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小説 イタリア・ルネサンス4―再び、ヴェネツィア―

塩野七生/著

1,320円(税込)

発売日:2020/12/23

  • 文庫
  • 電子書籍あり

故国に帰還した外交官マルコ、最後の戦い。世界の運命を決した一大海戦が始まる。

国政に復帰したマルコは、再びトルコと対峙する。絶対君主スレイマンが没すると、両国間には戦雲が立ち込め、ついには誰も望まなかった全面衝突に発展してしまう。五百隻が海上で激突し、一万五千人が命を落としたレパント沖での大海戦は、その後の世界をたった一日で運命づけるのだった……。一人の外交官の人生を通して、ルネサンス世界の興亡を壮大に描いた傑作歴史小説、圧巻の完結編。

目次
帰郷
職場復帰
ユダヤ人居留区ユダヤ・ゲツトー
医師、ダニエル
女の香り
「タルパ(もぐら)」
音楽会
祖父と孫娘
秘書官ラムージオ
ヴェネツィアの矛盾
尼僧院脱出作戦
ローマ再訪
金角湾の夕陽
時代の変化
ヴェネツィアの芸術家アルテイスタ 一
ヴェネツィアの芸術家 二
ヴェネツィアの芸術家 三
対話の醍醐味
舵取りの苦労
マルタのたか
現実主義者が誤るのは……
海将バルバリーゴ
血を流さない戦争と、血を流す政治
戦雲にわかに 一
戦雲にわかに 二
「火」と「水」
レパントへの道 一
レパントへの道 二
レパントへの道 三
レパントへの道 四
レパントの海
最大にして最後の大海戦
血を流さない戦争 一
血を流さない戦争 二
血を流さない戦争 三
隠退
その後のヴェネツィア
図版出典一覧

書誌情報

読み仮名 ショウセツイタリアルネサンス04フタタビヴェネツィア
シリーズ名 新潮文庫
装幀 高橋千裕/カバー装幀、ロレンツォ・ロット「若きジェンティルウオーモの肖像」(部分)/カバー装画、(C)Heritage Image Partnership Led/Photo、Alamy Stock Photo/Photo
発行形態 文庫、電子書籍
判型 新潮文庫
頁数 544ページ
ISBN 978-4-10-118124-0
C-CODE 0193
整理番号 し-12-24
ジャンル 歴史・時代小説
定価 1,320円
電子書籍 価格 1,320円
電子書籍 配信開始日 2020/12/23

インタビュー/対談/エッセイ

『小説 イタリア・ルネサンス』をめぐって(最終回)

塩野七生

コロナ騒動が収束する日のために

(一)(二)(三)は こちらから

塩野七生さんの2年ぶりの書き下ろし新作が刊行される。ヴェネツィアの外交官マルコはフィレンツェ、ローマと遍歴したのち、祖国に帰還。しかしヴェネツィアは誰も望まない戦争へと突き進んでしまう。コロナ禍でロックダウンしたローマの自宅に籠って六百枚の原稿を書き上げた心境とは――?

