女による女のためのR-18文学賞

新潮社

選評

第6回R-18文学賞 
選評―角田光代氏

角田光代

R-18文学賞も第六回になった。選考をさせていただいている私もだんだん欲深くなった。R-18というからには、性・官能を扱った小説であってほしいということは、前から思っていたが、今回は、それに加えて、新しさ、新鮮さという魅力を、応募作のなかにさがしていることに気がついた。性、というくくりがあると、どうしても類型的な作品が多くなる。もしこの先応募してくださる方がいるとしたら、「性を扱った、今までにない小説」をぜひ書いてやろう、という野望をどうか持ってほしいと願う。書かれていない物語は、途方もないほどある。

「ラムネの泡と、溺れた人魚」は、幼なじみの男の子に恋をしている女子高生が主人公の小説で、この男の子の何も考えてなさ、彼の気持ちをどうしても手に入れることのできない主人公のせつなさは、とてもよく伝わってくる。ストーリー運び、人物造形はともにうまく、独特の世界観も持っている。けれど私には既視感がついてまわった。もちろん、この作品とまったく同じものを読んだことがあるという既視感ではない。読んでいてはっとさせられる、そうした新鮮さ、斬新さがあまり感じられなかったのである。
この作者は、この先たくさん小説を書いていける人だと思う。そうしたなかで、私の抱いた既視感など、いともたやすく払拭していける人だとも思う。読者賞に選ばれたことを心から祝福し、応援したい。

 本屋でアルバイトをする女の子が、スキンヘッドの店員に奇妙なアルバイトを頼まれる「朝の訪れ」は、ストーリーの意外性がよかった。ただ少々、感情の動きを説明しすぎる感がある。「猫は死んだと言わずに、いなくなったと言ったことが、彼の悲しさを物語っている」「若い人の生命力を感じたのかもしれない」等々、AだからBになり、よってCという結果になった、と、言葉で説明しすぎている。私はこの小説の、終盤の文章「この気持ちに名前などいらない」が、いちばん強く、いちばん魅力的であると思った。この文章どおり、感情に説明という名をつけてしまわないほうが、ずっと力のある小説になると思う。

 母親とふたり暮らしの、小学校四年生の女の子が主人公である「シーズンザンダースプリン♪」は、個人的にとても好きな小説だった。一行開きの多いぶつ切りの手法は、ふだんならあまり好きではないのだが、この小説にかぎってはいい方に作用していると思う。まだおっぱいのふくらまない女の子がかいま見た、不可解なようなシンプルなような大人の世界、というものが、とてもよく書けていると思う。また、この著者は五感に敏感で、音や情景を、できるだけ自分の五感に忠実に描こうとしていて、ときにそれがはっとするほど詩的な文章を生みだしている。あっけらかんとした暗さ、とでもいうような、小説の色合いはとても魅力的だ。
これだけ好きな小説を、声を大にして大賞に推すことができなかったのは、わかりづらい点があまりにも多いからだった。セーラー服おじさんがなぜセーラー服を着ているのか(理由を書く必要はない、しかし必然であることを感じさせるべきではある)、主人公がのぞき見た光景は何を意味しているのか、またこのこたつのなかの光景もやけにわかりづらく、それは意図してそうしているのではなくて、単なる力不足と思えた。
今回はこの小説が優秀賞に決まった。私の指摘した欠点など、書くこと、書き続けることによって、すぐに克服できるだろう。この作者はすでにいくつもの宝を持っている。優秀賞授賞をとてもうれしく思う。次作を楽しみにしている。

「かたばみ荘の猫たち」を、私は受賞作として推した。今回の最終候補作のなかで、この小説が、いちばん小説を書こうという意思に満ちていると思った。性を含む、男女の関係の不可解さ、二人きりで了解している世界というもののいびつさが見事に書けていて、いびつさには美しさまで読みとらせる。愛や恋というものを知らずに、まず性を満たすことを知ってしまった主人公の、ぽかりとしたせつなさが、まっすぐ伝わってくる。
しかし、言葉や言いまわし、リズムや人間関係のありようなどが、現代の女性作家のものとよく似ているという声もあり、それは私も感じたことだった。それは「似せている」のではなく、単純に「似てしまった」のだと思う。この作者はきっと、本をたくさん読んでいて、たぶん水をごくごく飲むように読んでいて、多くの現代作家から知らぬうちに影響を受けているのだと思う。それ自体はとても自然なことで、当然である。けれど、デビュー作が既存の作家に似ていると言われてしまうことは、作家にとってはたいへんな不幸だ。できうることならばはじめて世に出る小説は、「まったく新しい小説」であってほしいし、「今まで読んだことがないような文章」であってほしい。
私はこの作者に個人的にお願いする。どうか、もう一度、言葉のひとつひとつに細心の注意を払って、どこかで見聞きした覚えのあるものは徹底的に取り払って、ごつごつしていても多少バランスが悪くてもかまわないから、これは私にしか書けない言葉であり小説だ、と思うものを書いてみてほしい。それがすぐれた小説になることは、私が保証します。

 主人公の青年の性器が芋虫になる「珍蝶」は、アイディアがまずおもしろいと思った。ありがちな話を脱しようという心意気がある。実際、この賞の応募作が陥りがちな設定を軽々と超え、もっとも印象に残った。しかし小説の冒頭のコメディタッチと、最後のシリアスで幻想的な調子の不協和音が、私にはどうしても引っかかってしまった。それが計算された不協和音にはどうしても思えなかったのである。最初のテンションが最後まで持続しなかったのでは、という懸念が残る。このような小説の場合、どのような地平に読み手を連れていくか、書き手のほうでよほど入念に作りこまないといけないのではないか。ただ、他の選考委員から、その不統一性こそ、この小説のもの悲しい滑稽というものを引き出している、という声もあった。またぜひ、読み手の想像を覆すような突拍子のない小説を書いてほしい。そしてこの作者でなければ見せてもらえない、そういう光景を見せてほしいと思う。

「旅館みなみ屋」は、連れ込み旅館の娘と息子が、双方の母親に頼まれ、ラブホテルの調査にいく、というストーリーで、読みやすく、また成長しきれない二人の母親のキャラクターも魅力的だったが、いろんなところにちいさな矛盾が見えてきてしまい、それが小説世界に没入することの邪魔をしてしまう。母親が調査目的にせよ、自分の娘や息子を繁華街のラブホテルに送り出すという設定はどうも無理があるように思え、またその無理を乗り越える小説の勢いも、少々足りない。どこかひとつでもリアリティをもたせることができたら、この設定でも成功したとは思う。たとえば「まわるベッド」は八〇年代に禁止されていて、ラブホテル側はそれがあることをおおっぴらには謳えないことになっている。だからまわるベッドのあるホテルというのは、七〇年代の雰囲気を多少とも持っていなければならないし(最盛期だった)、また多くのラブホテルはトイレに鍵がついていない、風呂がガラス張りなどの「ラブホならでは」の点がある。それら普通のホテルとは明らかに異なる点を微細に書きこまないと、この設定は生きてこない。現実と小説世界をぴったり合致させる必要はないが、大きな嘘をつくためには、リアリティを仕込まなければならない。その点に留意して、「これなら隅々まで書ける」設定で、ぜひもう一度書いてみてほしいと思う。