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選べなかった未来は、いつだってひどく幸せだ――。生涯忘れ得ぬ、不器用な二人の恋。

劇場

又吉直樹/著

539円(税込)

本の仕様

発売日:2019/09/01

読み仮名 ゲキジョウ
装幀 大竹伸朗「路上1」一九九〇年/カバー装画、新潮社装幀室/デザイン
雑誌から生まれた本 新潮から生まれた本
発行形態 文庫
判型 新潮文庫
ISBN 978-4-10-100651-2
C-CODE 0193
整理番号 ま-57-1
ジャンル 文学賞受賞作家
定価 539円

高校卒業後、大阪から上京し劇団を旗揚げした永田と、大学生の沙希。それぞれ夢を抱いてやってきた東京で出会った。公演は酷評の嵐で劇団員にも見放され、ままならない日々を送る永田にとって、自分の才能を一心に信じてくれる、沙希の笑顔だけが救いだった――。理想と現実の狭間でもがきながら、かけがえのない誰かを思う、不器用な恋の物語。芥川賞『火花』より先に着手した著者の小説的原点。

著者プロフィール

又吉直樹 マタヨシ・ナオキ

1980(昭和55)年、大阪生れ。吉本興業所属のお笑い芸人。コンビ「ピース」として活動中。2015(平成27)年、「火花」で芥川賞を受賞。他の小説に『劇場』『人間』、エッセイに『第2図書係補佐』『東京百景』などがある。

書評

運転中のラジオ

町田康

 先日。自らハンドルを握り、首都高速道路三号線を用賀方面に向かって走行していたところ三軒茶屋のあたりでなんだか急速に気持ちがざわついてきたので、音楽でも聴いたら少しは気が晴れるのではないか、例えばラモーンズの「Beat on the Brat」かなにかが流れたら、と思ってラジオのスイッチを入れた。そしたら。
 ラモーンズどころかジェスロ・タルすら流れず、だったらせめてルー・リードか、それが難しければもうロッド・スチュワートでもいいのだけれどもそうしたものすら流れない。じゃあなにが流れたかというと、ラジオから流れてきたのは陰気なおっさんのたどたどしい語りで、しかもそれが延々と続いて、いつまで経っても曲がかからない。
 そして用賀を過ぎる頃、それが放送大学で、おっさんは哲学の講義をしているのだということがわかって、それでさっきからニーチェがどうしたこうした言っていたのか、と合点がいった。
 それで聴くとはなしに聴いていたところ、ちょっとなに言ってるかわからないのだけれども、なるほどと思うところもあって、どういうところかというと、昔から人間には、もしかしたら自分は先祖とかそういう人がムチャクチャしんどい目に遭った、その犠牲があったから生きているのではないか、と思う後ろめたい気持ちがあって、それを情けない奴らがうまいこと利用したために人間がムチャクチャになった、みたいなことで、そこから先は話が複雑化したのと追い越し車線をノロノロ走る車にむかついて喚き散らしたのとでよくわからなかったのだけれども、そこのところは、そういやそうだよな、と思った。
 それで東名に入って川崎あたりで思うのは、そうして後ろめたいと思う気持ちが、自分が思うことのかなりの部分をカバーして、本当に思うことが表面上はなかったことになって、でも本当に思うことは思うことなので、本人や周りが矛盾に苦しむ、ということは普通に毎日、一日に六回以上起こっているなあ、ということだった。
 など考えるのはそう、『劇場』を読んだからで、ここではいろんな、そのようにしてカバーされ、直視しないで済む思いや考えが、文章によって覆いを外され、矛盾が明らかになる。ひとつを挙げるなれば例えば、それを愛情という言葉で覆っているが、実際には、一緒に居ることによって相手の精神と肉体を滅してしまうことがわかっていても離れられない、という気持ち、が描かれてある。
 通常は、でもそう思うと後ろめたいので、そこに運命とか、社会の掟とか、簡易スピ(リチュアル)とかを導入して、自分は後ろめたさの感覚を自覚して、それがわからぬほど無神経な人間でないと思いつつ、その後ろめたさに自滅しないで済むところに落とし込み、精神の安定を図りつつ、自分の情けなさを忘れる、という術が用いられる。しかしまあ、ときに気持ちがざわつくのは、それがたとえ高級ブランドであれ百均のものであれ、所詮はカバーに過ぎぬからであろう。
 しかるにここでは、そうしたカバーを外して、愛情の中に潜む利己的な気持ちや嫉妬心を剔抉、腑分けして、ざわつき、といった曖昧なものではなく、クリアーな形にしているのである。
 というとなにか露悪的なように聞こえるが、そうではなくして、そのようにして初めて、一般的な「理解」すなわち、安易でちゃちで情けない奴が自分の得や安心のために拵えた粗雑な見取り図の中に矮小化して位置づけるのではなくして、自分のこととして、その矛盾や葛藤に向き合うことができて、それがいまの、いろんなことがあった後の文学の役割だろうと思うからである。
 という訳でときに読むのが苦しかった『劇場』を読み終えて、とはいうものの日常に帰らぬ訳には参らぬから車に乗り込んだのだけれども、それはそれ、これはこれ、という訳にも、やはり参らない、なんとなればひとつのモデルでなく、写しでなく、もうひとつの現実だからという訳で、三軒茶屋でざわついた気持ちのカバーを外したら目の前に富士山。すんでのところで事故は免れたが死んでも仕方なかったのかも知れない、と思うような切迫した自分の気持ちがこの小説にあった。

(まちだ・こう 作家)
波 2017年6月号より
単行本刊行時掲載

未熟な者だけに許された

西加奈子

 一気に読み進めたいのだけど、実際読む手は止まらないのだけど、苦しくて苦しくて、どうしても一度伏せてしまう作品がある。そんな作品に出逢うのは稀で、だからしばらく動悸が止まらないし、読み終わった後もその世界にずっと引きずられる。『劇場』はまさにそういう作品だった。
 主人公の永田は「おろか」という劇団を主宰している若い男だ。主宰しているといっても劇団はちっとも評価されず、わずかにいた劇団員ともぶつかり、結果永田の中学・高校の同級生であり理解者でもある野原を除いて、彼らに去られてしまう。
 永田という男を一言で表すのは難しい。考えすぎるところがあり、いつも憂鬱で悲観的、悲しくなるほどに純粋で、とにかく複雑である(でも、人間は常に複雑なものなのではないだろうか。特に若い人間は。彼らは自身の複雑さをもてあましたまま生きている)。
 永田はある日沙希という女性に会う。沙希と会った瞬間、永田は自分でも理解出来ないおかしなことを口走り、必死で彼女に接触する。「声をかける」というような軽やかなことでは決してない。生き延びるため、ほとんど命がけで彼女を求めているように思う。
「この人を生まれた時から知っていて、間近で人生を見守ってきたことと等価の感覚をこの瞬間に得たのだ。」
 それは永田にとってまさしく運命が変わる瞬間だったのであり、沙希にとってもそうだった。沙希ははじめ永田をこわがりながら、やがて笑いかける。
 沙希は優しい。永田と暮らし始めた彼女は、とにかく永田の才能を認め、永田の存在を認め、ほとんどすべてを受け入れる。このうえなく感謝し、愛しつつも、同時に永田は彼女のその純粋さ、底なしの優しさにおののく。それゆえ、永田の愛は鋭角なものになり、永田の心を理解出来ない沙希を傷つけることになる。
 恋愛小説と呼ばれるだろう。確かにこれは、若いふたりのつたなくもどかしい恋の話でもある。でも、もちろんそれだけではない。これは、演劇という表現形態との戦いの物語でもあるのだ。
 作中、「まだ死んでないよ」という劇団が登場する。野原に誘われその公演を見に行った永田はこう思う。
「作・演出を手掛ける小峰という男が自分と同じ年齢だと知り、不純物が一切混ざっていない純粋な嫉妬というものを感じた。彼を認めるということは、彼を賞賛する誰かを認めることでもあって、その誰かとは、僕が懸命にその存在を否定してきた連中でもあった。」
 さらに「おろか」の元劇団員でもある青山は小峰を天才として認めており、抗いつつも永田は「強引に小峰を見上げさせ」られるようになる。
「たとえみっともなくても、余裕など捨てて、小峰よりも時間を掛けて、演劇に喰らいつかなければならない。」
 永田の闘いは壮絶だ。そんな壮絶な戦火の渦中にあるがゆえに、彼の鋭角の愛はますます沙希を傷つけることになる。そして沙希は少しずつ壊れてゆく。
 どうしてこんなに下手くそにしか生きられないのか。
 それは冒頭で書いた彼の悲しいほどの純粋さからきている。人が避けて通れる場所に頭から突っ込み、人が軽くいなせる思考をとことんまで突き詰め、与えられた武器を拒否し、まるごしで闘おうとする。何も言い訳せず、真向から演劇に向き合い、完膚なきまでに叩きのめされ、それでも食らいつく。それは同時に彼の人間としての品であるように思うし、そのままこの作品の品でもあると思う。この作品は、安易な精神の逃亡を許さない。
 だから私は苦しくなったのだ。
 永田の欠点を数え上げればキリがない、沙希にだって言いたいことは山ほどある。きっとこういうふたりは、時代から取り残されてゆくだろう。でも、彼らの純粋さ、年月という残酷な理に顔面を強打され、それでも生きてゆく姿勢は、私たちが簡単に手放してしまったものだ。手放し、そしてなかったことにして、器用に社会に迎合してきてしまった「大人」の私たちに、彼らを笑う資格などないし、批判する資格もない。
 未熟な人間にだけ許された醜さ、美しさ。
 かいぶつみたいな作品だった。かいぶつの内臓を見せられているような気がした。こうやって書いている今も、私は『劇場』から逃れられないでいる。