 眠る前に芥川龍之介の一冊を読んでいて、「語るにおちる」とある箇所でドキッとした。著者が自作を語るに至っては、まさにこれではないかと思ったのだ。あれだけ書いておいてまだ話さねばならないことが残っているなんて、作家とはとても言えない。新作刊行時にされるのが慣例の著者インタビューとか著者自作を語るとかは、作家を職業にしていない、つまりは他に立派な本業をもつ人々が自分自身のことを書いた場合に、自作を語る意味が出てくるのではないか。
 実際、職業作家の中でも力のある人ほど、著者インタビューが面白くない。それは、インタビューされる側が、どうしても乗れないからなのだ。力があるとは言えないけれど職業作家ではある、私の場合でも、こんな状態。
 今日は十二月六日、全四巻になる最後の巻の本造りも終って印刷にまわされたのは十日前。その日から十二月下旬に書店の店頭に並ぶまでの一ヶ月は、書いた本人にとっては、もうジタバタしたってダメという絶望的な状態になるのがいつものこと。ついに書き上げたという達成感なんて嘘。虚脱感、喪失感、要するに緊張しつづけてきた二年間の疲労が全部出てきた感じ。日本から電話してきた読者でもある医者は言った。「塩野さん、気をつけて下さい。やることがなくなった今が一番危ない」。仕事を終えたら、免疫力も抵抗力も低下するから気をつけろということだろう。
 例年ならばこの時期は帰国しているので、著者インタビューもこの時期に集中する。もうジタバタしたってダメと思っている私も、それは受ける。受けて、語るにおちるとはこのことだと思いつつも、何かは話す。何を話したかは、すぐに忘れる。出版社側の「これは宣伝ですから」という言葉に、まあいいか、とでもいう想いで受けるので、心中では宣伝にもならないと思いつつも、著者としての最低の義務は果たすわけ。
 それがコロナ騒ぎで、今年はなくなった。帰国できないので、死ぬほど好きな穴子のにぎりや石巻や女川の練りものが食べられなくなったのは心残りだが、やむをえず果たす任務がなくなったのは嬉しい。と言って「」誌上に四回書く約束は、コロナに関係なく残っている。ところがそれが、三回までは書いたのだが、肝心要の四回目に何を書いたらよいかわからなくなった。虚脱感のせいである。だが、約束を守るのは職業作家の条件でもあるのでこれを書いているのだが、インタビューされているわけでもないので、この回は全四巻中でもまったくふれていない事柄を書くことにしたのである。
 まず、これこそ宣伝ではないかと思いながら書くのだが、「小説 イタリア・ルネサンス」と銘打ったこの全四巻の実用的効用について。
 いまのヨーロッパは事実上のロックダウン下にあるので、日本からイタリアには来られない。イタリアへの旅が不可能な状況下でルネサンス時代のイタリアを旅するのに、この全四巻は愉しい上に役にも立つ、と著者は思っている。だから、日本で静かにしていなければならない間に、全四巻を読んで下さい。各巻にあげたカラーページの数多くの芸術作品が、書物を読みながら旅するあなたの道案内になってくれるだろう。この種の旅には読む側の好奇心と想像力があってこそ効力も増すのだが、昔の西洋史をとりあげた私の著作に慣れたあなたには、それも充分にあると思うけど、どうでしょう。
 そうこうしているうちに、年も変わって春が来る。その頃にでもなれば、コロナ騒ぎも一応は収まっているだろう。日本からイタリアへの直行便も再開しているかも。そうしたら、この四巻を持ってイタリアにいらっしゃい。そのときのために、カラーページでお見せした絵や彫刻や建造物が、どの国のどの美術館に所蔵されているかも書いてある。また、大画面ならばその寸法も。いずれも、芸術家たちが精魂こめて立ち向った結果である最高の傑作に迫るための一助として、出版社側が渋るのも気にせず私が入れさせたのだった。
 そして、コロナ騒ぎが収まった後にイタリアを訪れた人には、より実用的なことも進言したい。その一つは、ブラーノ島で産するマルヴァッジア種の葡萄酒の「ヴェニッサ」(Venissa)。ただ美味しいだけでなく、産出量も少ないので相当に高価。ホテル・グリッティでの二人分の夕食は五万円もしたが、その五分の二までがわずか五十ccのこの酒だった。しゃくだから、小説の中では主人公愛用の酒にしたのです。
 もう一つは、ヴェネツィアのフェニーチェ歌劇場前の広場の一画にある「マーチャント・オブ・ヴェニス」という名の店で売っている香水。ここではあらかじめ調合した香水も売っているが、色々の香水を調合するのがオリンピア式で愉しい。
 作品とは、多くのことも愉しめるものであってよいとは思ってきたが、今度の全四巻では、そのほうの想いまでも、入れちゃったのでした。

(しおの・ななみ 作家)
波 2021年1月号より

『小説 イタリア・ルネサンス』をめぐって(三)

塩野七生

ローマの魅惑――「寛容の精神」の底流にあるもの

(一)(二)は こちらから

現在刊行中の歴史小説『小説 イタリア・ルネサンス』は第3巻に進み、物語はフィレンツェからローマへ。同様に転居した過去をもつ塩野七生さんにとって、ローマとはいかなる都市なのか? その魅力を語ってもらった。ふたたびロックダウンに入ったイタリアからの特別寄稿。

