立ち読み:新潮 2018年3月号

創る人52人の「激動2017」日記リレー

大城立裕  小説家

 一月一日(日)
 二〇一七年の元日である。数え年九三歳、美枝子が九一歳になった。私は若いころに病弱だったのを美枝子に生かされたようなもので、いま圧迫骨折で病院通いをしているが、美枝子は脳梗塞の後遺症で、この二人の病人を次男の幹夫が養ってくれる。そこへ、近くに住んでいる長男の達矢、純子の夫婦が来て、一緒にお節を食べる。お節は家で作る能力に欠けるので、達矢がネットで買ってくれた。便利な世の中になったと痛感する。
 食べる前に、照れもせずに一席話す。若いころにはやらなかったことだが、ついやることになったのは、年のせいである。「終末の段取り」と題するいささか長文のメモをかねて作って、二人に渡したのは、葬式の段取りから、書斎の整理の段取りが主である。遺産相続はいくらもない。一席の話の趣旨は息子たちへの感謝である。
(追記・美枝子は七月三日に没した。)

 一月二日(月)
 年賀状の来かたが激減している。自分が出さないせいもあろうが、世間の多くの方が当方の歳に気を兼ねていらっしゃるのであろう。私はもともと県内には年賀状を出さないが、ことしも賀状への返事のために、一〇枚だけ郵便局のを買ってきた。いくつかにそれで返事を出した。

 一月三日(火)
 与那覇晶子さんが来訪。久しぶりだと思ったら、「ドクター、通りました」という。通り一遍のおめでとうでは足りない、と思うのは、勉強の年数もさることながら、なにしろ主婦のかたわらだからである。博論の助走のような短い論文を置いて行った。アメリカで演劇の修士号を取り、帰朝のあとは沖縄の演劇を古典も近代芝居も根こそぎ観ていることに感心していたが、その成果のひとつがこれである。感心の所以のもう一つは、すでに方言を知らない世代に属するからだ。それでいて、辻町遊郭の遊女をあつかったテーマのようだから感心。あとで読むことにして、ひとまず措いておく。
 あとで夫君の与那覇幹夫君に電話したのは、その内助の功に敬意を表したのである。

 一月四日(水
 大浜第一病院のペイン・クリニックで圧迫骨折の治療、御用始めである。そろそろコルセットを外すことに慣れるようにしては、と先生がおっしゃる。一昨年の七月いらい馴染みのコルセットである。左大腿の坐骨神経痛をまた発しているので、注射を打ってもらい、一時間の安静をして帰る。
 中城村役場の表彰式を欠席する旨を電話する。村民名誉賞をくださるとのことで、何人かの諸事業功労者たちを代表して謝辞をのべる役目を請けていたが、ひょっとしたら出られないかもしれないからと、しばらく前に伝えてはあった。小学校の一年生までしか住んでいなかった中城だが、その農村風景は私の作品のおもなモチーフの一つである。そんなことを挨拶で話すつもりであった。

 一月五日(木)
 大浜第一病院のリハビリ御用始めである。転んで骨折したのが一昨年の二月で、そこを退院してリハビリを始めたのだから、二年近くのつきあいである。昨年の十二月から介護保険のデイサービスに通っているので、まもなく、ここをやめることになる。

 一月六日(金)
 デイサービスなごみ倶楽部の御用始めである。三度目だが体操器械の操作をまだ憶えられない。年寄りだけであるが、なかでも私は最年長らしい。スタッフの女性たちは、それが仕事のように、親切に動きに手を貸すので、なんら羞ずかしがることなく、甘える。年寄りばかりのなかで、最年長なみに最もテンポが遅いが、恥ずかしくない。
 新聞に、輸送機オスプレイの海上での空中給油演習が再開とある。二〇一六年十二月十三日の墜落いらい、原因も未解明なのにと、知事をはじめ県民が怒っている。今年の幸先わるい出発というものであろうか。
 石川文洋さんから年賀状、四月にベトナム北部、ハノイへ石川文洋ツアーを組むという。すごい。私は東京さえも遠くなった。もっとも、年の差が一三年もある。

