立ち読み:新潮 2018年9月号

ジャップ・ン・ロール・ヒーロー/鴻池留衣

 最初に取材を受けた日のことを憶えている。三つ目の質問はダンチュラ・デオという名前の由来についてだった。答えたのは喜三郎だった。こう言った。知らない。何故ならダンチュラ・デオというグループは自分たち以外にもう一つあって、グループ名も曲もタイトルも何から何までそのもう一つのダンチュラ・デオ、つまり本物のダンチュラ・デオのコピーでしかなく、彼らがどのような意図でダンチュラ・デオという名前を彼ら自身に与えたのか自分たちの知るところではないから答えられない。喜三郎は俯きがちで、時々顔を上げても、机からつくしみたいに生えたマイクの先端しか見ていなかった。後日記事の掲載誌が事務所に届けられて、メンバーはそれに目を通した。ステージ写真の中で、喜三郎がデザインしたダンチュラ・デオのロゴマークが描かれたTシャツが彼の胸を隠している。喜三郎によればそれもまた彼自身のデザインではなく、本物のダンチュラ・デオが使っていたロゴマークなのだ。
 ブラウザを開き、検索すればすぐに彼らの情報が表示される。トップにあるのはYouTubeの動画へのリンクで、過剰に女性らしく化粧を施した男性ボーカルが、乳首を隠し損ねたチューブトップを着て、必死で声を出して歌っている姿が視聴できるだろう。或いはSiriに尋ねてみるとよい、彼女はiPhoneユーザーをウィキペディアの記事へと誘ってくれる。ウィキペディア日本語版の「ダンチュラ・デオ」は2012年4月30日に初めて執筆され、夥しい編集を経て、現在このようになっている。

DANTURA DEO

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 Dantura Deo(ダンチュラ・デオ)は日本のロックバンド。2011年よりニコニコ動画、YouTubeに作品を投稿し始め、2013年CDデビュー。全楽曲の作詞、作曲、編曲はギターの喜三郎が手がける。または、彼らの元ネタ剽窃元となったとされる80年代の(架空の)バンド。本稿ではこちらについても解説する。
 ファイル:DANTURA DEO.jpg Zepp Tokyoにて(江東区 2018年)

基本情報
 別名 DD ダンデオ
 出身地 日本
 ジャンル ロック ハードロック ヘヴィメタル プログレッシブ・ロック ヴィジュアル系 J-POP エアバンド
 活動期間 2011年-
 レーベル Bil-games Music, BrainBrain Records
 事務所 Clay Tablet
 公式サイト www.danturadeomusic.com
 メンバー
  喜三郎(ギター)
  アルル(ベース)
  僕(ボーカル) ※「僕」というアーティスト名である

 2011年、慶應義塾大学内のバンドサークル「USG」で当時学生だった喜三郎を中心に結成された。1980年代に実在していた同名の日本のバンドのコピーバンドであるという設定。

目次
1来歴
2キャラクター設定
 2・1公式プロフィール
 2・2名前の由来
3音楽性
4事件
 4・1「2013年中央区マイクロバス爆発炎上事件」
 4・2「2016年テキサス州音楽フェス銃狙撃事件」
5著作権
6逸話
7ディスコグラフィー
 7・1シングル
 7・2アルバム
8備考

1来歴
・2011年、慶大の公認サークル「USG」において、喜三郎が彼とは別のバンドに所属していたボーカルの僕を誘い、楽曲を作り始める。二人は70年代、80年代の歌謡曲、ハードロック/ヘヴィメタルを共に愛好していたことにより意気投合。同年ニコニコ動画へ投稿した動画「A Good Jap」を皮切りに、動画サイトにて作品を発表し始める。翌年同じサークルのアルルもバンドに加入し、大学在学中の2012年にインディーズデビューを果たした。動画投稿の初期においては、曲の進行に合わせて歌詞が表示される単純なものが主流であったが、2012年の「LOVE SYRUP」以降はメンバー自身のライブ映像を編集したものが投稿されるようになった。以上のような「来歴」が決定されたのは2012年に音楽事務所Clay Tabletに所属し、翌年デビューして公式プロフィールが公開された際である。そこには事実ではない部分もある。最初の動画が投稿された時点では、ダンチュラ・デオに喜三郎以外の人間はいなかった。彼は独自に音楽活動を開始したのだ。それに、確かに僕たちは同じサークルに所属してはいたけれども、喜三郎の誘いを最初に受けたとき僕は、他のバンドに参加などしていなかった。どうしてそういうことになっているのかわからないが、事務所の誰かが執筆したのだと思われる。僕も喜三郎もサークル内でなんらかの音楽活動をすることはなく、ただ毎日のように飲み会に参加して少しだけ音楽について意見を述べるだけだった。サークルには一年生が二十人くらいいて、学生会館地下にある音楽練習室での練習が終わると誰かがキャンパス近くの居酒屋へ飲みに行っていたのでそれにいそいそと付いていく陰気な存在が当時の僕である。音楽の知識も技術もないくせにサークルの華やかな勧誘の様子に憧れて、さして歓迎などされていないことも承知の上で、広いキャンパスの中で居場所を見つけたつもりになっていたのだ。ギターを持たせてみれば初心者で、皆からがっかりされる。じゃあ初心者同士でバンド組んでね、と、同じ一年生の楽器経験者たちの態度は無言で語っているようだった。むろん、初心者を放逐する歴史を重ねてきた上級生らも同様だ。彼らが僕に、すぐにサークルから姿を消してくれることを期待しているのがわかった。音楽について端から興味がないお前がなぜここにいるのかという不思議そうな視線が僕へ向けられる。ただし、サークルに入った僕以外の楽器初心者たちは、他の初心者たちとバンドを組むのを必ずしも躊躇うわけでもなかった。互いの稚拙な部分を容認しあえるので、居心地が悪くはないからだ。しかし僕は嫌だった。下手くそ同士で慰めあうのも、集団の低い身分に甘んじるのも苦痛に感じた。それに、経験者たちの希望に沿う形でこの場から姿を消すのも癪だった。ならば、ただそこにいる目障りな存在でありつづけよう。やがて僕と同じく当初は初心者だった何人かの技術は上達していき、切磋琢磨する彼らの会話へ僕はついていけなくなった。存在を無視されはじめたころには、さすがに多少焦っていた。そんな僕のことを、誰がバンドに誘おうというのか。実際には、後に喜三郎には誘われたわけだが、それは僕にミュージシャンとしての魅力があったからではない。「ダンチュラ・デオ」を知っている、と彼の前で言ってしまったからである。

(続きは本誌でお楽しみください。)