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解説

堀本裕樹

 三十七年もの長きに渡って宮本輝氏が書き続けてきた自伝的大河小説「てんの海」の最終巻である第九部『野の春』を読み終えたとき、私の両眼は涙ではなはだしく曇っていた。「熱涙」という言葉があるが、こういう折に使うのだろう。胸中からき出てくる感情の熱は、本書を閉じた後もしばらく渦巻いた。そうしてだんだんしずまってゆくと、しんとした気持ちへと移り変わっていった。そのしずごころともいうべき心持ちは、この大長編の大いなる余韻であった。優れた小説であればあるほど、読後の余韻は深い。深い余韻とは単に大きな感動があったというだけではなく、読者に粛然とした内省をおのずと促すという作用であろう。宮本氏はこの物語で何を書きたかったのかを考えながら、己のきようおうに反響してくる何ものかを凝視しようとする、もしくはつかみ取ろうとする深遠な精神的ぜんどうが生まれることが、深い余韻と言い換えてもいい。
 私は、「流転の海」各巻を読了するたびに余韻に浸っていった。「流転の海」を手に取って、松坂家のすうせいに長く寄り添ってきたとくじつな読者であれば、私と同じ感慨であろう。その感慨は大長編の小説だけが有する悠然たる時間の流れに起因すると同時に、読み継いできた読者の人生の時間がそこはかとなく物語にリンクすることでいっそう増すのである。
 私の場合、「流転の海」に出会ったのは高校生の頃であった。その前に宮本氏の傑作「ほたるがわ」との決定的な遭遇があった。
 真夏の気だるい日であった。せみの声がかまびすしく降りそそぐなか高校の正門を抜け出して、私は汗をぬぐいながら古本屋の傍にある自動販売機に向かっていった。冷たい缶ジュースでも買って飲もうと思ったのである。しかしその前に立って何を飲もうかと迷っているうちに、不意に気が変わった。のどは渇いていたが、涼みがてら古本屋に入っていったのである。小さな店で文庫本が並んでいるコーナーだけ見ていった。すると、『螢川』の背表紙が眼に飛び込んできたのだった。吸い込まれるように手に取った。随分くたびれた文庫本だったが、なぜか読んでみたいと強く思った。そのままレジに向かい、結局缶ジュースを買うはずであった百円玉は、角川文庫の『螢川』にすり替わった。この時の一瞬の心の動きを何と説明すればいいのだろう。人生にはよくこんなことがある。一瞬の心の動きや判断が、思わぬ幸いをもたらしたり、災いを招いたりする。あれから約三十年近くった現在振り返ってみると、思わぬ幸いなる縁が、その心の一瞬の動きにすでに芽生えていたことに気づかされるのであった。文庫本を買ったその夜、「螢川」はもちろん、「泥の河」も胸を打ち震わせて読了した私は、一夜にして宮本輝ファンになったのだった。
 あれから時を経て、四十代になった私は一ファンであることに変わりはないが、氏に二度インタビューさせていただき、このように「流転の海」最終巻の文庫解説を書いている。こんなことが果たして人生に起こり得るのだろうか。私は今もって驚きを隠せずつ不思議でならないのだが、富山で宮本氏と対談した際、そのことをお話しすると、「螢川」との出会いは「宿命の中にあった」と返してくださった。まさにそうなのだろう。私はすとんとに落ちたのだった。そしてあまりに宮本文学の一場面に出てきそうな一瞬の心の推移によって生まれた運命的な「螢川」との出会いに、やはり今でも不思議としかいいようのない感慨に襲われるのであった。しかも宮本氏と初めて対面したのが、「螢川」の舞台である富山であった。おまけに『螢川』の文庫の発行者であった角川はる氏を師として、私は文字通りかばんちをしながら、三十代の五年間みっちり俳句の修業をしたのである。これを深奥なる縁と言わずして何と言おう。
 そんなことは偶然でしかないと言い切る人もいるだろう。だが、私は宮本文学との初めての接触によって強烈に感応したのだ。十代の私は純粋に敏感に感応していったからこそ、宮本文学との真の出会いに成り得たのであった。
この感応力と人生の機微を解する力をさらに私の内側でじっくりと磨き上げてくれたのが、「流転の海」である。このシリーズの第一部を手に取ったのも高校生の多感な頃で、無我夢中で読みふけった。その時間はのちに、私に精神のほうじようを、何ものにも代えがたい読書体験をもたらしたのである。
『流転の海』第一部の舞台は大阪。敗戦から二年後の昭和二十二年、大阪駅のホームより見渡す「 やみいちおびただしいバラック」の明暗入り混じる風景を活写しながら、一気に戦後のこんとんたるちまたへと読者をいざなう。ホームから大阪の街を見つめているのが、松坂くまだ。「英国製のソフトをかぶり、ぶあついオーバーコート」を着てさつそうと登場する。熊吾が社長であった松坂商会は、「乗用車やトラックのしやりようとか、ベアリングやフライホイルといった自動車部品を中国に輸出する」会社であったが、大阪空襲で所有するビルは崩壊していたのだった。
「まあ見ちょれ、俺はまだひと花もふた花も咲かせてやるけん」、熊吾はそう再起を期するのであった。このあまりき慣れない愛媛県一本松村の方言を丸出しにして話すよわい五十の男に、私はみるみるかれていった。豪快でいて繊細、且つ情にもろい熊吾の一挙手一投足にくぎけになっていったのである。
「流転の海」は序盤圧倒的な強い存在感を示す熊吾が、ぐいぐい物語を引っ張ってゆく。その熊吾に青天のへきれきのごとく赤ん坊が授けられる。四人目の妻であるふさが、「種なし西すい」だと思い込んでいた熊吾の子を宿したのだった。「俺は五十で子の父となるのだと言い聞かせた。熊吾は言葉に出来ぬほどのよろこびに包まれていたが、心のどこかに、それが自分にとって幸福なことであるのか不幸なことであるのか、いったいどちらであろうかという思いを抱くときがあった」と内省する。この熊吾の自問は、この大長編をおおう大事なテーマをはらんでいるといえよう。これは第九部まで読み通せば、なおさら理解できることである。
 早産で生まれてきたのは、七百目しかないぜいじやくな小さな赤ん坊だった。その子は「のぶひと」と名付けられた。「敗戦までは、名前の下に〈仁〉という字をつけてはならないきまりになっていた。〈仁〉という字は皇室の人間しか使えなかったのである」というくだりがあるが、伸仁はまさに戦後を象徴する名を冠してこの世に生まれ出たのだった。
「流転の海」では一巻ごとに、数々の名場面がある。こんなに読者同士で語り合いたいと思える名場面を持つ小説も珍しいのではないだろうか。私は「流転の海」完結記念インタビューにて、絞りにしぼった名場面ベスト六を挙げて、宮本氏にお話をうかがったが、今回ここで取り上げるシーンは、そのインタビューと重なる部分もあれば、重ならない部分もあるだろう。ご容赦願いたい。