(にし・かなこ 作家)
波 2017年6月号より
単行本刊行時掲載

インタビュー/対談/エッセイ

岸 政彦×又吉直樹/会話から生まれる想像力

岸政彦又吉直樹

前篇はこちらから

前号に引き続き、社会学者の岸政彦さんと芸人・小説家の又吉直樹さんの対談をお届けします。前篇では表現することの恥ずかしさがテーマになりました。後篇は、小説に取り組む際に形式を壊すことは考えなかったのか、という岸さんの問いを受けた又吉さんのお話から始まります。

又吉 言い訳できないような王道のど真ん中のものが好きなんです。一部の人に認められるものも好きですが、一番は、自分の作品で批評している人も食わしてるやつ。

 ああ、業界全体をね。

又吉 誰かに文句を言われるとかわいそうに思われたり、守られなければいけない存在には、究極のあこがれはなくて、弱いな、途中やんて思います。

 僕も、好きな映画監督はスピルバーグ、好きな画家はピカソやし。

又吉 僕もピカソ大好きですし、取材でも好きな映画は「バック・トゥ・ザ・フューチャー」と「スタンド・バイ・ミー」って答えてます。

 そういう矛盾したものが又吉さんの中にあるんだろうなって、『劇場』を読んで思いました。永田君のような再帰的で分析的な感覚はたしかに又吉さんの中にあるんだけど、それを真っ当に文学ど真ん中の形式で書いてあるのが面白い。ラストもすごくよくて、王道の恋愛小説ですよね。だから、これを書いているときは、又吉さんはポジションのことを忘れているんだろうなって思わされました。それも含めてのテクニックかもしれませんが。

又吉 変わった表現のものも、作っている人がこれしかないと思って信じているなら、グッとくるんですよね。そういうものを、なに斜に構えとんねんって考えるのも好きじゃないし、信じたものをちゃんとやっていることが好きっていう。

 それは何が違うんですかね。

又吉 狙ってやってる人は、ちゃんと言い訳しますよね。みっともなさをちゃんと出す。

 だから表現って恥ずかしいんですかね。最初の小説の「ビニール傘」を書くときに、技巧に走ったところがあって、それはそう書きたかったからなんですが、時間軸や人称をごちゃごちゃにしたのは、やっぱり照れがあったんです。登場人物に名前をつけることと、セリフをカギカッコでくくること、この二つができなかったから、小説らしい小説になりませんでした。社会学で二十年以上、いろんな仕事をやってきて、今さら小説書くのって胡散臭いでしょ。調査で聞いたことを使いまわしてるんじゃないかとか言われたり。

又吉 十八で吉本の養成所に入ったんですが、まず大きな声を出すことが恥ずかしかったんです。聞こえるくらいの声でいいのになって。

 吉本の芸人さんって声張りますよね。

又吉 もう一つ、例えば女性役の時に、女性っぽい言葉で話すのが恥ずかしかった。セリフをカギカッコに入れられない、というのに似ているんですが、だから、本を朗読するように話をしていました。

 めちゃめちゃ現代アートですよ、前衛っぽい。

又吉 でも、いざ舞台で僕が話しても、全然お客さんにウケない(笑)。

 そもそも伝わらないでしょう。

又吉 それで、もう少し声出したほうがええかなって思ってやると、ウケるんですよ。登場人物に似せてやったほうが伝わる。そもそも、なんで人前で話しているのかって、笑かすためなんですよね。だからなに自分の主義主張が勝ってんねんって思って、少しずつ探っていきました。

 やりながら形式を取り戻していく感じですね。

又吉 結局これで合うてたんや、って。

 セリフにカギカッコつけないままだと、三人以上での会話になると誰が話してるかわからなくなる。だから「図書室」で初めてカギカッコでくくりました。その時、近代小説の形式って意味があるんだって思った。形式的なものの強さってありますね。

又吉 芸人が小説を書く場合、おしゃれさを求めるなら、最初は芸人の話にはしませんよね。でも、だからそれをやらないと考える、自分のあざとさが嫌いなんです(笑)。だからやる、これしかないやんというのをやっていく。

 面倒くさいなあ(笑)。でも、やっぱり矛盾したものが同居しているんですね。王道を目指すところと、批評的で分析的なところが又吉さんの中にある。だからこれだけの表現ができているんだなって思います。

又吉 ただ、それが自分の日常をいい風にしてくれているかというと、わかんないですけど。

 しんどいやろうなと思います。

又吉 人の話を聞きすぎるから。

 ずっと覚えているタイプですか。

又吉 いつまで覚えとんねんってよく言われます。「俺が十九の時、あいつは……」とか(笑)。

 そこは違うなあ。僕はぜんぶ忘れる。

男のダメさがよく書かれている

 『劇場』って、ダメな男の子の話でもありますね。経済的にも女性に頼ってて。僕がいま考えてる次の小説って、ジャズミュージシャンの話なんです。そこそこのミュージシャンの男が女の子と出会って……って『劇場』そのまんまなんですが(笑)。

又吉 昔からある、普遍的なものですから。

 永田君が劣等感から相手を傷つけてしまうという場面がよく出てきますが、決定的にダメだなと思ったのが、青山にキレる場面で、それがまたうまい。永田と沙希の関係が、僕らの基準で言えばDVに近いような状況になってくるなかで、青山が介入してくる。もう別れたらって沙希に言う。そこに永田がキレて、長文のメールを何通も送るのがすごくキモくて(笑)。でもこれが男の本質なんだと思う。同じく相談に乗ってる、沙希のバイト先の店長の男には怒りをぶつけないですから。だから結局、永田は女に甘えてるんですよ。自分の彼女に劣等感をぶつけて機嫌悪くなったり。男って機嫌悪くなって黙るでしょ(笑)。

又吉 かと思うと、自分に不都合があるとめっちゃしゃべったり。

 男のダメさが本当によく書かれていると思いました。ちなみに青山への逆ギレのメールを書いているときは、どんな気持ちだったんですか。

又吉 書いてるときは、永田になりきっていますね。でも一方、青山の返事を書いているときは、青山になりきって、こいつ最低やなって思いながら書いていました。平等に。それで、シーンを書き終えて読み直してみて、自分で笑いました(笑)。

同じ幻想を共有できる気持ちよさ

又吉 「図書室」では、少年と少女の会話を、自分の人生とも照らし合わせて、補足しながら読めました。女の子の発言に対して男の子がすぐに突っ込んだら、女の子が「なんで一回乗らへんねん」って言うんですが、それが後の展開の入り口になってますよね。二人で乗って、同じ世界を共有する。日常からその世界に入るところに不自然さがないですね。

 「図書室」では会話のシーンを評価してもらうことが多いんですが、プロットも何も考えずに、一気に書きました。モデルは何人かいて、そのうちの一人は同い年のいとこの女の子で、十歳くらいまでずっと一緒にいて、もう一人の自分みたいな存在で。その子との会話を思い出しながら書きました。脳と脳が直接つながっているような状態を書きたかったんです。

又吉 子どものころにサッカーをやってると、自分の好きな選手になりたがる。たとえばマラドーナになるとか。それは役を演じているんじゃなくて、当時の世界的なスター同士で本当に対戦している。そんな同じ幻想を共有できる気持ちよさを、読んでいて感じました。

 子ども同士の会話の、どこに進んでいるかわからない感覚と、淀川の河川敷にある小屋に入ったときの、この先どこにたどり着くのかわからない感覚をシンクロさせようと思いました。

又吉 架空の話をしているのに、本当に悲しくなって、もとに戻れるはずなのに二人のルールでは戻れなくて、泣いちゃうじゃないですか。あれ、むちゃくちゃかわいいですね。

 小学校のころに親友と一緒に、お話を作っていたことを最近思い出したんです。お互い交代で、内容がやはり世界が滅亡した後の話で。今日は俺の番なとか言って、続きを考える。