 この第三巻では、三十代後半という青年期の後半に入った主人公のローマでの日常が語られます。その彼に、ローマが何をもたらしたか、も含めて。
 フィレンツェやヴェネツィアは、中世とルネサンスの都市と言ってもよい。しかし、ローマはちがいます。ローマとは、イタリア内の他の都市とちがうだけでなく、世界中の他の都市ともちがう町なのです。
 では、何がちがうのか。それを、ローマを訪れた時代は別でもベストセラー作家という点では共通していた、二人の文人の感想で見てみましょう。
若きウェルテルの悩み』で一躍ヨーロッパ文壇の寵児になったドイツ人のゲーテは、ローマに入ったその日にこう書いています。この日から、自分にとって真の「生」が始まった、と。三十七歳の若さが爆発した一句ですよね。
 その八十年以上も後にローマを訪れた『トム・ソーヤーの冒険』の著者マーク・トウェインは、いかにもユーモア作家らしい一文を日記に残している。「今朝はすこぶる気分が良い。なぜなら昨日、ミケランジェロはとっくの昔に死んでいることがわかったので」。笑っちゃうけど、同感もします。ローマには、どこに行ってもミケランジェロの爪痕が残っているのだから。しかし、もう死んじゃった人ならば、これ以上創作される危険だけはない。だから創作者としては、気分が良くなるのも当り前でしょう。
 というわけでローマという都市は、感受性の豊かな旅人には常に何かを感じさせてしまう都市でもあるのですが、このことは訪れた時代に関係ないみたい。
 それで、今回はラファエッロについて話します。
 中部イタリアの小都市ウルビーノで生れ、そこで画家修業を始めていた彼は、フィレンツェに行ってレオナルド・ダ・ヴィンチの絵を見たことで、彼にとっての真の人生が始まる。そして、その後に滞在したローマで、彼の芸術は花開く。しかしそれは、優美な聖母子像の画家としてだけではなかった。ヴァティカン内にある「ラファエッロの部屋スタンツェ」を埋める壁画の数々が、この若い芸術家が、もっと広く世界を見ていたことを示しています。人間の「知」の源泉になった古代の哲学者の群像である「アテネの学堂」を描いたのだから。
 この有名な絵画が、当時のローマ法王庁を満たしていた開けた精神オープン・スピリットの具像化という評価は正しいでしょう。でも私には、この絵は法王か高位聖職者の誰かがラファエッロに描けと命じたから実現したのではなく、ラファエッロ自身も心から納得して描いたのだと思えてならないのです。
 なぜなら、現代の遺跡保存委員会のような組織があの時代のローマにもあったとしたら、その組織のトップはラファエッロであっただろうから。法王レオーネ十世にあてた、ラファエッロ自筆の手紙が遺っています。そこには、発掘の作業中に出てくる古代の傑作が金持ちたちに買い占められている現状は嘆かわしく、より多くの人に観賞されるためにもローマ法王庁が積極的に購入に乗り出すべき、と書かれている。手紙を受けとった法王レオーネはメディチ家出身だからその方面への理解があり、ラファエッロの嘆願はただちに実行された。後世に生きるわれわれが、ヴァティカンを初めとするローマの数多くの美術館で古代の傑作を観賞できるのは、ラファエッロのおかげでもあるのです。私の彼への愛が、ルネサンス最高の画家の一人という以上であるのも当り前。三十七歳という若さで死んでしまったけれど、彼もまた、ローマの魅惑を感じとった一人でもあったのだから。
 それに加えてもう一つ、彼の絵を前にするたびに感じることがあります。それは、ラファエッロが持っていた、過去に何ごとかを成した人たちに対する正直で素直で深い敬意の念。「アテネの学堂」でも、プラトンはレオナルドの姿に、アリストテレスはミケランジェロの姿にしている。
 しかし、そのラファエッロを見るたびに思ってしまうこともある。ほんとうの意味の謙虚とは、自らに確固たる自信を持っているからこそ実行できる生き方である、ということ。ローマがいつの時代でも寛容であったのも、それゆえでしょうか。

(四)へつづく→

(しおの・ななみ 作家)
波 2020年12月号より

『小説 イタリア・ルネサンス』をめぐって(二)