 第一部で挙げるとすれば、「お前が二十歳はたちになるまで、わしは絶対死なんけんのお」と、熊吾が酒を飲みながら、ひざの上に載せた赤ん坊の伸仁に語りかけるシーンである。
「お前に、いろんなことを教えてやる。世の中の表も裏も教えてやる。それを教えてから、わしは死ぬんじゃ。世の中にはいろんな人間がおるぞ。こっちがええときは、大将やの社長やのと言いよるが、悪うなるとてのひらを返しよるやつもおる。日ごろはそうでもなかったのに、困ったことがあるとそっと助けてくれるやつもおる。人の心はわからんもんやが、わしはお前に、人間を見る目を持たせてやるけん。人の心がわかる人になれ。人の苦しみのわかる人間になれ。人を裏切るようなことはしちゃあいけんぞ。だまされても、だましちゃあいけんぞ。この世は不思議ぞ。なんやらわからんが、不思議ぞ。他人にしたことは、いつか必ず自分に返ってくるんじゃ。ええことも、悪いことも、みんな自分に返ってくるんじゃ。そりゃあ恐ろしいくらい見事になァ……」――名セリフにして、名場面だ。そしてこの物語の核心をく熊吾の少々型破りな子育て論であり教育論にもなっている。それは「世の中の表も裏も教えてやる」の「裏」の部分に相当する。に伸仁を育てていくか、熊吾の所信表明ともなっているのだ。
 それから「きれいな目をしちょる。お前は特別にきれいな目をしちょる」、「食べてしまいたいわい」というできあいの言葉になってゆくのだが、この熊吾のセリフを私はようやく実感を伴って理解できるようになった。
 私は「流転の海」の最新刊が出るたびに第一部から読み直していった。だから一番、一巻目を読んだ回数が多い。この解説を書くにあたっても再読していったが、今回は四十六歳になって初めての我が子を授かった境遇において、私はこの場面にあらためて触れたのであった。五十歳で子を授かった熊吾と四歳違いで、私は我が子に巡り合ったわけだが、熊吾の子を思ういとおしい気持ちが痛いくらいわかるようになったのだ。私は父になったことで親の目線をもつて、「流転の海」を読めるようになったことをひそかにうれしく思っている。
 伸仁の誕生をはじめ、第一部では熊吾と房江の生い立ち、二人のなれめから結婚に至るまでの経緯が抒情豊かに語られている。またこの物語において重要人物であるはら太一、井草正之助、つじどうただし、丸尾麿まろ、柳田元雄らが登場する。海老原太一は熊吾と同郷であり、「松坂のお父さん」と熊吾を慕い頼って上阪して松坂商会で働いた後、「商会」を設立して独立。「神戸でも有数の貿易商にのしあがった男」である。しかし、海老原は「ビルの落成記念の祝賀会の席」において熊吾に人前で恥をかかされた一件を根に持ち続け、松坂商会の番頭であった井草正之介をきつけて裏切りを計り、ふくしゆうした。井草が大金を持ち逃げして行方をくらました一方で、熊吾と闇市で出会った辻堂忠が、松坂商会の社員となる。辻堂は闇市で出会ったときはならず者のかつこうをしていたが、理知的な鋭さを持った京都大学出身のエリートであった。丸尾千代麿は戦後になってから松坂商会の仕事を請け負いはじめた運送業を営む気のいい肉体労働者だ。熊吾とも気の置けない仲である。柳田元雄は、戦前には自転車で中古車の部品を売り歩いていた。戦後、「柳田商会」の経営者となり見る間に発展させていく。熊吾は柳田の未来を予言するように「自分よりもはるかに多くの、血涙にまみれた人生のしゆをくぐって来た小心の男が、あるいはやがて巨大な城のあるじとなるかもしれない。そのとき、自分はどうなっているだろう」と思いをせるのであった。
「流転の海」の読者はすでにおわかりだろうが、この熊吾のセリフは物語の大きな流れの伏線となっている。だが、第一部ではほんとうに何気ない熊吾のつぶやきのような扱いなのである。そんな伏線の数々を挙げていけばきりがないほど、宮本氏はこの第一部において、大長編になるであろう物語の土台をしっかりと築き上げているのであった。建物でいえば揺るがぬよう基礎を強固に、これからのストーリー展開を悠然と受け止めるべく構築したといえるであろう。私は宮本氏の名匠のような筆遣いに毎回うなるのであった。
 大阪での再起を胸に誓っていた熊吾だったが、やがて病弱に生まれてきた伸仁と同じく体調を崩しがちな房江を見て、「事業よりも、妻や子の健康のほうがはるかに大切だ」と思い至り、大阪の一等地にある松坂ビルの跡地を売り払って、郷里の南宇和に帰ることを決心するのであった。

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 第二部『地の星』の舞台は南宇和。昭和二十六年、熊吾が父の墓参りをしようと、四歳になった伸仁を連れて一本松村に到着する場面からはじまる。伸仁が熊吾と会話できるほど成長していることに、読者は思わず笑みが こぼれるだろう。だが、熊吾は宿敵ともいえるおさなみでやくざ者の増田伊佐男と顔を合わせる。伊佐男は「お前にこの左足をこわされた」と熊吾に因縁をつけて、深い恨みをぶつけてきた。「四十年前、十四歳のときに、あいつはわしと相撲を取り、誤って三尺下の空地に落ちた」と熊吾も記憶している出来事だったが、事の真相ははっきりしない。
 第二部は熊吾と伊佐男との対立軸を中心にして、松坂一家の田舎暮らしの模様が語られてゆく。「ちつきよっちゅう言葉があるがのお、わしはこの郷里に蟄居したんやあらせんがなァし。わしは仕事をしに来たんや。五十で授かった、病気ばっかりしとる息子を、丈夫な体にするっちゅう仕事をしに来たんじゃ」と熊吾が言うように、伸仁はのんびりとした南宇和のせいちような空気のなかで伸び伸びと元気に育ってゆく。その象徴的出来事が蝉取りに行く途中で、伸仁がつぼに落ちる場面である。
 くさむらにある「底なし沼みたいな野壺」に落ちてしまった伸仁は、熊吾の機転によって間一髪で助かるのだった。もし野壺にはまりこんでしまったら、伸仁は命を落とすところだったが、熊吾に引っ張り上げられて助かり、ふん尿にようだらけになって生命力をみなぎらせて大声で泣きつづける。熊吾が「お前のところの野壺は深すぎる、頑丈なふたをかぶせるか、何かで囲いをするように」と持ち主に意見すると、「あの野壺に子供がはまったのは、わしが次女を産んだ年じゃけん、明治三十七年やなァし。それからあとは、誰も落ちちょらん」と九十二歳のばあさまは言う。熊吾は「その子はどうなった。えっ?」と詰め寄ると、「生きちょる、生きちょる。なんちゃ死んどらん。松坂熊吾っちゅう子供や」と見事に応じ返されるのであった。なんと父と子の因縁を思わせる、親子の類似的性格を示したおもしろい名場面であろう。こんな経験は都会ではできない。「坊は、野壺にはまったかなァし。まあ、男は一遍は野壺にはまっといたほうがええ。あそこは、いろんな経験がまっちょるとこやけん」と、伸仁の頭をでて言ったのが和田茂十である。この茂十の「いろんな経験が溜まっちょるとこ」という一見冗談にも思えるような言葉の意味を読者はに深く解さなければいけない。