又吉 僕も作ってました。

 どんな話ですか。

又吉 神社がつぶれるのを止めるという(笑)。難波君という友達と一緒に考えるんです、その神社の土地が悪い奴に買い占められようとしていて……。

 めちゃくちゃ現実的やな(笑)。でもそういう会話の相手って、どこかで別れますね。そのいとこの子とも、次第に会わなくなって、もう三十年くらい会ってない。あと犬や猫が好きで、本当に分かり合えるのは犬や猫だけやなって思うんですが、彼らは途中で死ぬでしょう。だから、はかなさ、切なさが残ります。僕の小説って寂しいってばっかり言ってるんですけど。

又吉 そのはかなさが描かれるからこそ、世界の終わりに対する二人の準備や想像が際立ちますよね。

 世界が滅びることが怖いんじゃなくて、二人がいずれ別れなきゃいけないことが寂しい。それは書いてみて思いました。

又吉 その会話の中で、二人が互いを拒絶しませんよね。普通ならもう少し立ち止まって議論するじゃないですか。当たり前のように話を進めているのがいいです。

 「図書室」では、切実なものを描きたいと思って、あの会話は、会議なんです。ただ冗談を言い合っているんじゃなく、問題を解決しようと真剣に討議して、そういうときに会話って噛み合うでしょ。共通の課題があるほうが盛り上がる。そして同時に、批評的かつ再帰的な眼差しを持たない。「滅びるわけないやん」とは誰も言わない。だからロマンチックで、ありえない設定ですけど、楽しく書きました。

又吉 大人になっても、なにかきっかけがあれば、あのモードに入れるんじゃないかって思います。二十代のころ、仕事がなくて後輩とずっと喫茶店に座ってて、外を通る人を窓から見ながら、ふと「今から通る奴の魂吸うわ」って言ったんです。ストローで吸うような音出して。後輩は「なにやってんすか」って言ってたのが、「お前もやってみ」ってやり続けてたら、そいつもやりはじめた(笑)。最初は嘘だったのが次第にはまって、二人の間では本当になってきて、しまいには気抜いてるときに後輩に向かってシュゥッてやったら、「やめろよ!」って本気でキレられた(笑)。

 僕も、二十歳くらいのころ「あなたは私とやりたくなる銃」というのをやってました。大阪の大学に入って、ミナミで毎晩飲んでいたんですが、夜中に酔っぱらって、街を歩いてる女の子をビニール傘で撃つマネをするんです。撃たれた子は自分とやりたくなるという設定で。

又吉 むちゃくちゃアホですね(笑)。

 でも効果はなくて、毎回「効果なし!」と言う(笑)。それを連発した奴がいて、めっちゃ撃ちまくってる。「それずるいやん。一人一発やろ」となる。

又吉 もともとなかったルールなのに。

 機関銃というカテゴリーが新しく生まれて、緊急会議が開かれたりしました。「週末はいいことにしよう」。ちなみに、吸われた相手はどうなるんですか。

又吉 ちょっとだけ魂が減ってしまう(笑)。

 もらうとちょっとだけ寿命が延びる(笑)。似たようなことやってますね。

又吉 『図書室』に併録されている「給水塔」というエッセイも面白かったです。あそこで書かれていた友達と飲んでいたんですか。

 そうですね。今でも飲んでます。

又吉 あれも面白かったです。エッセイとなっていますが、小説みたいに読めました。

 実は、「給水塔」は五年くらい前に書いたんです。まだぜんぜん無名だったんですが、あるところから大阪についてのエッセイを頼まれて、それで書いていたら、「あ、これ小説も書けるんちゃう」と思った。だから、実際に小説を書くきっかけになりました。

又吉 「図書室」でも「給水塔」でも、完全な時間のようなものが急に出てくるのがすごくよかったです。一つずつ積んでいくんじゃなくて、突然出てくる。

 無意味にフィジカルに肯定される瞬間が好きで、僕が沖縄にはまったのは、それを沖縄の海で得たんですね。自分の身体を取り戻していくような。『図書室』の書評で何人かの方が触れてくださったのが、言語以前のことが書かれているということで、それは僕が犬や猫を好きだということからも来るのでしょうが、言語以前の実在のレベルで肯定されることが、僕の人生では大事なんです。だから、生活史という、人の人生を言葉で残していくことを仕事にしていますが、言葉以前の世界に対するあこがれがある。ですから、そこを読んでくださったのはすごくうれしいです。

又吉 僕も、言葉はめっちゃ好きですけど、どれだけ言葉を尽くすより、恥ずかしくなるくらいシンプルな「大好き!」のほうが圧倒的に強いことってありますよね(笑)。

 永田が沙希のコメントにいちいちこだわりますね。「アホのサンプルみたいな発言やで」とか。ああいうとここだわっちゃうの、僕もやりがちなんですが、でもそうじゃなくて、存在を肯定されるのって大切ですよ。自分のどこが好きって答えが「優しい」だと、相手に優しくしなきゃいけないじゃないですか。でも「顔が好き」ってそれだけ肯定度が深い。それもまたベタな話ですが。ちなみに、又吉さんって僕めっちゃタイプなんですよ。

又吉 えっ。

 又吉さんとは六月末に沖縄のテレビ番組で初めてご一緒させていただいたのですが、あの後、連れあいに「ええ男やったわあ」とずっと言ってました。こんなにセクシーな人はいない。

又吉 ありがとうございます(笑)。

 小さな声でぼそぼそっと面白いことを言う人に弱いんですよ。僕が量でねじふせるタイプだから。今は又吉さんとiPS細胞の山中先生が二大タイプです(笑)。

(9月5日、於・神楽坂 la kagu
 (きし・まさひこ 社会学者)
 (またよし・なおき 芸人・作家)
波 2019年11月号より

岸 政彦×又吉直樹 対談・前編/表現するって恥ずかしい

岸政彦又吉直樹

沖縄や生活史が専門の社会学者であり、最近は小説も好評を博する岸政彦さんと、芸人としての活動はもちろん、小説家としても『火花』『劇場』と話題作を刊行してきた又吉直樹さん。神楽坂la kaguで行われたお二人の対談を二号にわたりお届けします。

 『劇場』が文庫になりましたが、映画化も決まったんですね。

又吉 山崎賢人さんと松岡茉優さんが出演して、来年公開の予定です。

 原作者としてカメオ出演とかなさるんですか。

又吉 いえ、まったくお声がかからなかったです(笑)。僕が出ても邪魔になるでしょうし。

 『劇場』、読ませていただいて最初におっと思ったのが、飲み会で主人公の永田がほかの劇団員ともめる場面で、劇団員の辻という男の描写があって、〈地味な男だったが、特徴のある高い声をしていて、どうしようもなく目立つ時があり、よく芝居の邪魔になった〉。こういうテクニカルな描写が僕はすごく好きなんです。プロの芸人さんとしてコントや漫才を作ってこられて、こういう風に人を見ているんだって思いました。批評的な視点が随所にある。だから今日は緊張しています。僕もそうやって見られてるんだろうなって。

又吉 (笑)そんな風には見ないですよ。

 「声でかくて発言量多いけど、一つ一つはあまり面白くない」とか(笑)。量でねじ伏せるタイプなんです(笑)。

又吉 人前に出てコントとかやっていると、僕を知ってくれているお客さんの前だと、例えば野球少年の格好をしていても「あ、又吉が演じているんだ」って理解してくれるんですが、昔まだテレビとか出てなくて知られていない頃にそのネタをやったら、前列のお客さんが「えっ……」と言った(笑)。なんかおっさんが少年の格好して出てきたって思われてしまって。次第に、ああこれは演じているんだって思ってくれましたが。最初に言った「邪魔」っていうのはそういうことです。

 コンテクストを共有していない時って、キャラというか、声の高低のような物理的なパラメーターがもろに出ちゃいますよね。以前、上野千鶴子さんとトークイベントをやったのですが、ウェブで「デイリーポータルZ」というサイトの編集長をやっている知人の林雄司さんが来てくれて、リアルな鳩の頭のマスクを二つお土産にくれました。アメリカで売ってる全然可愛くないやつ。それを楽屋で見た上野さんが「被って出ましょうよ」。

又吉 (笑)

 絶対あかん、大怪我しますよって僕は止めたんですが、上野さんは「東京の客なんかちょろいわよ」って……でもトークのテーマは社会学にまつわる真面目なもので、お客もそれを期待して来ているわけです。上野さんが登壇するんだし。そこに、一切説明抜きに、二人でマスクを被って、僕が上野千鶴子の手を引いて舞台袖から出てきたんですが、人生で一番スベりました。