 一月七日(土)
 山里勝己かつのりさん来訪。絵をもらいに来たのである。若いころから買った油絵などが、いつしかたまってしまったので、寄る年波の都合にあわせて、友人たちに譲らせてもらうことを考えた。五人の会の仲間たちにまずは引き受けてもらうことにした、その一助である。
 山里昌弘の作品をもらってくれた。アマチュアの画家で、平和祈念堂のチャリティー展覧会で買ったら、山里さんがよろこんでくれた。その後に、西日本新聞に一面べた組みのエッセイを書かされたとき、挿絵に指名したときも喜ばれた。早くに亡くなったが、挿絵の原画をいただき書斎に飾ってあるのが、財産である。
 与那覇晶子さんがおいて行った論文を走り読みする。辻町遊郭を恋歌民謡のメッカのように解した論旨が面白い。


神里雄大  作家・舞台演出家

 一月八日(日)
 海岸近くの常夏の街からバスは山をのぼり、数時間で山頂の町を通過した。窓からつめたい隙間風が入りこみ、車内で客たちは寒がり、運転手は黄色いセーターを着た。山頂の町では人々は下界とはまるきり違う服装で、崖沿いにつくられた山小屋は風にゆれていた。下の世界と同じようにスペイン語でやりとりされる売店には、常夏の街の売店にあるのと同じスナック菓子が売っていた。寒さに震えながら売店横のトイレにはいると、便座はなく水洗レバーもなく、便器が空間の真ん中でただ穴を開けていた。ドライバーは売店のなかに座ってなにかスープのようなものをすすっていた。彼はこれからさらに数時間運転しなければいけない。
 バスのなかでは、アメリカ映画のスペイン語吹き替えが流れていて、銃やナイフや肉弾戦などで敵対する人間たちを主人公が次々に殺していくというような内容だった。車内は静かで、その映画の物騒な音が響いていた。
 目的地には日が暮れてからついた。バスのなかで知り合ったロンドン人の女性が、安いゲストハウスを知らないかと聞いてきたので、ひとつだけ知っているよと日本人宿に連れていった。その宿は、日本人の紹介でしかほかの国籍保持者は泊まることができないそうだ。ぼくも泊まることにした。ロビーでは夕飯を終えた宿泊者たちが仲よさそうに歓談していた。彼らのなかにはパソコンを開き、日記のようなものを書いているひともいた。なぜ日本人バックパッカーはみんなブログをやっているのだろう。日本人だけじゃないかもしれないけど。
 腹がへったので、そのロンドン人と外に出て街のローカルな食堂で食べた。街にクリスマスの名残はもうなかった。食堂では、どんな内容か忘れてしまったが知性のなさそうなアメリカ映画のスペイン語吹き替え版が流れていた。
 宿に戻ってきても、時間が止まったかのように日本人たちはロビーで歓談していて、だれもロンドン人とは話そうとしなかった。それを察したのかそれとも単純に疲れたのか、すぐに彼女はドミトリーの自分のベッドに入って寝てしまったようであった。

 一月九日(月)
 早朝に起きて、バスで首都に移動した。昨晩あまり眠れなかった。広大な土地を進むバスの中で寝たり起きたり景色を見たりをくり返して、7時間でバスターミナルについた。思っていたより渋滞はなかった。
 年明けから首都ではガソリンの値上げにたいするデモがおこなわれており、一部暴徒化しているという情報があったので、念のためぼくは地下鉄に乗らずにタクシーに乗った。そのせいでぼったくられた。デモの関係だかなんだか知らないが、道が封鎖されていて通れないということで、おもっていたよりも1キロはなれたところで降ろされ、おつりをもらおうとするとタクシーは逃げ去った。なぜ降りるよりも先におつりをもらわなかったのだ! ドライバーの顔をおもいかえしては怒り、頭のなかでドライバーを殺すということをくりかえした。それは自分のせいかもしれない。彼を殺したいほどにイラつくということは、自分を殺したいほど憎むということだ。あんまりにも頭のなかで彼の顔をくり返したせいで、いまでも彼の顔をすぐに浮かべることができる。

