ヘーマムーンの原作を舞台化した『プラータナー:憑依のポートレート』で第27回読売演劇大賞選考委員特別賞を受賞。近年は能・狂言の現代語訳や形式を用いた作品も手がけ、2021年、戯曲集『未練の幽霊と怪物 挫波/敦賀』で第72回読売文学賞戯曲・シナリオ賞、2022年、同戯曲で第25回鶴屋南北戯曲賞を受賞。同年、「ブロッコリー・レボリューション」で第35回三島由紀夫賞を受賞。

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