又吉 お客さんも、どう受け取ったらいいのか分からないだろうし。本物の社会学が始まったのかな、みたいな(笑)。

 あれはマイノリティの象徴なんじゃないか(笑)。

又吉 それは回収しなかったんですか。こんなにスベるとは思いませんでした! とか。

 もうそれも無理で、だからすごく真面目な話から入りました。「社会学って何なんでしょうね」とか(笑)。最後まで説明せずに終わった。

又吉 むちゃくちゃ怖いじゃないですか。もう、毎回被って押し通すしかないですよね。

 これが社会学なんやで、って。

悔しいから明晰になる

 主人公・永田の恋人の沙希が一回だけ、永田が書いた芝居に出ます。その場面で、なぜ沙希に出てもらったかについて、複雑な感情を複雑なまま出してる子やからって書かれていましたね。

又吉 人の顔を見るのが好きなんですが、あまりにも発言と表情が一致してると、作為的なものを感じて怖くなる。この人、役者やなって。逆に、「面白いですね」って言ってるのに全然笑ってないとか、そういうのが好きで。いろんな感情が混ざっている人のほうが、こちらの思っていることを伝えられる、託せる気がします。

岸政彦さん 芸人さんとして活躍されて、小説もこれだけ評価されている方ですから当たり前ですけど、よく見ていらっしゃるなって思います。
『劇場』に演出家の小峰という、永田のライバルというか、同い年で認められている人物が出てきます。永田は小峰の芝居を見て打ちのめされるんですが、「ここで諦めたら楽だ」と思うんです。「だから適切に傷ついて帰ろう」と。これすごくいいですね。そして小峰のインタビューがある雑誌に載っているのを見つける、その場面がまたリアルで、めっちゃわかる。最初にバーッと流し読みするんです。字面だけ拾って、ああ、大したこと言ってないなって安心するんですが、でも後からめっちゃ読む(笑)。ああいう経験は実際にあったんですか。

又吉 若いころは、同業者や同世代の活躍は直視できませんでしたね。

 ものすごく悔しいのに、だからこそ明晰に、過剰に分析的に読んでいる。永田もインタビューの受け答えをいちいち批評していて、この答え方うまいなとか、こう返すと批判しにくくなるな、そして最後にちょっと実存的なこと入れてきたな、とか……。

又吉 面倒くさい主人公ですね(笑)。

 又吉さんの小説に出てくる人物って、永田をはじめ、みんな分析の射程が長いですよね。単に朗らかだったり暗かったりするんじゃなくて、分析が何周も回ってる。これは又吉さん自身を反映しているんですか。

又吉 視点や感じ方は、若いころの僕に近いですね。

 今の自分とは違う?

又吉 今は変わってきていると思います。

 まあ、今ど真ん中だったら書けませんし。

又吉 昔は、例えば居酒屋で、一人の女の子ばかりしゃべってて、別の女の子が疎外感を抱いているだろうから、そっちに話振らないと、みたいなことを考えながら、その話し続けてた子が話し終わったときの表情とかよく見ていました。

 意地悪やなあ(笑)。

又吉 話し終わった余韻に浸っているのか、別の子の話に協力してあげようと思っているのか……その時は、その子、メニュー見てた。

 (笑)もう離れちゃってるんだ。

又吉 それで、僕はその子に「普段どういう人と遊んでるんですか」って聞いたんです。子供のころの友達少なめやろなって思ったんで。そしたら、地元の友達とはあまり遊ばないって答えで(笑)。

 プロファイリングを常にしている。

又吉 そういうことを常に気にしている時期がありました。

勝つにはドラマがないと

 永田が鍵を使った芝居を作りますね。あの場面もすごくよかった。観客を舞台に上げて、その人が使っている鍵を受け取った役者が、イメージをふくらませて話を作るという内容なんですが、これが見事にスベる。その記述の容赦のなさがすごかった。僕らは人前に出るといっても授業やこうしたイベントですから、見に来る人も好意的ですが、舞台でコントをするときとかは「お手並み拝見」みたいな人も多いですよね。

又吉 明らかにアウェイやなってことは、若いころはありました。

 そういう中で表現をしていると、否が応にも再帰的な、リフレクシブな眼差しに、自分自身がなる。あと、永田の劇団にいた青山という女性が小説を書くんですが、この内容やタイトルがちょっと変わっているというか、イキッた感じで、それに対して永田が「これが許されるのはめちゃくちゃ売れる人だけだよね」って言ってて、意地悪やなあと(笑)。

又吉直樹さん又吉 僕じゃないですからね。そこまで意地悪じゃない(笑)。

 あのダメ出しの容赦のなさがよかったです。僕も本業の社会学ではポジションを気にしますけどね。学問ってポジションをどこにとるかで論文を書かなくちゃいけない。

又吉 大会とか出ると、ポジション気にします。どこで負けたらいいかとか。

 優勝したらダメなキャラだってご自身でも思ってるんですか。

又吉 段階を経てドラマを作って、「次、こいつが優勝しそうやな」って思わせてから優勝だと思うんです。だから自分は自然なところで負けようと思うんですが、意識すると、それより手前で負けてしまう。それこそ一回戦で負ける(笑)。子どものころからそうでした。

 めんどくさい子どもやなあ(笑)。でもちょっとは勝ちたいという気持ちもあるんですか。僕は子どものころから勝負を降りちゃうんです。体育、特に球技が全然できなくて、ドッジボールでは自分から当たりに行ってました。

又吉 めっちゃ想像できますね(笑)。僕にも勝ちたい気持ちはあって、そういう時はエゴイストになります。

 今日は俺の日だって感じですか。そういう記述が『劇場』にもありましたね。小峰の舞台を見た後に「今日は俺の夜じゃない」というような言葉が。

恥ずかしさを逆ギレで克服

 「鍵」の芝居で、舞台上でのインタラクションがうまくいかなくて、役者がみんな我に返ってしまうでしょう。前日のリハーサルがうまく行っていただけに、よけい白けて、崩壊していく。先ほどからお話ししている分析的になるって、没頭しないことじゃないですか。それは表現する上では邪魔になりませんか。

又吉 そこからどうやって、恥ずかしいという感覚の外に出られるのか、ということだろうと。

 表現って恥ずかしいですよね。

又吉 ギャグなんてめちゃくちゃ恥ずかしいですよ。でも、そういう職業やから、逃げられない。

 出番も迫ってきますし。

又吉 それに、だれも照れてないんですよ。芸人がギャグやるのって当たり前やし。でも、例えば舞台上で、女性の体のどこに惹かれるかって話になったとき、僕だけすごく恥ずかしいんです。おっぱいとか、お尻とか、言うのがすごく恥ずかしい。だから、「うなじ」にしておこうかなって思ったりするんですが。

 わかる(笑)。ちょっと気取ってる感じがする。

又吉 「手のひら」とか言っても「そういうのいらんって」となって、もうおっぱいかお尻かどっちか選ぶしかないってことになる。それをみんな普通に言ってるんですが、僕はむちゃくちゃ抵抗があるんです。その場に八人くらいいて、僕は主役じゃない四番目くらいだから、パーツにならなあかんから、普通に言えばいいだけやのに、ずらしたらあかん、分かりやすく当たり前のように提示しなきゃあかんって思ったときに、自分、邪魔くさいなって思いますね。

 ずらしてるときに、そのことがばれると、ものすごくいやらしくなりますよね。メタメッセージまで考え出すと、何も言えなくなる。僕は音楽も好きでベースをやっていますが、劣等感が強すぎて、弾いているときに、格好つけられなくなるんです。自分のベースに没頭できなくなって、音程とか気になってしまう。だから、ジャズミュージシャンの綾戸智恵さんには「岸君は音楽ムリやな、音楽好きすぎるねん」って言われました。

又吉 なるほど。

 小説を書き始めるときは、そういう恥ずかしさはなかったですか。

又吉 最初は「なんで自分が」という思いがありました。でもいくつかきっかけがあって、恥ずかしさについては、考えすぎてきたらムカついてくるんですよ。なんでここまで考えなあかんねん、という。

 (笑)ひとり逆ギレみたいな。

又吉 おもろかろうがどうだろうが、書きたいから書くという以外に理由はないなって。

 僕もそう思います。でもその理屈って自己満足の時と同じで、商業的に世に出る作品を書く場合には、逆ギレだけじゃないだろうとも思うんです。永田君が企画する演劇のアイディアは、いかにも現代アートにあるようなリアルな内容で、コンセプチュアルですよね。これまでの演劇を壊してやろうというような。でも一方、それを書いている又吉さん自身は、きわめてオーソドックスな小説の形式を守っていて、それがすごく面白いと思います。これぞ小説、ザ・文学、という感じじゃないですか。小説の形式を壊してやろうとは思わなかったんですか。

又吉 たぶん何周もしていると思うんですけど、僕、すごくベタなんです。芸人にも誤解されていると思うんですが。好きなサッカー選手はマラドーナで、作家なら太宰芥川漱石とか。変わった小説も勧められて読んだら面白いし好きなんですけどね。そんなに批評的でもないと思っていて、カレーライス好きですし。

 (笑)カレーライス、うまいですよね。

次号後篇に続く
(9月5日、於・神楽坂 la kagu
 (きし・まさひこ 社会学者)
 (またよし・なおき 芸人・作家)
波 2019年10月号より

尽くす女、嫉妬する男

壇蜜又吉直樹

同い年の才能が語り合った、人間関係のいちばん柔らかな場所――

壇蜜 又吉さんの新作『劇場』は、小さな劇団の主宰者の永田が、服飾の学校に通っている沙希と出会って……という恋愛小説ですが、男女の会話やメールがヒリヒリして息が詰まるようでした。又吉さんご自身も、男女の間に限らずとも、ああいう拗らせたようなメールなどのやり取りはよくなさるんですか?