 茂十は県会議員に立候補することになり、熊吾は選挙参謀を引き受けるのだった。
 田舎で退屈をもてあそぶ熊吾は選挙参謀をはじめ、ダンスホールを経営してみたりするが、「わしは、世の中が動いちょる場所へ戻る。房江も伸仁も、なんとか元気な体になった。このわしのふるさとは、まことにええとこじゃが、大きく動いちょる世の中とは無縁のところじゃ。伸仁を、大きく動いちょる世の中へつれて行かにゃあいけん。いま、そんな気がして、南宇和での生活を投了した」と考える。
 第一部で熊吾を裏切った井草正之助は金沢にて結核で、和田茂十はがんで死に、宿敵であった伊佐男はやくざ同士の抗争の末、追い込まれて猟銃で自殺を遂げた。人が生まれ死んでゆく場面が多い本書は、生生流転の物語であることをいやおうなく思い知らされる。
「俺のふるさとの使命は終わった」という熊吾のセリフが印象的である。そして「この世のありとあらゆる生き物も、事柄も、なんらかの使命によって存在しているのだと思えてきたのだった。人間だけでなく、ありはちもなめくじも牛も馬も、日本という国もアメリカという国も、名も知らぬ小さな未開の国々も、何かの使命があるからこそ存在しているのだ」と考え、さらにこう続ける。「五十歳で初めて子の父となった男には、そのことによってさねばならない使命があるに違いないと考えた。使命を終えたら死ぬであろう。使命を終えたということは、寿命を終えたということになる」――そのように思念を凝らす熊吾の思考にも重きを置きたい。
 五十五歳の熊吾は家族を伴い、再び人間がうごめく大阪に向かってかじを取るのであった。
 第三部『血脈の火』の舞台は大阪。昭和二十七年、もうすぐ小学一年生になる伸仁が、家の裏側から眺められる土佐堀川をゆくポンポン船に向かって手を振る場面からはじまる。宮本氏の出世作「泥の河」の舞台とも重なる場所である。また「きのう六歳になったばかりの、 せっぽちの、どうにも頼りない伸仁が、ちゃんとひとりでバスに乗って、ざき小学校に通学できるだろうか」という房江の心配事は、名短編「」にかたちを変えて凝縮されている。
 熊吾は大阪で再び一旗揚げるべく、いくつもの商売を開始した。消防のホースを修繕する会社「テントパッチ工業株式会社」、ジヤンそうの「ジャンクマ」、中華料理店の「平華楼」、プロパンガスの販売代理店「杉松産業」、きんつば屋の「ふなつ屋」などである。
 熊吾は、はしっこい伸仁を競馬やどうとんぼりの料理屋やおんのお茶屋やキャバレーやパチンコ屋やストリップ劇場など、子どもがいくような場所ではない、あらゆるところに連れ回す。ストリップ劇場では、後に熊吾と関係ができる西条あけみこと森井ひろと出会うことになる。伸仁がわいいということもあろうが、世の中の裏側を見せるという、熊吾流の人間育成の一環でもあったのだろう。
 一方、南宇和から熊吾の妹のタネとその子である千佐子、熊吾の母ヒサが上阪してくる。千佐子の兄の明彦は先に大阪入りして熊吾の知人宅に預けられていた。明彦は、第二部で不慮の事故で死んだ野沢政夫とタネとの子である。やがて、突然ヒサの行方がわからなくなり捜索願を出す事態になる。房江が少し眼を離したすきの出来事だったので、彼女は責任を強く感じてしまう。
 熊吾の商売はどれもうまくいっていたが、昭和二十九年に発生したとうまる台風により、テントパッチ工業で用意していた接着材を水没させてじんだいな損害をこうむり、事業が傾いてゆくのである。弱り目にたたり目で、熊吾の体には糖尿病の症状が出はじめるのだった。
 松坂家が大阪で暮らすあいだに、きのさきでは、不思議なコミュニティが生まれていた。熊吾の戦前の盟友である中国人・周栄文の娘麻衣子と、丸尾千代麿の愛人・米村喜代が生んだ子の美恵と、喜代の祖母と、浦辺ヨネと、増田伊佐男とヨネの子の正澄との共同生活である。喜代は美恵をのこして心臓くなっており、ヨネは南宇和で居酒屋をしていたが、自死した伊佐男の子を大阪で生むと、熊吾との取り引きで、城崎で一軒の小料理屋「ちよ熊」をやりながら、美恵と喜代の祖母との面倒を見ることになったのだった。この共同生活の詳しい経緯は省くが、宮本文学は長編『森のなかの海』などにもられるように、行き場を失った子どもや若者たちが肩を寄せ合って生きていける共同生活の場を小説のなかで設けることがある。そこには宮本文学の優しさがにじんでおり、「流転の海」では熊吾の機転によって、城崎に情深いコミュニティが生まれるのである。
 第三部の名場面は、船上生活を営む近江おうみ丸が炎上して、その船に時折遊びに行っていた伸仁の命が危ぶまれる事件を取り上げようと思ったが、もう一つ好きな場面があった。
 伸仁がやくざの観音寺のケンの頼みで、ならず者たちと麻雀マージヤンを打つシーンである。そこに熊吾が周りに気づかれないよう伸仁にサインを出して参戦するのだが、父と子の鮮やかで微笑ほほえましい連携プレーが痛快なのだ。ならず者にイカサマを指摘されると、「やくざが堅気の人間にイカサマよばわりするとは、なんとなさけないことよ。伸仁、もう手加減無用じゃ。ケツの毛ェまで抜いてやれ」と我が子に発破をかけるのだった。父と子とならず者との麻雀の卓を囲んだ大阪弁の会話の妙は、宮本文学の真骨頂の一つだ。そんなやり取りのなかで、観音寺のケンが呟く言葉に不意にぴんと来るものがあった。
「そやけど、ノブちゃんは、おとはんとおかはんに可愛がられて、しあわせや。おとはんとおかはんに可愛がられて育った子ォは、絶対に俺らみたいにはなれへんのや」――この観音寺のケンがふと漏らした「しあわせ」という言葉に、私はこの「流転の海」のテーマを鮮烈にいだしたのである。その後、第一部から第九部まで再度詳細に調べてゆくと、必ず「しあわせ」=「幸福」という言葉がどの巻にも出てくることがわかった。そしてもう一つ各巻で必ず出てくる言葉があった。それは「戦争」である。戦争で傷を負った人々か、もしくは戦場の回想場面が各巻のどこかに登場するのである。「しあわせ」の反対語は「不幸せ」だが、その不幸せの最たるものが「戦争」である。もしこの大長編の大テーマを四つの言葉で表すならば、「しあわせ」「戦争」「生」「死」ではないだろうか。
