立ち読み:新潮 2017年5月号

特別対談 小説家の名誉と恍惚/筒井康隆+松浦寿輝

書き込む/削っていく

松浦 今日はご自宅にお招きいただき、どうもありがとうございます。以前、帝国ホテルでの文学賞パーティから抜け出して、喫煙ルームで煙草を吸っていると、筒井さんがいきなり近づいてこられて、「『新潮』連載の『名誉と恍惚』、読んでます」と言われたときにはビックリしました。
筒井 あのときが、ほぼ初対面でしたね。
松浦 こういうご時世のおかげで、ありがたいことに喫煙ルームがいよいよ刺激的なコミュニケーション空間になってきましたね。ああいう面白いことが起こるので、なかなか煙草をやめる気になれません。
筒井 僕は新幹線の喫煙ルームに入るたびに人がいっぱいだとホッとするんですよ。お仲間がまだこれだけいるっていうんでね(笑)。
松浦 あの頃はまだ連載を始めたばかりで、暗中模索で苦しんでいた時期でしたので、本当に励まされました。ともかく筒井さんが読んでくださっているのだからと自分に言い聞かせながら書き続け、二年四か月の連載を終えて、このたびようやくなんとか単行本になりました。
筒井 「」で書評を書いたのですが、ゲラでまとめて読んで、改めて素晴らしい小説だと感心しました。一九三七年の魔都・上海に赴任させられている工部局警察部所属の芹沢一郎が、陸軍参謀本部の嘉山少佐の謀略にまきこまれ、逃避、放浪まで余儀なくされるという話ですが、世界情勢や日中関係、当時の上海の風景から芹沢の心理まで事細かに描写され、全体文学とでもいうべき趣きがあります。連載をずっと追って読みましたが、最終回は、映画「カサブランカ」のラストシーンにも似た感動の場面でした。
松浦 最後まで丁寧に読んでくださってありがとうございます。
筒井 ところが、今回、単行本のゲラを読んだら、新たな一章が書き加えられてるじゃないですか。
松浦 はい、かなり長いエピローグを加筆しました。何と四十八年も時間が飛ぶんですけどね。連載最終回で、すったもんだの挙げ句主人公がようやく上海を離れる、それでスパッと終わるというのも、それはそれでありだと思わなくもなかったのですが、それ以降主人公がおくった人生の歳月の重みを、それを取り巻く二十世紀の歴史の進行ともども、ほんの少しだけ浮かび上がらせてみたい、そこに読者の意識を届かせてみたいという思いが強くなり、単行本化の際に書き加えたんです。
筒井 エピローグを読む前は、蛇足になるんじゃないかと不安だったんだけど、実際読んでみたらとてもいい。エピローグで主人公の芹沢は七八歳になっていますね。この時間の飛ばし方が素晴らしく効いています。テーマにつながるエピソードもある。
 今回まとめて松浦さんの本を読んで思ったんですが、松浦さんは「書き込む」人なんですね。僕は出発点がドタバタ、スラップスティックで、基本的には小説にしにくいものから書き始めたのです。スピードが大切だからいちいち情景描写や心理状態を書いてたら、ドタバタにならない。それが自分にとって文章修業になったと思うんです。逆に言えば、余計なところを全部とばして書くという書き方を身につけてしまった。つまり、松浦さんと僕は正反対で、松浦さんは書き込まれるけれども、僕は逆に、文章をできるだけ削っていく。
松浦 僕の場合、一種の真空恐怖というか、隙間を言葉で埋め尽くさないと安心できないというところはありますね。ただ小説のナラティヴの魅力の核心は、基本的には省略だと思います。省筆の芸、それによる緩急の舵取りということですね。しかしそれにしても筒井さんの世界は豊饒、広大で、スラップスティック系の運動感で疾走してゆく作品がある一方、徹底的に書き込んで作っていらっしゃる小説もあるじゃないですか。何より『虚航船団』という傑作がある。長篇の『虚人たち』や『夢の木坂分岐点』にしても、ディテールを緻密に書き込んでいって構築した小説世界でしょう。
筒井 いやいや、松浦さんのあの書き込みのすごさには到底かなわない。さらに、松浦さんは詩を書いてますよね。僕は根本的に詩ってダメなんです。詩の中にものすごい表現があるというのは認めるんですが、なんでこのすごい表現を物語の中で効果的に使わないのかな、などとついつい思っちゃう。ところが、『名誉と恍惚』にはそういった不満はありませんでした。先ほど全体文学だと言ったのは、そういう意味もあって、この中には自分の苦手な「詩」も入ってる、それでいて波乱万丈の物語もある。これは理想的な文学じゃないかと思うんです。
松浦 いえ、それは過褒です。そもそもこういう小説を構想したのは、大学を早期退職して少しまとまった時間ができたんで、長いものを書いてやろうと思い立ったわけです。で、どういう物語を作ろうかと考えはじめたとき、改めてつくづく思い知らされたのは、おれは現在の日本にはどうにも興味が持てないなあ、ということだったんです。文学者たるもの、自分の生きている同時代の社会や政治や文化と徹底的に向かい合い、渡り合うべきだ――というのが本当は正論なのかもしれないのですが、若い人がみな携帯電話やスマホを持ち始め、ネットで誰もが誰かと繋がり合うようになってきたあたりから、どうも時代が自分と肌の合わない空気になってきたなという感触があった。で、どこか面白い物語の舞台がないかなと考えたときに、一九三〇年代の上海というのが意識に浮上してきたんです。何しろ国籍、階級が入り乱れ、政治的にも性的にも緊張感の強い、ロレンス・ダレルの描いたエジプトのアレクサンドリアにも劣らない物語的興趣を豊かにはらんだ都市だったわけで。
筒井 よくわかりますよ。「波」にも書いたけど、僕は、子供の頃、山田五十鈴主演の『上海の月』その他、上海で撮影された映画を見ながら、上海がどんな蠱惑の魔都であろうとずっと憧憬していました。
 斎藤憐さんの『上海バンスキング』なんて芝居も面白いんだけど、あれは僕の思っていた魔都・上海とは少し違ってたから、『名誉と恍惚』のような小説を待ち望んでいました。
松浦 「魔都・上海」という言葉は村松梢風が発明したらしいです。一九二四年(大正十三年)に彼が『魔都』という上海を舞台にした小説を書いて、以後、この言葉が人口に膾炙し、上海の神話化に貢献してゆくことになる。魔都ってすごく鮮烈で、喚起力のある言葉ですからね。英語にはない表現です。英語だと「Paris of the East」とか、「Whore of the Orient」なんて言うんです。「whore」って娼婦――しかもあまり高級でない――ですから、「東洋の娼婦・上海」。何しろとことん猥雑で、性と暴力、快楽と危険が絡み合い、売春も麻薬も野放しのアウトロー地帯というイメージですよね。西洋の男たちがみんなそれに憧れた。ただ、このあだ名はちょっと直接的過ぎますよね。それと比べると、「魔都」って言葉は魅惑的な「異界」性を簡潔に凝縮していて、キャッチコピーとして素晴らしいと思います。

(続きは本誌でお楽しみください。)