又吉 あそこまでのはないですかね……いや、あるか? あるかもしれないです(笑)。

壇蜜 それはどなたと?

又吉 小説みたいな恋愛とかではなくて、ずっと僕に絡み続けて来る人でも割と無視しないんですよ。

壇蜜 返事を返すんですね。相手にするというか。

又吉 対応しちゃうんです。早めに撤退した方が楽なんですけどね。壇蜜さんは人間関係であまり揉めなさそうですね。

壇蜜 揉めない方だと思います。

又吉 シンドイですもんね。

壇蜜 シンドイし、覚えていられないんですよ、いろんなことを。直接会って喋るのでも電話でも、長いこと文句か何かを言われているうちに、「あれ、この人、最初何て言ってたっけ」とか思い始めて、ポカーンとしているうちに、相手がさらに逆上していく、という悪循環です。

又吉 壇蜜さんから怒ったりはしない?

壇蜜 私は怒りが持続しないんですね。というか、体力がもたない(笑)。でも、ケンカするほど仲がいいって言いますけど、個人的には、ケンカする人とは大抵うまくいきません。

又吉 僕もそう思いますね。中学時代から今までずっと仲がいい友達がいますけど、一回もケンカしたことないです。

壇蜜 やっぱり。気が済むまでケンカして、それで仲直りしてうまくやっていける人たちもいますけど、誰もがケンカするほど仲がいいとは限らない。「そこ、個人差があるからね」って言うと、また怒られるんです(笑)。「今はケンカしてても、僕たちは分かり合えるはずだから」。だから、「だって今、ケンカしてるのは分かり合えてないからじゃないの」と。

又吉 それ、口に出して言っちゃうんですか?

壇蜜 はい。

又吉 向こうは粘ってきませんか(笑)。

壇蜜 粘ってきます。「それは君の本心じゃないだろう」とか言うので、「本心なんかないよ。私は玉ねぎと一緒だから」と(笑)。

又吉 剥いても剥いてもずっと玉ねぎだぞって(笑)。それ、すごく分ります。

壇蜜 人間関係の上だけでなく、なぜテレビでも、すぐ本心とか本音とかを言わそうとするんでしょうね。よく言われませんか、「素の又吉さんを」なんて?

又吉 僕、よく言われる方かもしれません。「まだ知られていない又吉さんを」とか……。

壇蜜 そのうち副都心線あたりの中吊り広告で見そうですね。「まだ知られてなかった素顔の又吉直樹さん!」とか(笑)。

又吉 そういう質問されると、僕はいつも、「何で今まで隠してきたことを、ここであなたに言う可能性があると思えるの?」って思う(笑)。

壇蜜 三十ウン年、隠し通してきたことを(笑)。

又吉 隠すのには理由があるわけでしょう? 「これを言ったら生きづらくなる」とか「誰かを傷つける可能性があるな」とか思って、言わないわけですよね。「それを何で、今あなたの前で出すねん」と思う時はあります。でも、向こうの気持ちも分るというか、お互いさまというか、僕らも出始めの頃は「実はこんなんですよ」というトピックを必死で出していたんですよね。コンビでやっているから、相方の綾部は熟女好きとか、僕は本が好きだとか。

壇蜜 何かマスコミで取り上げられやすいポイントですよね。

又吉 はい。それを取材で聞かれたり、アンケートで答えたりして、一周回ったら、「本以外で何か」ってなるんですよ。ほな、「喫茶店、好き」とか「散歩、好き」とか答えて。三周目にもなると、「本とサッカーとファッションとコーヒーと散歩は分ったので、他に趣味、何がありますか?」。そんなにないでしょう(笑)。

壇蜜 たくさん過ぎると、もう趣味じゃない(笑)。

又吉 僕、趣味はわりと多い方やと思うんですよ。でも、「何か新しいことを」とか「このひと月で何かハマってることは」とか、そんな聞かれ方をします。僕はそれにできるだけ答えるようにはしているんですが、無理やり、興味ないものをあるって言ったり、何かに詳しいふりしたりするのは辛いですよね。壇蜜さんは、新しいものを吸収していこうというタイプではないんですか?

壇蜜 ええ。さっきのお話じゃないですが、デビュー当時に「いかに取り上げられるか」と世間に出したものに、今は苦しめられているような状態です。

又吉 そういうことってありますねえ。

壇蜜 調理師免許を持っていることを割と言ってきたので、「料理はお得意なんですよね」って。「いやいや、クックパッドがなければ何もできないんです」(笑)。私はタレントになって七年目ですが、今は広げて見せていたものをちょっとずつ回収する作業をしています。かつては、やたら「かつら剥き」をするキャラクターだった時期もありました(笑)。

又吉 やってましたね。僕も……あれ、壁に打つテニスみたいの、何でした?

壇蜜 スカッシュ?

又吉 「最近はスカッシュをやりたいと思ってて」って言ったことがあります。スカッシュって単語ももう出ないのに(笑)。あの時は、自分でも「そんなはずないやろ。大丈夫ですか、これ」と思いながらやっていましたね(笑)。

壇蜜 無理やりに外へ出してしまったものって、自分と食べ合わせが悪いパターンが多いですよね。

又吉 実際、スカッシュをやってみたら面白かったし、真剣にやっている人も一杯おるから「オリンピック競技になったらいいのに」と思いますけど、やっぱり継続してはできなかったです。人によっては、「これ、むちゃくちゃ好きなんですよー」とか言って、やってみたら全然できへんで恥かくけど、そこで笑われる潔さを出せる人もいます。でも壇蜜さんとか僕みたいなタイプがそれをやると、見ている人がいたたまれなくなりそうな……(笑)。

壇蜜 きちんと闇に葬り去れるのか、視聴者から心配されるタイプ(笑)。タイプで言えば、タレントやっている以上、自己顕示欲がまるでないわけはないけど、「見て~、私の暮らし」「いいでしょ~、みんなもやろうよ」みたいなテンションにはなれない方です。

「ヘンや」はもういいけど

又吉 『壇蜜歳時記』(大和書房)を読ましてもらったんですけど、あの本に「何でもかんでも面白がればいいってものじゃない」みたいなことが書かれていたのに共感したんですよ。僕は芸人で、常にふざけるとかボケるとかが美徳とされる世界にいますが、僕はわりとマジメな時があるんです。それが周りからすると逆にボケに見えるらしいんです。で、「何でそこ、マジメやねん」と言ってもらえる。でも、何か「今はふざけちゃアカン」という時があると思う方なんです。

壇蜜 けど、それを突っ込んでもらえるからいいですよね。芸人らしさ、と両立できているわけですもんね。

又吉 僕が「普通」と微妙にズレているのかもしれないです。まあ、何が普通か分からないけど……。あ、でも高校時代はちゃんとした普通の高校生でした。中学まではよく「浮いている」とか「ヘンや」とか言われていたのが、高校ではきちんと校則通りに制服着て、挨拶して、誰からも突っ込まれないようになりました。自分では「高校生のコスプレ」をやっている感じでしたけど。

壇蜜 『劇場』の登場人物たちは群れに馴染めずに苦労していましたが、又吉さんは、心は馴染んでないんだけど、表面上のスタイルとか外への出し方を馴染ませられた時期があったんですね。

又吉 そのまま突っ走れる強さがある人はいいと思いますが、そんな自分を俯瞰で見たり、客観的に見てしまう視点を持った人間は、一回は普通に馴染んどかないと、あとで突っ込まれた時、えらい恥ずかしいと思うというか……。まあ学生と違って、芸人は別に普通でなくてもいい職業だとは思いますけど、さっきのマジメな時の話みたいに、僕の中の「普通」でいると、それが「ヘンな自分」を演出しているみたいに思われたりもして――。