 宮本氏に「文学のテーマとは、と問われて」というエッセイがあるが、表題のごとく問われると、〈「人間にとって、しあわせとは何か、ということではないでしょうか」〉と、氏は答えるのである。「作家として、けんにかかわるような幼稚な答えをしてしまったのではないかと思えて、私はもう一度、文学のテーマについて考えをめぐらせてみた。だが、やはり私はそれ以外の答えは思い浮かばないのだった」と、自ら確信するのであった。この一九八〇年に刊行された第一エッセイ集『二十歳のかげ』に収録されている文学のテーマに対する考えは、現在でも氏の内側で一つもぶれていないことに驚く。そこに宮本文学のたぐいまれな透徹した境地を感得するのであった。「しあわせ」とは、日常にあふれた身近な響きであるが、定義しろと言われればしようのない、なんと深奥で幽寂をも感じさせる、心の不可思議な作用であろう。「流転の海」は、この「しあわせ」を追い求めながら、人生のかんなん辛苦に立ち向かってゆく物語でもあるのである。

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 第四部『天の夜曲』の舞台は富山。昭和三十一年、大阪から富山へ向かう立山一号の車窓から見える猛吹雪の風景からはじまる。松坂家の三人は、大阪での暮らしに見切りをつけて、富山に新天地を求めて旅立ったのだった。大阪を離れた理由は、熊吾が経営する中華料理屋の弁当で食中毒が発生したり、きんつばが売れなくなったり、「杉松産業」の共同経営者・杉野信哉が のういつけつで倒れたり、房江がうつびようになったりと不運が重なったことが理由であった。それから以前大阪で知り合った、富山で暮らす高瀬勇次に、新しい会社の共同出資者になってほしいという懇請を熊吾が受け入れるかたちでの引っ越しでもあった。
 熊吾は、伸仁の「いつ大阪に帰るのか」という問いにこうこたえる。「富山での商売がうまいこといくなら、ずっと富山で暮らすことになる。商売が軌道に乗っても、大阪に帰るはめになるかもしれん。人生、どう動いていくか、わかりゃあせんのじゃ。自分はこうしたいと思うても、そうは事が運ばんことがある。ジグザグの道をぎょうさん歩いた人間のほうが、そうでない人間よりも、いざというとき強うなれる。お前は、偉大な芸術家になるんじゃけん、いろんな土地の、いろんな人間を見といたほうがええんじゃ」――この「偉大な芸術家になる」という熊吾の発言は、まだ大阪にいた頃、突然易者が訪ねてきて、伸仁の将来を占ってもらった言葉であった。「うまくいけば、偉大な芸術家になるでしょう」という易者の言葉を熊吾が真剣に聞き入れたのであった。この易者は「房江を見つめ、晩年は幸福な生活が訪れると言ったが、熊吾のは口にしなかった」のである。易者の言はこの物語の伏線ともなりなぞめいた予言のような役割を果たしているのだが、私は熊吾の「お前は、偉大な芸術家になるんじゃけん、いろんな土地の、いろんな人間を見といたほうがええんじゃ」という発言に注目したい。この熊吾の考え方は教育論にもつながるのだが、私は「もう三遷の教え」という故事と重なるように思えた。孟子の母は最初、墓地の近くに住んでいたが、子どもの教育のために、環境の及ぼす影響を恐れて、市場の近くに居を移し、次に学校の近くへと三度引っ越したという。その故事を踏まえて、子どもの教育のためにはよい環境を選ばなくてはならないという教えとなった。熊吾は己の事業のための引っ越しでもありつつ、常に伸仁のための環境を優先して考えてきた。大阪でもない、南宇和でもない、雪深い富山という土地が伸仁に与えてくれる恩恵があるはずだと熊吾は考えたのであった。
 冒頭に自伝的大河小説と書いたが、熊吾は宮本氏の父上、房江は氏の母君、伸仁は氏ご自身というモデルを当てめるならば、後に宮本氏(=伸仁)にもたらした富山という土地の恩恵は、人生を変えてしまうほどの、まことに豊かなものであったと言わざるを得ない。富山を舞台にした小説「螢川」で芥川賞を受賞し、近作では『田園発 港行き自転車』にも繋がる原体験となったのだから。伸仁の自己形成の面だけでとらえると、教養小説と言えなくもないが、「流転の海」はそんなカテゴリーに収まるようなきようあいな小説ではないのである。
 やがて熊吾は高瀬の器の小ささに失望し、共同経営をあきらめる。房江と伸仁を富山に残して、熊吾は一人大阪に戻り、「関西中古車業連合会」を結成するべく奮闘しはじめる。
 大阪で熊吾は、ヌード・ダンサーの西条あけみこと森井博美と再会。その折に博美の持っていたセルロイドのキューピー人形にちようちんの火が引火するという事故に遭遇してしまう。それは博美の軽率な行動から起こった事故であったが、彼女の顔にせいさん火傷やけどが生じたことに対して、熊吾は多少なりとも責任を感じてしまうのだった。情に厚い熊吾は、博美の故郷でもある長崎の病院まで同伴するが、そこで男女の関係を結んでしまう。ここから熊吾の運が傾いてゆく。熊吾は長崎のミンミン蝉の声を聴きながら、「戦後、自分と仕事上でじつこんとなった人間は、どれも能力や運に欠陥がある。だがそれはすべてこの自分という人間が招き寄せたのだ。この自分の能力や運といったものが土壁ががれるように落ちたのだ」と振り返るのであった。
しようの句に、『やがて死ぬけしきは見えず蝉の声』っちゅうのがある」と言う場面があるが、この句は熊吾の行く末を自ら予感するような趣が漂う。もう間もなく死んでしまうだろうに、そんなきざしは見せず蝉はしきりに鳴いていることよといった意味の句だ。蝉の運命に自分の運命を重ねて見ているような熊吾の呟きである。その不運を象徴する出来事が起きる。大阪での新事業である「関西中古車業連合会」の資金を従業員であった久保敏松に横領されるのであった。熊吾は富山で暮らす家族に生活費を送金できないほど困窮する。
 第四部の名場面もいろいろあるが、熊吾が一番頭を下げたくない相手でかつての部下・海老原太一に名刀・関の孫六兼元を買い取ってもらうシーンを挙げたい。海老原が大恩を忘れて、むかし人前で大恥をかかせた熊吾を散々 ののしった後、「五十万、落ちぶれ果てた大将とかに渡したれ」と捨て台詞ぜりふを言い放つのだ。熊吾は床に正座してじっと耐える。この場面では読者にとっても苦しく悔しい気持ちが湧きあがるであろう。熊吾は家族を思い、金を作るためにとうされることを百も承知で、悲痛な覚悟をもって海老原のもとに出向いたのである。うそ偽りのない、複雑な心情がからみ合う人間のぶつかり合いが描かれているのだ。