塩野七生

新しい世界への扉はいつでも「男」だった

(一)は こちらから

ルネサンスを描くことから作家生活を出発した塩野七生さん。その後主要テーマを古代ローマ、中世、古代ギリシアへと次々に変えてきましたが、ふたたびルネサンス世界を描いた作品を『小説 イタリア・ルネサンス4』としてまもなく刊行します。塩野さんにとってルネサンスとは何なのでしょうか。その原点となる大学時代について聞きました。

――大学の卒業論文のテーマはイタリア・ルネサンスだったということですが、在籍されていたのは哲学科です。なぜ哲学科で、歴史でもあるイタリア・ルネサンスを選んだのですか。

塩野 それに答えるには、東大の受験に失敗したことから始めないと……。
 私の通っていた日比谷高校は当時、三分の一はストレートで、次の三分の一は一浪で東大に進むという、東大への進学率ならば有名私立校でも寄せつけないところだったので、私も深く考えずに東大を受けたのです。ところが結果は不合格。心を入れ直して受験勉強に集中すれば来年には、と思ったけど、それとて確実ではない。で、胸に手を当てて考えたんですね。なぜ東大に行きたいのか、と。
 答えは簡単。東大で西洋古典文学を教えている呉茂一の講義を受けたい、ということだけだったのだから。それならば価値も認めていない受験勉強に労力を費やすよりも、先生が出張講義に行っている大学を受ければよいので、それが慶應と学習院。いずれも哲学科。受験科目も国語と英語と世界史で、これなら受かると。その時点で受験のための勉強はやめてしまった。

――でも、慶應ではなくてなぜ学習院にしたのですか。

塩野 カリキュラムが面白かったからです。当時の学習院の院長は安倍能成で、彼は哲学科を、かって校長をしていた旧制一高のようにしたかったみたい。英国のパブリック・スクールやフランスならばクラシックのリセ、イタリアだとリチェオ・クラシコになるけれど、要するに古代のアテネにアリストテレスが創立した「リュケイオン」の精神を継承する教育施設にしたかったみたいです。言い換えれば、リベラル・アーツを学ぶところ。三年まででそれらを習得し、残りの一年を費やす卒論は何を選んでもよい、となっていたから。入学早々助手の主導で読まされたのが、バートランド・ラッセルの『西洋の知恵ウィズダム』であったのも、その想いを示している。
 しかし、この式の哲学科は、安倍能成の退陣後は分散してしまう。哲学プロパーや歴史学や心理学科とかに。それがまだカテゴリーに別れない前の総合していた時期の哲学科で学んだことが、私にとっては幸運の始まりだったと思っています。
 なにしろ、教授たちの顔ぶれからしてスゴかった。安倍能成が招聘したからでしょうが、中村元がいなければ、インド哲学なんて知らないで終ったと思う。彼の教えを受けるためだけにオックスフォードを休学して日本に来た学生もいたくらい。私もふくめた学習院大の学生たちの頭の程度にはもったいない顔ぶれでした。
 それで私が学習院に決めた理由になった呉茂一先生ですが、授業初日の先生と私との会話。
「学習院にしたのは、先生の講義を受けるためです」
「ボクの授業は特殊講義なので、一、二年生には単位はあげられないのだけど」
「単位なんて関係ありません。でも、聴講ならば認めてくださいますよね」
 というわけで始まったのですが、まず先生は学生たちに、出欠はとらない、単位も、期末に提出してもらうレポートで決めます、とおっしゃった。そうしたら次の授業から誰もいなくなり、残ったのは私一人。しかもその一人も、なぜホメロスの『イーリアス』を読みたいのかと問われて、アキレスがステキだから、と答える始末。まあ、新しい世界に入っていくのは常に「男に手を引かれて」になるのは、あの頃からの私のクセでもあったのだけど。
 とはいってもギリシア文学の第一人者の先生にしてみれば絶望モノだったでしょう。でも、本拠である東大には高弟たちが揃っている。それで私に対しては、実験してみる気になったとのこと。
 具体的には、辞書には頼らずに用例を探すのを先行させること、になる。『イーリアス』をそのまま訳すのではなく、その中の一句にしろ、いつ、どこで、誰が、どのように引用しているかを調べることになります。
 このやり方だと、調べる範囲は古代のギリシアに留まらず、ローマも、その後の中世やルネサンスにまで広がることになる。辞書を引くのはその後です。確認のためなのだから。
 これを四年つづけてくれれば、その結果である卒論がイタリア・ルネサンスになるのも当然の勢い。ちなみに卒論の担当教授は、古代が専門の呉茂一、中世思想史の下村寅太郎、西洋美術史の富永惣一の三先生でした。あの頃からは何年過ぎたかわからない今になって刊行する『小説イタリア・ルネサンス』も、その小説化でしかないのです。