壇蜜 一周回っちゃう感じ。又吉さんは普通でいるのに作っていると思われる。

又吉 「ヘンや」とか言われるのは子どもの頃から慣れているから、そこに対する喜びはないねん、って言いたいんですけど……。

壇蜜 もう、「ヘンだね」「へへ、そうかな」は、何十年も前に又吉さんの中では終わってる。

又吉 終わってるし、飽きてるし、そこは端折って次の段階へ行ってほしいけど、初めて会う人とは永遠にそこをやり続けないといけない。そんなことをやっているうちに、また普通とは何か、よく分からなくなってきたりもします。

壇蜜 『劇場』の永田はどうでしょう? 「普通って何?」ということを考えてなさそうな気がします。いや、本当はどうしたらいいか、何となく分かっているけど、そんなふうに振る舞う自分が許せない、のかな。

又吉 永田は、簡単に言ってしまうと、周囲との関係性をうまく築けないんですね。下手くそというか……永田は物事や人間関係を複雑に考え過ぎたりすんねんやろな。

尽くすことを禁じられる方が

壇蜜 おかしな事を言うようですが、永田と沙希は同棲していて、おそらく狭い部屋で一緒にいて、シングルベッドか何かでぎゅうぎゅうになって寝ている感じですよね。でも、セクシャルなことを全く想像できなかったんです。作者が匂わせてもいないだけでなく、読む私も、ここで性描写とかセクシャルなイメージを想像しちゃいけないんだろうなって感じたんです。

又吉 それは……永田自身が嫌がったんですかね。つまり、二人の行為自体をじゃなくて、読者に二人の行為を想像させることが嫌だったというか。

壇蜜 私は「書かれていること以外は想像しなくていいからね」とちょっと拒否されている感じがしたんです。又吉さんも、セクシャルなことを持ち込んだらいけない、と考えられていたんですか? 『火花』の時は、愛情やセクシャルな情感を感じる場面も沢山あったんです。

又吉 永田の視点で書いているので、ヘンな言い方ですが、たぶん永田が書くべきこと以外は書いていないのかもしれません。永田の中の優先順位として――彼の記憶の中の優先順位というか――、性的な体験みたいなものは高くないんでしょうね、きっと。例えば、恋人が屁をこいたから窓を開ける、なんて日常的に起こりうる場面も書いていないことと同じかもしれません。ひょっとしたら、お互い傷つけ合ったとか、理解しようとし合ったけどできなかったとかの方が永田の記憶では重要なのかもしれないです。

壇蜜 永田さんは、家というものを寝る場所とか箱とかしか考えていないのかもしれませんね。一方で、沙希さんは永田さんが家にいないとダメな人じゃないですか。

又吉 そうですね。

壇蜜 二人の居場所に対する考えの違いが印象的でした。理解しようとしているのにスレ違っていって、どんどん息苦しくなっていく感じが圧倒的です。沙希は永田に尽くしたいんだけど……あれは、「尽くす」と呼んでいいんですかね。

又吉 ええ、そのまま見たら、尽くしているように見えますよね。

壇蜜 私も実はけっこう、沙希さんくらいのことはしちゃうんです。生活の面倒を見る人が必要なんだったら、自分がその役をやってもいいや、くらいは思います。だから、沙希が永田に尽くすところまでは自然に読めたのですが、その先がおそらく彼女と私は違ってくるんだと思いました。「この人が好きだ」っていう感情であそこまでひたむきになれるのは、きっと沙希は自分の得意なもの、好きなものがハッキリしているんだろうなと感じたんです。沙希は永田さんが好き、服作りが好き、将来はよくわかんないけど家族が好き、先輩たちが好きっていう、「好き」が多い人なんだろうなと。私は、自分の嫌なところを浄化させたいから相手に尽くしたい、みたいなところがあるんですよ。尽くすことで徳が積めるんじゃないかなと。悪く言えば、尽くす相手を踏み台にして極楽へ行こう、というような。

又吉 ふふふ。確かに、沙希は苦しんでいるけど、それはあの関係性で苦しんでいるんじゃなくて、結局永田を好きだから苦しんでいるんだと思うんです。尽くしたい人は、尽くすこと自体はしんどくない、むしろ尽くすことを禁止される方がつらいって言いますもんね。

壇蜜 私、「僕が何でもやってあげるよ」って人は選べない(笑)。

又吉 僕は永田的なわがままなところもあるし、沙希みたいに「意味わからん」と言われるくらい尽くすところもあるんです。『劇場』は恋愛小説ですけど、僕の場合、お節介なんですかね、恋愛でなくても、男女問わずに、「なんでそんなにやってくれるの」って言われるくらい尽くす時があります。自分でももう目的が分からなくなるくらい尽くすから、相手が引いているのが分かる(笑)。でも、自分はしんどくないんですよ。見て見ないふりをしたり、「家族やないしなあ」って干渉しない方がしんどい。相手と一緒にボロボロになる方が、僕には楽な時があるんですね。でも、相手にとって、それがいいとも限らなくて……。

壇蜜 「あなたが甘やかしたから、結局ダメにしたのよ」みたいに責任転嫁されますね。

又吉 まさに、そう言われたことあります(笑)。

壇蜜 でも、尽くすって、まさに共生ですよね。生きる力を分け与えている。最近、尽くす人って減ったのかな。「尽くしたい気持ちはあるけど、相手がいない」という人は多いんです。それで、「本当に好きな人に出会えてないんです」「本当にじゃない好きな人とは付き合ったの」「そんな不埒なことできません」「不埒なことしないと、本当に好きな人になんか出会えないよ」って言うと、ものすごく嫌な顔されて「そんなこと言うなんて最低!」(笑)。

又吉 そりゃ、付き合ううちにだんだん好きになる場合もあるやろしね(笑)。

嫉妬の解決法は

壇蜜 沙希さんが尽くす女なら、永田さんは嫉妬する男でもありますね。恋愛ではなく仕事面で、芸人さんってやはり嫉妬……しますよね?

又吉 僕は高校卒業して、よしもとの学校(NSC東京校)へ入ったんですが、そこには五百人弱いましたかね。成績優秀者だけがライブに出られたり、選抜クラスに振り分けられたりする中で、みんな嫉妬を感じていたと思います。

壇蜜 芸人さんが己が保てないくらい嫉妬した時は、ひたすら相手の受けているネタを見るしかない、って話を聞いたことがあります。本当ですか?

又吉 それは一例だと思います。僕はデビューしたての頃、嫉妬みたいな感情があったんです。同世代で世の中へ出て評価されている人を見てね。「あれ、自分がああなると思っていたのに、そうじゃなかった。自分はあっち側の人間じゃなかったんだ」と理解して受け入れるまでは嫉妬みたいな感情はありました。だけど、それ以降はあんまりないというか、そんな考え方をしないようになりましたね。ところが、そこに後ろめたさがあるんですよ。つまり、「なんで永田みたいに、全てを直視して、きちんと真っ向から傷ついていかへんねん」という声が僕の中にあるんです。

壇蜜 永田は額の向こう傷とか多そうですもんね。嫉妬するのを分かってても、正面から見ていくから。諦めても、まだ前を見るから。

又吉 僕も逃げるつもりはないけど、ちょっとズラして考えたりするじゃないですか。ハッキリ傷つく前に、「あいつらと自分は違う。じゃあ、何があんねんやろ。とにかく、自分の好きな事やるしかない」みたいな結論になるのが早かったりする。それを永田は全部受けに行くし、周囲にも当然「何逃げてんねん」って厳しくなるし。

壇蜜 永田の劇団の女優だった青山さんはいい餌食になりましたね。彼女は永田を傷つけもするわけですが。

又吉 僕からしたら、青山はわりと正論を言っているんですよ。でも、「そこまで言ったら反感買うよ」と思える発言を繰り返す永田には頑張ってほしいというか、僕は嫌いになれない。自分の周囲を見ても、僕をすごく気持ちよくさせてくれる人より、「なんでわざわざ、ちょっと傷つけてくんねん?」って人の方が友達に多い気がする(笑)。壇蜜さんは仕事面の嫉妬ってありますか?