 一月十日(火)
 現地で活動する唯一人という日本人俳優と会って遅くまで飲んだ。ヤクザの役ばかりがくるという彼の葛藤を聞いていた。そもそも俳優業は儲からないという。現地にいる中国人や韓国人たちについては、「あいつら金になんないことはやんない」そうである。そういえばラテンアメリカでは、アジア人はみんなchino(中国人)と呼ばれる。そのとき「おれは日本人だ」と必死になって、ぼくは返答する。そうやって自分のなかのナショナリズムが燃えてしまっていることを、ぼく自身ちゃんと認識している。
 現金をあまりもってこなかったので、二軒目では1杯だけで帰ることにした。タクシーは使わず、バスに乗って。

 一月十一日(水)
 昼過ぎまで寝て、また荷造りをして空港に向かう。タクシーはうんざり。バスで。

 一月十二日(木)
 早朝にチリ、サンティアゴについた。知り合いの家に泊めてもらう。着くとすぐぼくは日光を浴びながら寝てしまった。夜に起きて最初の舞台を観に行ったが、どんなものを観たのか次の日には思い出せない。

 一月十三日(金)
 サンティアゴには10日間、国際舞台フェスティバルの作品群を観るために来ている。寝坊して今日の公演を見逃した。チリワインはうまい。

 一月十四日(土)
 予定を変更し、昨日見逃した演劇を観に、当日券で。ペルーの劇団の演目。そこでは、すでに亡くなっている作家と戯曲をとりあげ、俳優たちがその作家について語っていた。ぼくのもうひとつの故郷であるリマのことをおもった。そして寂しい気持ちになった。演目はすばらしかった。だからこそ。
 明日は去年急死した親父の一周忌だ。そのまま時間がすぎた。去年のいま、一年後にこうやってチリのチリ人の家で寝て起きて演劇を観るを繰り返すなんて想像もできなかった。


大竹伸朗  美術家

 一月十五日(日)快晴
 昨日より全国寒波到来、西日本は記録的大雪。
 昼、宇和島系ケンタッキーフライドチキン。未完のままの「時憶シリーズ」4点の貼り込み続き。以前より紙片を「適当」に切ってできた形が増した。「適当な形」を一度面白いと思うやいなや「適当」は逃げ出す。「適当」と「面白い」の関係は常に一期一会、繰り返しは奈落の底への道標、一旦関係を断ち再び「起きる」のをじっと待つ。「適当」は一瞬でこちらの欲を見抜く。
 夜、人足の途絶えたダダっ広い商店街をEno & Byrne1981年のアルバム「My Life in the Bush of Ghosts」を聞きつつ歩く。ドンピシャのサントラのごとく心に響く。地方シャッター商店街に流す音源の可能性。
 スクラップブック#69続き、刺青、インド、アフリカの印刷物、日活映画モノクロスチール貼込み、あと300ページ余か? 素材に対して自然に湧き上がる「無意識の愛」がすべてか? 「愛おしさ」は宅急便の段ボール箱を最良の素材に変化させる。
 夜半風強し、外の椰子の葉が激しくザワつく。コンタクトマイクをつけてアンプに繋いだら椰子の木爆音ソロライブだ。
 昨日早朝東京より連絡あり、13日晩兄貴が駅からの帰路酔って自転車ごと転倒、通行人が手配してくれた救急車で入院とのこと。20年ほど前やはり路上で倒れた親父の姿がよぎる、オレも「ストリート系」なのか?

 一月十六日(月)快晴
 今年初上京、羽田から病院へ直行し兄貴に面会。
 路面に打った顔面左側の傷が痛々しい。ゆっくりと普通の会話やりとりができ少し安心する。
 2、3日で退院できるとのこと。母(今年で96歳!)の自宅介護を兄夫婦に任せっきり、モゾモゾとした申し訳なさが込み上げる。
 黄金色の夕日差し込む休憩室、大きな窓側に人が集まっている。西方向の澄んだ夕空の中頂上に金色の巨大UFO雲ひとつゆったりとまとう富士がクッキリと浮かぶ。兄貴も来月古希だ。帰路、暗闇の駐車場を照らす硬質で冷ややかな水銀灯光景が心に染み入る。
「門」「ビートルズ史/上」