 第五部『花の回廊』の主な舞台は兵庫県尼崎。昭和三十二年、富山の高瀬家に預けていた小学四年生の伸仁を連れ帰り、熊吾の妹タネが暮らす「貧乏の そうくつ」というべきらんげつビルに家族で向かう場面からはじまる。久保に会社の金を持ち逃げされて窮する熊吾と房江は、「持ち主も住人もいない船津橋のビル」に移り住んだ。電気も水道も止まっている物騒なビルに伸仁と暮らすわけにもいかず、タネに息子を預けることにしたのだ。物騒といえば蘭月ビルも物騒といえるが、「こんな薄気味の悪い陰気なボロアパートで暮らしてみるのもええ思い出になる。時がたったら、思いもかけん宝物に変わっちょったっちゅうのが人生というものの不思議じゃ」と熊吾は伸仁に言い聞かすのであった。この熊吾の発言にも息子がいつか「偉大な芸術家になる」という将来を見据えた視点が含まれている。
 熊吾は大阪でエアー・ブローカーを続けながら食いつなぎ、房江も家計を支えるために道頓堀川沿いにある小料理屋「お染」で働く。
 伸仁は、在日朝鮮人が多く住む蘭月ビルで多様な人間と交流し、人の臨終に立ち合うという小学生にして壮絶な現場にも直面する。蘭月ビルの二階に住む、同じクラスの月村敏夫とその妹光子との出会いも、伸仁には大切であった。敏夫は給食を食べるためだけに登校し、伸仁が残したパンを敏夫が持ち帰って、光子が食べるという貧しい家庭だった。敏夫は夕刊の配達をしている。自分と妹の朝食になるたこ焼きを買うための新聞配達だった。
 伸仁も敏夫と一緒に夕刊売りを体験する。房江は反対であったが、熊吾は「たったの三時間で、いろんなことを体験することじゃろう。たったの三時間で、わしら夫婦の一人息子はこのしや世間での人生っちゅうものの一端を、自分の視覚と聴覚ときゆうかくで学ぶ。それはいつかあいつにとって得難い宝物に変わるかもしれんのじゃ」と認める。これは前述したように熊吾の子育て論であり、息子に対する絶対的な信頼でもある。伸仁はその体験から何かを学ぶという確信なのだ。そして伸仁のことが心配な熊吾は、夕刊を売る息子の後をつけるのだった。この父の優しさが読者を魅了する。
 宮本氏のエッセイ「夕刊とたこ焼き」にも、この場面が凝縮されたかたちで描かれているが、「おまえのたこ焼きと、あの子のたこ焼きとは、味が違うんやでェ」という父上の言葉がみる。「流転の海」は小説だから虚実入り混じった内容になっているが、この夕刊売りの場面はほんとうにあったことなのだ。小説とエッセイとを往還しながら読むことで、よりいっそう味わい深くなる場面であろう。
 この夕刊売りも名場面であるが、私には熊吾と伸仁が京都競馬場に行って、大穴馬券を当てるシーンが忘れられない。
「やったァ! お父ちゃん、三―四や」
「これはでかい馬券じゃぞ」
 親子は手をつないで払い戻し窓口に向かい、配当の大金を受け取る。
「平然としちょれ。ぼくら親子は負けに負けて、すっからかんでございますっちゅう顔をしちょれ。スリがあちこちで目を光らせちょるけんのお」という熊吾の忠告をよそに、伸仁はどうにも嬉しさを隠し切れない表情をしてしまうのだった。
「それがお前の平然としちょるふりの顔か。目が笑うちょる。嬉しゅうてたまらんちゅう目じゃ。プロのスリには、たちどころにわかるんじゃ」と伸仁を諭す。私は、なんと「おもろい親子」なのだろうと、二人の微笑ましいやり取りに、温かい笑いが込み上げてくるのだった。競走馬の世界を舞台にした宮本氏の傑作長編『優駿』にもつながる原体験でもあろう。伸仁のモデルである宮本氏は、熊吾のモデルである父上のもく通り、あらゆる体験を小説家の滋養とし、次々に作品として結晶させていったことが、この「流転の海」を読むたびに気づかされる。熊吾が考えた通り、伸仁の内側で年月を経て、またとない「宝物」に熟成していったあかしであろう。

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 第六部『慈雨の雨』第七部『満月の道』第八部『長流の畔』の舞台は大阪。第五部の後半から松坂一家は、柳田元雄が経営に乗り出した福島区の「シンエー・モータープール」に隣接する住居に引っ越した。「やがて巨大な城の主となるかもしれない」と熊吾が第一部で予想した通り、柳田は「シンエー・タクシー」の社長となり、熊吾の提案と助言によって大規模な駐車場経営も開始したのだった。
 第六部は昭和三十四年からはじまり、伸仁は中学生になっている。伸仁は、城崎で小料理屋「ちよ熊」を営み麻衣子らと共同生活をしていた浦辺ヨネの死去を受けて、彼女の遺言であった散骨の大事な役割をになう。役割とはヨネの遺骨を粉にすることであった。熊吾に命令されるかたちで伸仁は、遺骨をすりばちで擂って、あまる鉄橋から日本海へときやすいように粉状にするのだが、この少しこつけいでいて厳粛な作業は、伸仁にとって大人になるための不思議な通過儀礼のように私には思えた。両目の開かない子犬や親鳥の死んでしまったはとひなを親身になって育てることも、また名場面である北朝鮮帰還列車に乗った月村きようだいを松坂一家がよどがわの堤で、こいのぼりを必死に振って涙で見送った別れも、その儀礼の一つといえるかもしれない。鯉のぼりは熊吾ではなく、伸仁自ら振ったのが象徴的である。
「鯉のぼり、見えたかなァ」と言う伸仁の涙声に、「見えたに決まっちょる。冬の暗がりのなかの鯉のぼりは、あいつらの心から消えんぞ。お前が振りつづけた鯉のぼりじゃ」――熊吾の言葉は、父としての限りない優しさに満ちている。人の死や動物の生や別離に真正面から向き合いながら、伸仁は人間として奥深い大事な何かを感得してゆくのであった。
 余部鉄橋を歩いて散骨する際、房江は高所を恐れることなく進み思わぬ度胸を見せるが、熊吾は足がすくんでしまう。「房江、お前が先に行ってくれ。わしはお前のあとにつづくけん。これからの人生、そうしたほうがええかもしれんぞ」――しくも熊吾の言葉は、第六部以降の物語の流れを言い当てている。
 房江は「シンエー・モータープール」での新しい生活に「しあわせ」を見出しながら、どんどん輝いてゆくのである。通信教育でペン習字を習いだすこともその一つだ。学歴コンプレックスのある房江は、美しい字を書けるように学習し、知らなかった漢字も積極的に覚えてゆく。熊吾をひたすら支えてきた房江の能動的に動き出す姿は、読者にとっても胸が弾むものである。
 そんな房江が熊吾に進言する。「中古車の売買を小商いから始めて少しずつ大きくしていこう」という房江の提案を熊吾が受け入れたのだった。結婚以来初めての出来事であり、二人の関係性にも変化が生じてきたようだ。