壇蜜 二十九歳でデビューした当時、「君は土俵が違うから、他の子たちとは比べられないからね」って、DVDの監督やカメラマンからさんざん言われてきたんです。「君は浜辺で走って、バランスボールに乗ってはしゃいだり出来ないから」と。おかげで私は端からいろいろ諦めたので、「どうしてあの子には、あんな仕事があるのに、私だけずっとシャワーホースを体に巻きつけてロデオマシーンに乗らないといけないの」って嫉妬せずにすみました。

又吉 独特なお仕事をされてきましたね(笑)。

壇蜜 最初に「比べられないからね」と頭ごなしに言われたのが、結果として非常に良かったんです。言った人は、きっとヌードのDVDを撮りたいためにコントロールしようと思っていたのでしょうが、私の道が逸れていったので、いい教育だけしてくれて卒業した感じです。

又吉 それはラッキーでしたね。僕が嫉妬していた頃、「比べられないからね」と自分で思えるまで、やっぱり一、二年かかりました。今でも「それ、言い訳ちゃうか」「そう思うてるの、自分だけや」とか考えが揺れる時もありますからね。

壇蜜 本当に幸運だったと思います。毎回、ものすごく「君は勝負するところが違うんだから」とか言われ続けて。だから、コントなのかエロティックなのかよく分からないような撮影も「まぁ、いいか」と出来たんでしょうね。嫉妬は自分を成長させもするけど、ストップもさせますしね。

又吉 嫉妬で立ち止まってしまうマイナス面の方が多いかもしれないですね。最近は、何か言われていますか?

壇蜜 私たち、同い年ですよね(1980年生れ)。そろそろスポーツ選手だと引退する人も多くなってきて……。

又吉 お笑いで活躍している人は、マラドーナと同じ年代の人が何人もいらっしゃるから感覚が麻痺しそうになるけど、自分のことで言うと、体力や集中力がいつまで持つかなと思いますよね。

壇蜜 畑は違いますが、私も「今のままでいけるわけないじゃん」と思っています。すぐに劣化とか衰えとかって言われるだろうし。それでマネージャーに「いつまで出来るか分かりませんよ」って言ったら、「あ、大丈夫。しれっと脱げばいいんだから」と。これは「おお、第三者の意見!」って刺激になりました。

又吉 周囲に恵まれていますね(笑)。

壇蜜 又吉さんは恋愛方面ではあまり嫉妬されませんか?

又吉 昔はしていたけど、だんだん、「そもそも、なんで自分が好かれているっていう前提にしてたんやろ」と思うようになって、嫉妬しなくなりましたね。壇蜜さんは?

壇蜜 心のコスプレとして、わざと嫉妬することはあります。

又吉 三十六、七歳の男って、あんまり嫉妬せえへんのかなあ……。嫉妬しないということは、半身しか乗っていないというか、「まあ、こいつも他所で何してるか分らんし」とかわざと思って、自分が傷つかないように、半分くらいしか己を捧げていないのかもしれないですね。

壇蜜 私、敢えて「前の彼女になんて呼ばれていたの」って訊いて、その呼び名で呼んでいる時もありました。実は『劇場』の主人公と同じ苗字の人でしたが、彼を前の彼女のおかげでしばらく「ながにゃん」と呼ぶハメになりました(笑)。

又吉 いま思い出したことですが、お付合いしていた人の町へ遊びに行ったことがあるんです。高校時代のことです。そしたら、ある男の人にバッタリ会ったんですが、彼が僕とそっくりだったんですよ。見た目、恰好、坊主頭、もみあげの感じ、ママチャリの自転車と(笑)。彼女は決してその人を見ないし、その人も「あっ」みたいになっていて、僕は「ああっ、もうこれ100%そうやろ」と思って。それで実際、そうだったんです。

壇蜜 あ、彼女に訊いたんですね。

又吉 何となく訊きました(笑)。で、僕はその人に似ていたから、彼女に選ばれた可能性が高いな、と気づいた。体型もサッカー部の筋肉のつき方をしていたし、プロフィール書いたら、あの人とほぼ一緒やなと(笑)。

壇蜜 嫉妬しましたか?

又吉 しなかったと思います。ま、ちょっとショックはあったかもしれないです。「彼女の好きなタイプやから、二人は当然似ている」のならいいけど、向こうがオリジナルで、コピーとしてこっちが発見されたのなら嫌やなと(笑)。でも、いま久々に思い出したくらいなんで、そんなショックじゃなかったですよ。その夜、電気消した時に、ちょっと考え込んだくらいです。

壇蜜 お話を伺っていて思ったのは、永田は又吉さんみたいに明るく解消できる思考回路がないから、ひたすら内向してウジウジしちゃうんでしょうね。

又吉 だからまあ、永田は僕じゃない、ってことです(笑)。

壇蜜 永田は「まだ知られてなかった素顔の又吉直樹さん!」じゃないと(笑)。

(だんみつ タレント・文筆家)
(またよし・なおき 芸人・作家)
波 2017年7月号より
単行本刊行時掲載

恋愛がわからないからこそ、書きたかった

又吉直樹

『劇場』を書き上げて

 この小説が自分の中で大きすぎたので、書き上げた今はすごい解放感で、まだ変な感覚なんですけど、やっぱりうれしいですね。解放感がありすぎて、通常の〆切の焦りがなくなって、いま仕事がいろいろ遅れています(笑)。
『劇場』を書き始めたのは、2014年の夏頃でした。冒頭60枚くらいを書いて一旦原稿を置いて、そこから『火花』を書いて、その後またすぐ取り掛かりたかったんですけど、別の仕事もあったりして、それを落ち着かせながら並行して進めて、ようやく出来上がりました。
 始めた時点では、まだ小説を書いたことがなかったので、一年の間に『劇場』と『火花』の二作を書けたらいいな、と思っていました。でも、『劇場』の冒頭を書いたところで、これは絶対一年では書き切れないな、と思って。どちらかというと『火花』は衝動的に書いた方がいいように思ったんですけど、こっちはもうすこし時間をかけてやりたかったので、そこで一旦止めたんです。

どうして演劇を書いたのか?

『火花』は漫才師の話なので、自分が知っている世界だったのに対して、『劇場』の演劇の世界は実際に知らないので、劇団関係者の方に話を聞いたり、個人的に取材させてもらったりしながら書いたので、どうしても時間が必要でした。
 演劇を書こうと思ったのは、まず演劇そのものが好きだったのがあるんですけど、もうひとつは演劇に向き合っている人に興味があったんですね。お金儲けをしたくて演劇を始める人って、あまりいないじゃないですか。本当に好きじゃないとできない、その純粋さに惹かれました。
 僕自身、神保町花月という吉本の劇場で台本を書いていたこともありますし、さらに遡ると6歳の時、父の誕生日に姉ふたりと3人で漫才を作ったことがあって、僕が言ったことを姉が紙に書いて、それを姉たちが父の前で読んだのがデビュー戦でした。「何がオモロイねん」って父には言われましたけど(笑)。
 その後、小学校で「赤ずきんちゃん」を関西弁にしてみんなでやったら、父兄にすごいウケたんです。人前で何かをやってみんなが笑うのは気持ちいいんやなって。それは僕にとってすごく大きな体験でした。それで芸人になったんですけど、自分で考えたことをお客さんの前や劇場でやるのは、演劇も近いですよね。
 演劇で食べていくのは実際かなり難しいし、医療関係の仕事でもないから、直接誰かの命に関わるわけでもないし、「なんでそんな大変なこと、苦しみながらやっているの?」「やめたらええやん」と思う人が多いかもしれないけど、僕は全然そう思っていなくて、ムチャクチャ意味があると思うんです。
 同時に、周囲に理解されない状況で自分の好きなことに取り組むのは、ある意味すごく身勝手なことだったりもして、実際それに振り回される周りの人もいるんでね。僕が昔から好きなテーマのひとつに「誰も悪くないねんけど、なんとなくみんな苦しんでる」というのがあって(笑)。そういう人を見るとほっておけないし、たぶん自分がそういうタイプの人間なので、どうしたらええんやろな、という悩みどころでもあって、僕にとって書かずにはいられない重要な主題でした。

恋愛がわからないからこそ、書きたかった

 スポーツ番組でご一緒している中畑清さんが「今度書いたの、恋愛小説なんだろ?」「おまえ、結婚もしてないくせに」とおっしゃっていて、「ほんまにそうやな」って(笑)。でも、恋愛小説は、恋愛がうまい人だけが書くものでもなくて、わからんから書く部分もあると思うんです。
 恋愛って何なのか、いまだに僕はよくわかっていないんですよね。一見シンプルなようで複雑な構造で。実際うまくいってないから結婚してないわけで、だからと言って、ほっとかれへんというか、どうでもいいわ、とも思えないんでね。
 自分が生まれ育ってきたことを振り返ると、両親がいるわけじゃないですか。両親が恋愛したかどうかはわからないですけど結婚して、そういう男女の関係性の上で僕が存在しているんで。やっぱり重要な永遠のテーマで、子供の頃から常に関心がある三つのことのうちのひとつに入っているのかなと思います。
 主人公の永田は沙希と出会って、彼女の存在に救われるんですけど、彼が演劇にのめりこんでいくにつれて、沙希との関係がどんどん変化していきます。「人間が変化する」というのも、僕がずっと気になっていることのひとつです。よくいつまでも変わらないと言われる人がいますけど、そこには覚悟や大きな意志が働いていると思うんです。人間って、普通は絶対変わるんで。いろんな影響を受けたり歳をとったり、そもそも世界自体が変わっていくから、自然にしていたら、そこに混ざる自分の色も一緒に変わっていくんです。
 恋愛の場合、自分が変わるだけじゃなくて相手も同じように変わっていくので、戻したくても、もう戻られへんことがあって、最初はふたりとも黄色だったのに、どんどんいろんな色が混ざってきて、わけわからん状態になることって、けっこうあるじゃないですか。それが書けたのは、やっぱり小説というあれだけ長い文章だからこそだと思います。