(三)へつづく→

(しおの・ななみ 作家)
波 2020年11月号より

『小説 イタリア・ルネサンス』をめぐって(一)

塩野七生

外出禁止さえも愉しんで書いた「オトナの男女」

作家生活唯一の「歴史小説」、その続編を書き上げ、三十年の時を経て完結させた塩野七生さんに話を聞いた。ペスト禍に『デカメロン』を書いたボッカッチオよろしく、自室に籠もって構想・執筆に没頭した日々とは――?

――なぜ、今になって小説を?

塩野 2017年の年末に『ギリシア人の物語』の第3巻でアレクサンダー大王を書いて、これで私も死ぬな、と思っていたら死ななかった。生きているのに何もしないというのも、けっこう疲れるんですよ。それで、疲れるのならいっそのこと書こうと思い、三十年前に書いて途中で放り出していた作品を、放り出したところから書き足して全4巻に構成し直したというわけ。通しテーマも、『小説 イタリア・ルネサンス』。まあ、三十年前どころか大学で卒業論文を書いていた昔にもどったことでもある。だって卒論のテーマも、「イタリア・ルネサンス」でしたから。
「なぜ今になって?」というのも、これまではずっと歴史エッセイを書いてきたからの質問だと思いますが、歴史エッセイと歴史小説は、とりあげるのは歴史ということでは同じでも、照明の当て方はちがうのです。具体的には、エッセイでは登場人物の創作はしないけれど、小説ではする。今度の作品でも、登場人物のほとんどは実在していた人ですが、主要人物になる男女二人は私が創作した。また、エッセイだと会話でも史料に残っているものしか使えないですが、小説ならば使える。エッセイでは「解説」していたことも、小説だと会話で表現できる、ということだから。

――でもなぜ、今までそういった書き方をしなかったのですか?

塩野 歴史エッセイで取り上げてきた男たちの存在感が圧倒的だったからですよ。ペリクレスでもアレクサンダーでもカエサルでも皇帝フリードリッヒでも、小説仕立てにする必要は感じなかった。彼らの行跡を追っていくだけで、充分にドラマティックだった。わざわざ私がドラマを作ってあげる必要なんて、まったくなかったのです。
 でも、こういうタイプの男たちは、これまでで充分書いちゃった。なのにまだ死なないので、別のタイプの男を書くことにしたのです。

――それはどういうタイプの男なんですか?

塩野 まず、その人物が生きた時代を決めることから始めました。十六世紀と。つまり、イタリア・ルネサンスの最盛期です。「最盛期」とは、その後にくるのは衰退期ということだから、時代の分かれ目に生きた、ということになります。
 それで、もしも私がそのような時代に生まれていたらどういう生き方をしただろう、と考えたのね。これでも私は女だから、まずは女だったら、と。地位が高くてお金持ちの男と結婚して、有閑マダムをやる性質たちではない。と言って、男を踏み台にして出世する性質でもない。となると自立した女、となる。けれど、あの時代に女で自立する、しかも優雅に自立する道は、一般の娼婦と区別してコルティジャーナと呼ばれていた高級遊女しかない。というわけでオリンピアを作り出したというわけ。
 それで、男の方なんだけど……。

