立ち読み:新潮 2017年12月号

家の中で迷子/坂口恭平

1

 家の中で迷子になっていた。
 何度も確認してみた。身近にある筆記具、書物、机、椅子、煙草は迷子ではなかった。むしろコンパスに思えた。しかし、コンパスも狂っていた。それらはどこも示していなかった。そもそも針が見当たらなかった。
 家を見渡しても、目に映るものすべてがよそよそしく、通行人に当たるように柱の角に体をぶつけた。家には誰もいないのに、じろじろと見られている気がした。ベランダに面した窓は半開きで、レースのカーテンが揺れている。透けて見える網戸の細い格子が柵に見え、閉じ込められているようにすら感じた。
 外に出れば、新鮮な空気が吸えるはずだ。もちろん、家の中にも空気はただよっている。そのおかげで今、体が動いているのだと思いながらも、右手を見ると、生まれてはじめて見たような気がした。まさか体まで、と考えそうになったところで止めた。きっと疲れているだけだ。
 壁や天井を見ても見知らぬ場所だとしか思えない。確かに形は似ている。しかし、いつもの見慣れた部屋とは明らかに違っていた。いつからそう感じるようになったのか。いつ、迷子だと気づいたのか。迷子になる前はどう感じていたのか。どこからか時計の針の音が聞こえてきた。
 ふと、四歳の頃、福岡の天神で迷子になったことを思い出した。
 天神には大きな地下街がある。テンジンチカガイと口にしていたが、本当に地下街だとは知らなかった。歩いていても、そこが地下街だと感じたことは一度もなく、城に続く道だと思い込んでいた。濃い茶色のレンガで築かれた特別な空間だった。天井は真っ暗で、橙色の電灯がところどころ光っている。まだ夜ではなかった。朝早く、家族揃って外出したので、まだ昼過ぎくらいのはずだ。それでも天井は、日が暮れてすぐの夜の空に見えた。
 しばらく行くと、市場が見えてきた。絨毯を売る店や花屋にまじって、道端で鉈を使って野菜を切り売りしている者もいる。店と店の間の路地から売り子の大きな声がするので、覗くと老婆が井戸の水をくんでいた。井戸のまわりには水たまりができていた。老婆は裸足のまま、桶をかつぐとぬかるみの中をとぼとぼ歩いていった。路地裏の地面はレンガではなく、土だった。生ぬるい風がこちらに向かって吹いてきた。砂が目に入った。目を掻きながら、ゆっくり開くと、白い牛が通り過ぎていった。
 右手が軽くなっていた。
 手をつないでいたはずの母も、家族もどこかへ消えていた。
 焦って辺りを見回すと、籠を持った母がこちらを向いて立っていた。安心して近づいてみたが、母はガラスの中に閉じ込められており、顔はのっぺらぼうだった。背後を灰色の制服を身につけた男たちが、全速力で駆け抜けていく。
 ガラス越しに店内を覗くと、ベージュ色のスカートが目に入った。母のスカートだ。店内には植物やヨットの模様の布がぶら下がっていた。島に行ったときのことを思い出した。いつかの夏休みだ。母は麦わら帽子をかぶって、同じ色のスカートをはいていた。島には船で向かった。屋根があるだけの小さな船だった。船は島に近づくと、徐々に速度を落としていった。
 声が聞こえたので顔を上げると、老人がこちらに手を差し出している。下の名前で呼ばれたが、知らない人だった。顔のシワがミミズみたいに動いていて、落ち葉をめくったときの匂いがした。老人は体じゅう日焼けしていて、手のひらだけが異様に白かった。
 港と言っても粗末なもので、海底に突き刺さっている柱にはフジツボがたくさんくっついていた。猫のおしっこの匂いもした。老人は聞きなれない言葉を口にしていたが、母は老人と笑い声をあげながら話している。親しげな雰囲気だったが、船に当たる波は警告音のように感じた。父は後ろのほうで黙っている。老人の手をつかむと、怖さのあまり飛び上がるように上陸した。怖がっていたことを母が笑っているような気がしたが、眩しい日差しのせいで母の顔は見えなくなっていた。ベージュのスカートに近づき、ただそれをつかむことしかできなかった。
 振り返ったのは母ではなく、知らない女性だった。さっきまでの地下街の雑踏の声は消え、店内には静かなギターの音が鳴っている。奥には、木の椅子にすわった白髪のおばちゃんが座っていて、眼鏡越しにこちらを見ていた。白髪のおばちゃんは手招きすると、テーブルに置いてあるガラスのコップに麦茶を注いだ。
「あんた、初めて見る顔じゃないね」
 一口飲むと、喉が渇いていたことを思い出し、一気に飲み干した。頭の中ではまだ島を歩いていた。港から歩いてすぐのところに森があった。店の床に当たっている光は、その森の木漏れ日のようだった。森で見たはずの木が生えている。よく見ると、それは試着室のカーテンの柄だった。老人と二人で森の中を歩いた。あのとき、家族たちはどこにいたのだろう。そんなことを考えながら、試着室に顔を突っ込んだ。試着室の中はさらに森の奥へと道が続いていた。苔で覆われた大木のまわりには、顔よりも大きな葉っぱや、見たこともない色の花が生い茂っていた。ここは試着室なのだから、きっと目の前にあるものは鏡だ。カーテンの柄が映り込んでいるのだろう。ところが、鏡には顔だけがどこにも見当たらなかった。

2

「靴は脱いで入るんだよ」
 白髪のおばちゃんの声だった。おかしなことが起きていることを知らせたほうがいいかもしれない。靴を脱ぎながらそう思い、カーテンから顔を出そうとすると、今度は鏡のほうから男の声が聞こえてきた。
「人の言うことは聞くもんだ」
 驚いて振り向くと、茂みから老人の顔が見えた。港にいた老人だ。老人はあのときと同じように、こちらに手を差し出した。裸足のままその手を掴むと、老人は勢いよく引っ張った。
「植物のつるは、引っ張ってもなかなか抜けん。力をいれずに手首を使ってさっと抜くんだ」
 一瞬だけ宙に浮いたような気がしたが、それは気のせいで、すぐに両足は地面についた。濡れた落ち葉がひんやりとする。土踏まずだけが温かかった。
 老人といると、祖父のことを思い出した。しかし、顔はまったく違っていた。
「わしの名前はトクマツ」
 老人は言った。
「下の名前?」
 そう聞くと、老人は首を振った。
「名前には上も下もない。ただのトクマツだ。自分で名付けたわけでもない。知らんうちにそう呼ばれてた。お前もトクマツって呼べばいい。みんなが同じように呼べる名前が本当の名前なんだよ」

(続きは本誌でお楽しみください。)