 一月十七日(火)快晴
 英メイ首相欧州連合完全離脱表明。国民投票直前にたまたま滞在したロンドンの地下鉄駅前で配っていた「残留呼びかけステッカー」が浮かぶ。トランプ、真っ白の闇、ホワイトアウト。
 昼、久しぶりにハーレーバイク好きのお父さんの店でとんかつランチ。午後実家にて改築工事打ち合わせ。兄貴入院のため嫂と2人で工務店Cさんと設計士Mさんの最終プランを聞いていると途中から兄貴が退院し帰宅する。大分懲りている様子、しばらく禁酒するらしい。嫂「タバコもやめたら?」兄貴すかさず「そういうワケにはいかないよ」少し安心する。夜、兄夫婦と外食。改めて兄貴夫婦のありがたさを感じる。「縦長に伸びきったピンク色の三日月」が3つ並ぶイメージが浮かぶ。
「金星に弓状模様」のニュース。南極棚氷の亀裂止まらず。

 一月十八日(水)快晴
 キャロライン駐日大使離任。ピコ太郎の45秒。
 夕刻新宿中古レコード屋へ、LP1枚100円~300円のみチェック。
 昭和30年代にアメリカTV番組で活躍した俳優のソロアルバムは軒並みこのコーナー、「ベン・ケーシー」「ドクター・キルデア」が100円とは!! アントニオ古賀、浜村美智子シングル盤。
 夜多忙を極めるT君と久々に会い2人で歌舞伎町の焼肉屋へ。2年ほど日本各地を周ったロードサイダーズ/ジャパノラマ旅から早20年、また地方を周ろうかといった話、実現するといいなあ。
 その後2人で3年ぶりのゴールデン街へ。歌手A宅にあったピアノに触れる。Aさんが宇和島のブライダルホール公演に来たのは15年も前だ。
 深夜2帰宅。YouTubeの音楽画像から小さな油絵を描く。液晶画面を通した静止画には写真にも映像にも実態にもない「電気影」あり。真っ白でシワだらけの「布製の象の鼻」のイメージが浮かぶ。

 一月十九日(木)快晴
 呑み過ぎ。午後2時迄寝過ごす。風が冷たい畳の陽。
 実家の地盤調査が25日に決定との連絡あり東京滞在延長、宇和島へ戻れずiPad連載原稿書き初体験。
 新宿ロックバーにてレコードプレーヤーのカートリッジを使わず盤音を出す方法をあれこれ考える。リトル・リチャードが10代のジョン・レノンに与えた衝撃を思う。

 一月二十日(金)快晴
 トランプ大統領就任式。原稿続き。新刊本の打合せ前に出版チームと品川駅で待ち合わせ原美術館へ「エリザベス・ペイトン」展オープニング。キャンバスではなく板に描いていた。色彩とはみ出た下地の不定形が興味深い。
 その後新宿へ移動、本の打合せ、統一テーマを無視してまずは好きなように見開きを組むことにする、その後再びゴールデン街へ。
 来月初旬からロンドンのテイトブリテンでホックニー過去最大規模の回顧展が始まる。

 一月二十一日(土)快晴、風強し
 昼飯後散歩、幼少期の漱石が遊んだ太宗寺から新宿御苑をブラつく、早くも梅か? 原稿書き続き。改築で世話になる材木店の旧友I君の思い出が浮かぶ。
 1日1本の線でも出てくれれば気が楽になるが、滞ると気分が落ち込んでいく。鉛筆の走り書き文字が親父の字に似てきたとしみじみ感じる今日この頃、特にカタカナの「ジ」と漢字の「思」。
 3丁目辺りの酒場ハシゴ、思い出深いリンゴ・スター2枚目カントリーソロアルバムUK盤をいただく。ブックオフ、高校時代よく模写用に使った「ファブリ世界名画集」がなんと驚愕の1冊108円! 棚の全19冊で約2000円の現実。古本屋さんには厄介者扱いのデカくて重い画集の価格はありがたい。その他「今昔 東京の坂」/岡崎清記、熊楠本、ドパンクディープブルース系放哉ノイズ句多々。
 稀勢の里初優勝決定、横綱昇進か?
 スウェーデン在住のバンドWIREメンバー、グレアムより1980年リリースの12インチシングル「Like This For Ages」がアメリカのレーベルから36年余を経て再発されたので送り先を教えろとのメール。当時ロンドンで少しだけ関わったことを忘れずにいてくれる彼の律儀さに感謝。

(続きは本誌でお楽しみください。)