――男の登場人物まで作ってしまった。塩野さんは女性なわけですが……。

塩野 これも一種の後遺症かしらね。圧倒的な存在感の男たちを書いてきたことで、私の内部に男性的要素が生まれたのではないかと思うのです。彼らほどの男は、女の視点に留まっていたのでは書けない。こちらも男になった気にならないかぎり、絶対に書けません。
 というわけで、あの時代に生まれていたら、という仮定も、私の場合は女だけでは足りないので、男にもならざるをえなかった。こうして、マルコ・ダンドロが生まれます。
 それで、マルコの生き方だけど、これまで私がとりあげてきた男たち、つまり歴史上の著名な人物にはしなかった。著名な男にしたのです。どうやら私が好むのはトップ中のトップと思われているらしいけれど、実際はそうではない。世間的には目立たない、それでいて何かはした男のほうが好きみたい。なにしろ死んでもよい年になっているのに死なないから書いたのだから、もうこうなったら私好みの男を書く、と決めたんです。
 要するに、私の中の女性的要素がオリンピアに結晶し、男性的要素はマルコになったと言ってもよい。この二人が最高の性愛関係に進んだのも、当たり前ですよね。もともと一人である人間が、女と男に分かれただけなのだから。
 また、この四巻すべてが、マルコという男の一生でもある。第一巻では三十代前半の彼。第二巻と第三巻では三十代後半。そして新作である第四巻は、四十歳から死までの彼、という構成。
 三十にしてち、四十にして惑わず、という格言があるでしょう。それに従えば、三十で起っても四十歳になるまでは惑ってもよいということになる。ただし、四十代に入ってもまだ惑っているのはNO。なぜかというと、ただ単純にサマになりません。東京言葉でいえば「みっともない」。そのうえ、周囲に迷惑をかけることにもなる。だから、書く側としては、第三巻で終わりにするわけにはいかなかった。四巻まで書く必要があったのです。
 たしかにマルコは、歴史上に燦然と輝くタイプの男ではない。歴史の背後に静かに立っている、その他大勢の一人かもしれません。
 そんなマルコを、私は「ジェンティーレ・アスペット」、日本語に直せば「佇まいの美しい男」として書きたかった。
「ジェンティーレ・アスペット」(gentile aspetto)とは、ルネサンス初期のフィレンツェに生きたダンテが『神曲』の中で使った形容ですが、そこでダンテは「金髪で、美男で、そのうえ佇まいの美しい男」と書いている。つまり、美男であることと佇まいの美しさはイコールではないのです。
 男が百人いるとしましょう。その中の十人くらいは美男。イタリアならば十五人はいるけれど、日本だと五人くらいで、まあ中間をとって十人とする。しかし、佇まいの美しい男となると、百人の中に一人いるか、いないかになってしまう。しかし、顔立ちは美男でなくても、佇まいは美しい男はいるのです。
 そして、佇まいが美しいということは、生き方も美しいということでもある。オリンピアはマルコを愛したのです。男関係の豊富な女が、いかにも愛しそうなタイプでもあるけれど。
 でも、書いていて愉しかったですよ。コロナ騒ぎによる外出禁止も、少しも気にならないくらいに。
 それも当然ですよね。男と女に分かれた私自身が、五百年昔のイタリアにタイムスリップして生きるのだから。
 とまあこんな具合で、ヒコウキが飛んでくれないために日本に帰れない状態での、読者へのおしゃべりの第一楽章はこれで終わりにします。では、また一ヵ月後に――。

(二)へつづく→

(しおの・ななみ 作家)
波 2020年10月号より

著者プロフィール

塩野七生

シオノ・ナナミ

1937年7月7日、東京生れ。学習院大学文学部哲学科卒業後、イタリアに遊学。1968年に執筆活動を開始し、「ルネサンスの女たち」を「中央公論」誌に発表。初めての書下ろし長編『チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷』により1970年度毎日出版文化賞を受賞。この年からイタリアに住む。1982年、『海の都の物語』によりサントリー学芸賞。1983年、菊池寛賞。1992年より、ローマ帝国興亡の歴史を描く「ローマ人の物語」にとりくむ(2006 年に完結)。1993年、『ローマ人の物語I』により新潮学芸賞。1999年、司馬遼太郎賞。2002年、イタリア政府より国家功労勲章を授与される。2007年、文化功労者に選ばれる。2008ー2009年、『ローマ亡き後の地中海世界』(上・下)を刊行。2011年、「十字軍物語」シリーズ全4冊完結。2013年、『皇帝フリードリッヒ二世の生涯』(上・下)を刊行。2017年、「ギリシア人の物語」シリーズ全3巻を完結させた。

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