 モータープールの管理人をしながら「中古車のハゴロモ」を立ち上げ再起を図る熊吾であったが、かつての部下で宿敵であった海老原太一の自殺が、また本書の生と死の陰影を深くするのである。熊吾の金を海老原が横領した証拠となる借用証書に替わる名刺を握っていた熊吾は、観音寺のケンにその名刺を手渡した。衆議院議員選挙に出馬表明していた海老原は、おそらく観音寺のケンに脅されたのだろう。熊吾は、観音寺のケンに名刺を渡すまでにも、海老原の心理を巧みに揺さぶり出方をうかがっていたのだった。「自分の自尊心よりも大切なものを持って生きにゃあいけん」という熊吾の言葉が、この自死にも重なる。
 第七部は昭和三十六年からはじまり、高校生になった伸仁は、ついに熊吾の身長を越すまでになった。生意気な口も くようになり、房江に言わせれば、「伸仁のちょっとした物言いが父親そっくりなときがある」という。第七部の前半では、「中古車のハゴロモ」の事務職員・玉木のりゆきが、「こんなにいっぺんにもうかってええのかと心配になるくらい」、熊吾の中古車販売業は順調であったが、後半になってその玉木が会社の金を横領する。玉木は帳簿と伝票の不正操作を行い、競馬にその金をつぎ込んでいたのである。
 これまでも熊吾は何度も社員にだまされ続けてきた。裏切りの連続である。かつて行ったインタビューの聞き手であった私に宮本氏は、「人間というのは千変万化に心のありようが変わり続けている、そういう生き物であり、命というのは刻々と変わっていくものなんです。だから絶対に裏切らない男だと見極めるには、どうしたら良いのか、僕もいまだにわかりません」と応えてくださった。「心のありよう」と「命」とを織り成すように語られたことが印象的であり意味深く思われるが、徹底的に人の裏切りを描くことで、人間の闇は勿論、それに炙り出されるように対照的に光も見えてくるのが宮本文学なのである。
 会社が傾いてゆくのと同時に、第四部で男女の関係を持った森井博美と再会してしまったことも、熊吾の生命力の衰えにつながってゆく。熊吾は、博美との関係の再燃を警戒していたにもかかわらず、「お父ちゃん、私を助けて」という彼女の悲痛な訴えに耳を傾けてしまう。読者は松坂一家の不幸を招き寄せるに違いない博美の接近に、気をもむだろうが、熊吾は愛欲に嵌りこんでしまうのである。
 一方、房江はペン習字の立派な修了証書をもらったり、城崎に住む麻衣子に『ちよ熊』をの専門店に変えるにあたり、その味を決めてほしいと助言を求められたりして、いっそう人生が彼女らしく輝いてゆくのであった。
 麻衣子に「房江おばさんは料理の天才や」と言わしめるほど、房江の天分が花開いてゆく。房江は城崎温泉に入りながら、「半年にいちどくらいは、麻衣子の家に遊びに来て、こうやってゆっくりと露天につかる一夜を持ちたい」と思い、「ああ、しあわせだ。私の人生に初めて楽しみというものができた」という感慨を持つ。房江の生い立ちは第一部で詳しく語られているが、生まれてすぐに母を失い、父には捨てられたのだった。養父には死別し、養母にはいんばい宿に売られて客は取らされなかったけれど、一日中働かされた。それ以後も親戚のあいだをたらい回しにされて、異常な性交を求め暴力を振るう亭主にも苦汁をなめさせられた。その男との離婚後、熊吾と結婚したのである。時折熊吾のしつによる暴力に悩まされてきた房江だが、つかの間の「しあわせ」をみしめている場面は、こちらにまで、その安らぎが伝わってくるのだった。しかし、第八部ではまたしても房江に多大な苦しみが待ち受けているのだった。
 名場面は、熊吾と伸仁が真正面から組み合うシーンである。房江の飲酒癖に怒った熊吾を制した伸仁は、一升びんを持ち上げた父に挑むように「それでお母ちゃんを殴ったら、ぼくは許さんぞ」とその壜を奪い取る。「許さんぞ、じゃとお? それが父親に対して言う言葉か」と熊吾が伸仁の頭を殴ろうとするが軽くかわされてしまう。「毎晩毎晩、一日も休まずに柔道着の帯を柱に巻きつけて体落としの稽古をつづけてきた」伸仁は、いつの間にか腕力をつけていたのだ。その後、息子と父は組み合うのだが、結局熊吾は自ら脚を痛めてしりもちをついて座り込んでしまうのだった。
 熊吾は顔をゆがめて泣きながら、「怒りも悔しさもなかった。あのいまにも死んでしまいそうな赤ん坊が、こんなに大きくなった。こいつはもうひとりで生きていける。俺の役目は終わった」――と父親としての真情を胸中に湧きあがらせる。父と子が対決する場面は、あまたの文学作品に描かれてきたであろうが、母を守ろうとする伸仁と熊吾との真剣に組み合う場面は読者の胸を激しく打つ。と同時に、如何ともしがたい熊吾の老いを思い知らされ、せきりようかんに包まれるのだった。
 第八部は昭和三十八年からはじまり、熊吾は、新たに「大阪中古車センター」を開業させる。だが、千鳥橋のその売り場まで直接客がやって来ることは少なかった。「中古車のハゴロモ」も「松坂板金塗装」もだんだん左前になっていく。松坂板金塗装を閉めるつもりでいた熊吾であったが、「柳田元雄のゴルフ場建設のために銀行から引き抜かれた男」であった東尾修造が柳田の会社を退職後、「私に松坂板金塗装という会社を大きくするという新しい役目を与えてくれませんか」と、熊吾に話を持ち掛ける。東尾に松坂板金塗装を売った熊吾だったが、間もなく東尾の さんな経営によって、閉鎖されてしまった。東尾と愛人は会社の金を持ち逃げする。会社のていかん上では社長であった熊吾は、その負債責任を負わされる羽目になる。またもや、熊吾は騙されたのだ。
 さらに第七部で再会した森井博美との腐れ縁を断ち切れなかった熊吾は、しゆんじゆんしながらも結局魔がさして、彼女との関係を深めてしまう。そしてとうとう熊吾の浮気が房江にばれてしまうのだった。二人は口論の末、「もうモータープールには帰ってこんといて」と、房江は熊吾のもとを去ってゆく。
 妻にも息子にも口をきいてもらえなくなった熊吾は自身の肉体の衰えも痛感するようになった。加齢とともに進行する糖尿病が原因で、次々に歯を抜かざるを得なくなる。熊吾の生気が衰えてゆくと同時に、事業も行き詰ってゆくのである。一方、柳田元雄はシンエー・タクシーの経営をやめて、彼の夢であるゴルフ場経営に乗り出してゆく。熊吾の衰退と柳田の躍進は非常に対比的だ。「流転の海」を企業小説としての観点から眺めていくと、熊吾の経営方針と柳田のそれとは真逆のようであり、つぶさに比較しながら読み進めてみてもおもしろいであろう。
 熊吾の浮気を知ってからの房江は、酒量が増してあんたんたる気持ちに落ち込んでゆく。房江の飲酒は、第二部あたりからはじまり熊吾も伸仁も心配するところであったが、ここに来てたがが外れたように酒を飲むようになりでいすいした挙句、市電を停める事故まで起こしてしまう。熊吾に帰ってきてほしいと思いながらも嫉妬心で素直になれず、房江は「驚き、嫉妬、悲しみ、あきらめ」という心情の変化を経て、ついに麻衣子たちの住む城崎まで出向き、自殺を図るのだった。だが房江はいくつかの幸運が重なって一命を取り留める。駆けつけた熊吾が、「なにもかもが、お前を死なさんように働いたのお」と声を掛けるくらい、房江は奇跡的に助かったのである。