10代のとき書いた、幻の小説

 時間の流れや感じ方も、人によって全然違いますよね。みんな、これから先どうなるかは気にするけれど、すでに起こったことは、もう過去のことやからって、わりと割り切れるじゃないですか。僕は過去だからといって、なんかほっとかれへんというか。
 物事を判断する時も、今こうして36歳の僕がバトンを渡されているので、この僕に決定権があるんだけど、20代の頃だったら、全然違うジャッジをくだすかもしれなくて、この今の僕の一存で決めていいのかという迷いもあるんです。もしかしたら、20代の僕のほうが判断力が上だった可能性もあるじゃないですか。時間の経過と成長が一緒にあるというのを、いまいち信用できないところがあって。若い頃かっこよかったのに、おっさんになってダサいな、と思う人がいるように、自分がそうじゃないとは言いきれへんから。だから昔の自分が決めたことを、今の僕が簡単にやめてしまうのはどうなのかな、と思ったりもします。
 20代の下積み時代はとにかく時間があって、ひとつのことをずっと考えていられたから、僕にとっては必要な時間でしたね。当時は遊ぶ相手もいなくて、ひとりでずっと歩いているみたいな日常で、それがよかったんかなって。
 僕、ずっと小説は書けません、と言い続けてきたんですけど、なぜかというと、18、19の時に、百冊くらい本を読んできたし、小説一本くらい書けるかなと思って、原稿用紙になんとなく頭に浮かんだ物語を書き始めたら、全然書けなかったんです。それで「小説って難しいんやな」と思って、また本に戻ると、「書き出しってこんなに美しいんや」「会話のあとはこうやって地の文に戻るんや」って発見があって、読書がさらに面白くなって、これはもうとんでもない人たちの世界だから、自分は読む側に回ろうと決めた、という。
 その書きかけの原稿がこの間、引っ越しをした時に出てきて読み返してみたら、まったく覚えてなかったんですけど、今回の『劇場』と『火花』を足したみたいな設定だったんです。それでちょっと笑ってしまって。その頃の僕は、まだ上京したてで何も経験していなくて、想像で書いている部分が大きいはずなのに、不思議やなあって。

「書きたいこと」と「わかりやすさ」

 小説を書くのが難しいことは、理解していたほうだと思うんですけど、やっぱり小説って難しいですね。『火花』を書いて、「あ、こうやって小説って書くんや」という感触は確かにあったのに、今回『劇場』に向き合うなかで「あれ、どうやって書くんやったかな」と思うことは何回もありました。
「書きたいこと」と「わかりやすさ」のあいだで、どうやって書くか、ずっと考え続けていたような気がします。「新潮」みたいな文芸誌に載せていただく小説は、読者を意識しすぎるとよくないことは客観的にはわかるんです。僕も好きな作家さんには、読者を意識せず自分の書きたいことを全力で書いてもらいたいし、それを自分なりに楽しみたいので。
 ただ、自分が書き手にまわった時には、ムチャクチャ読者を意識したいんです。それはびびっているのとは真逆で、意識するほうが難しくなるから。自分の書きたいものを書いたうえで、なおかつ人に伝わるようにすることは、今回かなり意識して書いたつもりです。
 僕の情熱を伝えるだけなら、絵の具に手をつっこんで紙にバチンとぶつけて、「ここから僕の心を読みとってください」というのでもいいと思うんですけど、小説だから、文字と日本語を使っている以上、最大限伝えることから目をそらしたくないなって。そのへんを考え出すと、さらに大変になったというのはあるかもしれません。

『火花』が難しかったと言われて

 僕が読んできた本は、文体が工夫されているものが多かったので、『火花』のときも悩んだんですけど、編集者さんと話して、普通に書いて映像が浮かぶ文章も珍しいから、そのままでいいんじゃないかと言ってもらって、じゃあそのまま書こうと思ったんです。だから、『火花』では自分の思いをまっすぐ言葉にしたつもりだったのが、普段劇場に来てくれる方やテレビで応援してくださる方が読んで、ちょっと難しかったという反応を聞いて、少なからず僕は驚いたんです。自分では難しいと思って書いていなかったから。
 一方で、僕の好きな作家さんたちに「そういう声があって、気になっているんです」「せっかくお金出して買ってくれたのに、難しくてあまりわからなかったら、かわいそうやなと思っちゃうんです」と話したら、「『火花』はそんな簡単な話ではないかもしれないけど、言葉が複雑だったり難しいとは思わないし、そこまで合わせに行くとバランスを崩すから、気にしない方がいいよ」っていう声がほとんどで。
 その両者の意見を聞いて、「どうしたらいいんだろう」という思いはありましたね。そこには、僕が舞台に立ち続けてきたことも影響していると思うんです。たとえば、僕らのことをよく知っている100人くらいの人の前でやる場合は、自分の好きなひとりよがりなネタでも許されるんですけど、それが500人に広がっただけで、まったくウケなくなるんです。で、ウケないというのは傷つくんです。
 そこで、どうやったら楽しんでもらえるか、ずっと考えてきたので、だいぶ広い劇場に自分の小説を「今回これです」って持っていくときに、どうしようかなという思いは、正直ありました。

表現の場を求めてあがく主人公を書くことで

『劇場』の主人公はずっと表現の場を求めていて、自分の表現を突き詰めたいという欲求と、もっとお客さんを呼びたい、注目を浴びる大きな舞台でやりたい、という両方の意識が強いんです。でも、その場が与えられなくて、そのためにはもっと考えたり、作品の強度を上げたりしないといけないから、本人の責任も僕はあると思うんですけど、そうやってあがいている主人公を自分が書いていくわけです。
 そういう主人公の状況に対して、僕自身はムチャクチャいい劇場を用意されていて、みんなが「二作目書けるのか」と気にしてくれている状況で、何をびびってんねんって(笑)。そもそも芸人になるのを決めたのも、小説書くって決めたのも自分で、表現の場を求めていたはずの人間が、おびえている場合じゃないな、と。だから書き進めていく途中で、小説自体が僕を鼓舞してくれた瞬間が何度もありました。
 自信をもって仕上げたものを人前で発表できるのは、そもそも喜びで、もちろん恐怖も伴うから初舞台はすごい怖かったし、そういうものなんですけど、発表の場が与えられて、打席に立てることがどれだけ恵まれているのか僕自身よくわかっているんで。それこそ、10代や20代の頃の自分が厳しい状況に抗って、やめなかったおかげで今、僕の番が来ているから、それをちゃんと背負ったうえで作品にしないといけないな、という思いはすごいありましたね。

何度も書き直すなか、最後に生まれた場面

 一旦書き上げた後、時間をかけて推敲をして仕上げていきたい、というのは最初からお伝えしていました。そのほうが間違いなくよくなるだろうと思ったのと、お笑いでネタをつくるときも、何回も直すなかで新しい発見があって、そこから広がっていくことがあるのを経験していたので、小説でもやってみたいなと思ったんです。実際に直していくなかで大きく発展して膨らんでいったところもあったし、逆に削ったところもありましたが、それはもう絶対やってよかったなと思います。
 この場面はもっと詳しく書き込もうという直しの段階で、考え込むことはあまりなかったかもしれません。その時点で小説のなかで書いていることと同じくらい、書いていないことも、もうすでに作品の世界のなかにはあったので、どこを出してどこを引っ込めるかを考えればよかったんだな、というのは今回、推敲を重ねるうちにわかったことでした。
 印象深い場面はどこか、と聞かれると、思い入れがあるところはいっぱいあるんで、どこかな。「あそこがよかった」と言ってもらう場面が人によって違ったりして、全部うれしいんですけど(笑)。最後の最後に書き足した、永田が演劇をやっていくうえで、自分は「こんな瞬間に立ち会うために生きているのかもしれない」と感じる高円寺の駅前の場面があって、そことかは好きですね。
 あそこがあることで、永田のことをすこしだけ好きになれるというか。終始、おまえ何してんねん、と言いたくなるような男なんですけど、ああ、こういう一面があるんやったら、わからんでもないなって。小説の精度や強度として、どのくらい読者に伝わっているのかはわからないですけど、自分としては好きですね。

(またよし・なおき 芸人・作家)
波 2017年5月号より
単行本刊行時掲載

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