 この自殺未遂を機に、房江の意識は転換される。「私は一生のうちで二回誕生日を持った。だから私は変わらなければならない。二度の生を授かったのだから、一度目の生と同じ生を生きてはならない」と決意する。また、「伸仁が社会へ出るまで、私が働くことだ。モータープールでの仕事をかんぺきにこなしながら、私は夫に頼らずに生きていけるだけの収入を得る道を探すのだ」と意志を固める。
 名場面は、房江と伸仁が城崎大橋の真ん中で満月を仰ぐシーンである。生まれ変わった房江は、第七部『満月の道』で見上げた彼女とは違い、生きながらにして転生し本来の強さをしんから溢れさせる女性となって、輝く満月を高雅な花の香りのなかで見上げるのであった。この場面の母と子の風姿の、なんと切なく優しく気高いことか。そうして、伸仁が見事に語った狂言「月見座頭」は、いっそう二人のたたずまいを引き立てるのである。
 その後、房江は生まれて初めて履歴書を書いて、「多幸クラブ」というホテルの従業員食堂の仕事の面接を受け採用される。「私に運が廻ってきた」と房江は嬉しくなる。「多幸クラブ」というホテル名も、「多幸多福」につながる房江の明るい行く末を暗示するようだ。

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 第九部『野の春』の舞台は引き続き大阪である。昭和四十一年からはじまり、十九歳の伸仁は大学生になった。
 熊吾はもうすぐ二十歳になる伸仁に対して「父親としての責任は果たした」と思う。だが、「大将」としての責任はまだあると考えた。森井博美が一人で生きていけるように、ハゴロモの社員・神田三郎が会計士になれるように、大阪中古車センターを守衛する佐竹よしくにがそこを明け渡す事態になっても次の仕事場で働けるように、第六部で知り合ったキマタ製菓の社長・また敬二の職人としての夢が果たせるように……熊吾は自分が苦境に陥っているときでさえも、常に人のことを気に掛け、なんとかして生きる道を作ってあげようと心を配るのである。熊吾のその情の厚さや優しさは、時にもろの剣となって自身や家族を苦しめることになるが、それが「大将」の無二のふところの深い魅力でもあるのだ。
 房江は自殺未遂以降、活力に溢れていた。多幸クラブの正社員となって、料理の才能を社員食堂でいかんなく発揮する。熊吾の妹タネを新たに社員食堂のまかない婦として引き入れると、子分のように扱い、いつのまにか調理部の人たちから「女ボス」と呼ばれるようなリーダーシップを見せるのであった。
 伸仁は大学でテニス部に入部し、そのコート作りからはじめた。夏の合宿に行っては、真っ黒に日焼けして帰ってくる。十八歳のときに隠れてアルバイトをしていた、ストリップ劇場の照明係の話を伸仁が大人びた口調で、時に熊吾に似た話しぶりで房江にかせる場面などは、掛け合い漫才のようでおもしろい。伸仁が恋人の大谷さえを房江に紹介する場面もいい。二十五歳になったら結婚するという約束を交わした息子の言葉を聞いて、房江は少しろうばいするのであった。そんな母と子のやり取りからも、あのせんびようしつで小さかった伸仁が成長したことを読者は実感するであろう。その実感は、伸仁の二十歳の誕生日が訪れたことでいっそう強まる。その日は「お前が二十歳になるまでは絶対に死なん」という熊吾の誓いがじようじゆする時でもあった。第一部からの熊吾の父としての大願が達成され、幼い頃からひ弱であった伸仁が元気に成人を迎える梅田の明洋軒での祝いの席は、まさに名場面といえよう。熊吾の浮気以来、三人で食事をすることから遠ざかっていただけに、よけいに読者にとっても嬉しく待ちに待ったシーンでもある。
 房江は、誓いを果たした熊吾にもプレゼントを用意する。それは帽子がよく似合う熊吾への上等な鳥打帽であった。
「ノブが二十歳になるまで生きてくれはったお祝い。お父ちゃん、誓いを果たしはったねえ。おめでとう」と熊吾を心からねぎらい讃えると、熊吾は「房江も伸仁もあつにとられて見入るほどの量」の涙を溢れさせて泣くのだった。そんな熊吾の姿を見るのは初めてだった房江も涙が止まらない。この文章を書きながらも、私はもらい泣きしそうになっているが、この場面にはほんとうに胸が熱くなる。第一部から最終巻まで、筆舌に尽くしがたいほどの松坂家の艱難辛苦があり、一家のさまざまな喜怒哀楽の様相が絶え間なく渦巻いてきたなかでの、伸仁のこの二十歳の誕生日に辿たどり着いた歓びは、読者の胸に限りない優しさや和やかさや一人の子を育てることの尊さをひしと伝えてくれるのだった。
 誕生日の席では、第二部の舞台でもある南宇和での家族の思い出話にも花が咲く。伸仁が野壺に落ちたことや房江がそう川の泳いでいるあゆを手づかみすることや熊吾が荒くれた闘牛用の牛を熊撃ち銃で殺したことや伸仁が虫捕り網をむやみに振り回したことなどである。
 房江は、熊吾が「巨大な土俵」と名づけた一本松村の田園風景を思い起こす。それはれんげの花や菜の花が咲き乱れる春の野の光景であった。「お父ちゃん、私、春真っ盛りの一本松に行きたいわ。三人で一度は行っとかなあかんわ。ノブにふるさとを見せておかなあかんわ」と、熊吾に提案する。熊吾が伸仁は神戸のかげ生まれなのに、愛媛県の一本松村をふるさとと言うのかと返すと、房江は「松坂家の実家の地は、松坂伸仁の本当のふるさとや。松坂家の血が眠ってるところや」と返答するのであった。
 この二人の会話はさりげないようでいて、重要な場面である。私は宮本氏へのインタビュー時にもお話ししたが、最終巻を読み終えたあと、第一部に帰って読みはじめると、第九部で死んだはずの熊吾が再び立ち上がってきて、颯爽と闇市をかつしはじめるインパクトに、この物語は永遠に終わらず循環し続けているのだと思ったのだった。終わったけれども終わらない、何度でもはじまる。物語そのものが大きく流転している印象が強いのだが、伸仁の二十歳の誕生日での南宇和の思い出話をはじめ、いくつかの第二部を回想するシーンを第九部で見るたびに、第一部から第九部へ、第九部から第一部へと永久に循環しながらも、実は熊吾の魂は第二部の自身の故郷である南宇和へと還っていったのだと気づかされるのだった。そう気づかされたのは、熊吾の臨終の情景に接してからである。
 伸仁に対して、思わぬ冷酷なことを言ってしまった熊吾は謝りたいと思っていたが、それが果たせぬままにのうこうそくで突如倒れてしまう。病院へ搬送されるときの熊吾の戦争体験のもうろうとした回想は凄まじく、胸が締めつけられる。「流転の海」には戦争で心身ともに傷を負った人物が数多く登場するが、軍曹であった熊吾もその一人だったのだ。熊吾は糖尿病も悪化しており打つ手がない状態になってしまった。「中古車のハゴロモ」も閉店を余儀なくされる。「私たち夫婦が生きた時代も終わろうとしている」と房江は感じるのであった。
 多幸クラブで仕事をしている房江は、愛人の森井博美に熊吾の看病を助けてもらいながら、夫が入院している病院に通った。やがて、熊吾は失語症に陥る。そんな言葉も出ない状態になった熊吾を、博美は裏切る。熊吾の隣のベッドの入院患者と関係を持ってしまうのである。それに感づいた熊吾が、不自由な口で懸命に「サンカク」「オロカ」と房江に伝える場面は、人間の宿業ともいうべきまいさを痛烈に見せつけられるようで壮絶だ。宮本氏はこのたんにおいても、人の裏切りを容赦なく書きつける。熊吾は、博美に生きる道をつけようとぜいたくなお好み焼き店を営むように助言し援助しようとしていたが、その博美にも最後に裏切られるのだった。
 見舞いから去った房江を恋しがって熊吾は病室で暴れ、かわやま町にある病院に転院させられる。熊吾がとくに陥って駆けつけたときに房江と伸仁は初めて、そこが精神病院であることに気づくのであった。
 狭山精神病院では患者らの凄まじい光景を二人はの当たりにする。熊吾は、「お父ちゃん」と呼びかける二人を見て涙を流す。徹夜した房江と伸仁は眠り込んでしまい、目覚めた房江は熊吾の死を知るのであった。
 四月十一日、午前十時四十五分、熊吾はこの世を去った。
 その後の二人の会話は熊吾が臨終を迎えたにもかかわらず、どこかユーモラスだ。この場にこのかいぎやくある会話を持ってくることができる宮本氏に脱帽する。私は泣き笑いするようにこのシーンを噛みしめながら読み進めた。
「なんと穏やかな顔だろう。微笑んでいるようだ。私と伸仁を見て安心したのだ。いや、そのせいではない。誓いを果たして死んだからだ」と、房江は熊吾の死に顔を見つめるのであった。
 熊吾は「お前が二十歳になるまでは絶対に死なん」という誓いを見事に果たして亡くなったのだ。私は思う。熊吾は伸仁を二十歳まで見守り育てるという「使命」を全うするための「宿命」のなかにいたのだと。その熊吾の宿命が死を以て閉じたのである。
 春の日の、この病院の桜が満開のときに熊吾は亡くなり、房江は「桜の花が松坂熊吾を迎えにきてくれたんやなあ」と、伸仁に語りかける。私はこの時ふと、西行の一首「願はくは花のしたにて春死なむそのきさらぎもちづきのころ」が思い浮かんだのだった。西行の辞世に擬された一首であるが、熊吾も第五部で伸仁が初めて失恋した折に、「心なき身にもあはれは知られけりしぎ立沢の秋の夕ぐれ」という西行の一首をそらんじて、「西行の歌が多少はわかるおとなになるかもしれん」と、丸尾千代麿に語っている。旅人であった西行は、春に満開の桜の下で死にたいと願い、大願の一首をんでその通りに亡くなった。西行が旅人なら、熊吾もれつを極めた人生の旅人であったといえよう。そして私は、西行法師のしゆうえんの地が、大阪は河内にあるひろかわでらであることを知って驚きを隠せなかった。熊吾が亡くなった狭山精神病院も河内であったからだ。偶然といえば偶然かもしれない。しかし房江の「桜の花が松坂熊吾を迎えにきてくれたんやなあ」というセリフも追い打ちをかけるようにして、西行と熊吾の終焉の地が河内であるという一致に、何か粛然とした「もの深さ」とでもいうべき感情を抱いたのだった。
 熊吾ならこの病院の満開の桜を眺めて、なんと言うだろうと私は思いを馳せた。この西行の花の一首を諳んじるかもしれないし、西行を尊崇して旅に出た芭蕉の一句「さまざまの事おもひ出す桜かな」を呟くかもしれないとも思った。房江と伸仁と一緒に過ごした、さまざまな人生の情景を思い出しつつ、病院の桜を静かに眺めたことであろう。
 熊吾の病室の窓外には、穏やかな春の風景が広がっている。南宇和の一本松村の大きさにはかなわないが、どこか熊吾の故郷の情景が重なって見える。『野の春』というタイトルは、熊吾が息を引き取った河内の春景色であると同時に、熊吾の郷里・南宇和の「巨大な土俵」の春景色でもあるのだ。熊吾の魂は、れんげの花や菜の花や桜が咲き誇る一本松村の春へと還っていったのであろう。かつてやんちゃぼうであった熊吾を乗せて、故郷の田舎道を家まで悠然と送りとどけてくれた牛のアカの背中にのんびりまたがりながら。
 熊吾の葬儀に集まったのは、人生において彼に助けられた善意の人ばかりである。心根の清い人ばかりだ。熊吾の「きょうは、いばってはいけない日」に際して、そんな近しい人々が寄り集まってくれた。「とう物言わざれども下自ずからけいを成す」とは、まさにこのことである。徳のある人のもとには、黙っていても魅了する桃やすもものように人々が慕い集まってくるものである。
 父である熊吾の嵐のごとき激動の人生に巻き込まれながら、母の房江と息子の伸仁はこれまで生き抜いてきた。この長大な物語は社会的事件や事象や風俗をクロニクル的に織り込みながら、戦争で傷ついた人々としのぎを削り合い、時に優しくいたわり合いつつ、戦中戦後を力いっぱい生きてきた松坂熊吾という「せいの傑物」ともいえる人物を中心に据えて、壮大なスケールで展開する家族の星廻りを巡る人生の格闘たんともいえる。そして松坂家以外のさまざまな人間が登場しては生と死をひたすら繰り返してゆく有為転変の物語だ。宮本氏は第九部のあとがきで、「ひとりひとりの無名の人間のなかの壮大な生老病死の劇」と言い切っているが、私はその言葉に静かに粛然とうなずくほかない。
「『流転の海』第二部について」という氏のエッセイのなかで、「『お父ちゃん、いつか俺がかたきをとったるで』と十八歳のとき確かに私は父に言ったのだった。父は笑っていたが、私は約束を果たさねばならぬ」と記している。その約束通り、宮本氏は見事に父という人間の聖俗も表裏も炙り出し、その命を讃えて書き切った。充分な仇を討った。そうしてエッセイ「よっつの春」のなかの「桜」の一節で「雄大で、したたかで、しぶとい生命力を持った、ばんの花をたなごころに載せて時を耐えた、幹の周りが三丈八尺、枝の拡がりが二反歩に余る、樹齢千二百年の桜のような人間を、自分の筆で書きあらわしてみたい」と述べているが、その大木の桜こそが松坂熊吾ではないかと、私は思うのであった。またこう言い換えてもいい。「流転の海」こそがどんな風雪にも耐え忍ぶことができる、ごうのなかに咲き満ちる荘厳なる桜の大樹なのだと。

(令和三年二月、俳人)

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