女による女のためのR-18文学賞

新潮社

選評

第15回R-18文学賞 
選評―三浦しをん氏

三浦しをん

 今回の最終候補作はレベルが高く、どの作品を受賞作とするべきか、うれしい悲鳴を上げる事態であった。しかし結果的には、ほぼはじめて、一番に推す作品が辻村深月さんと一致することになり、めでたい。
 言うまでもないが、これまで我々の仲が悪かったわけではない。意見や感想が異なることがあったのは、創作物に対する好みは千差万別であり、精密機械とはちがって、「瑕疵がない=いい作品」ではないということの証左だ。しかし今回、高レベルの最終候補作を拝読し、もうひとつ見えてきたこともある。最後は作品に宿る熱量、「読者に思いを伝えたい」と作者がどれだけ念じ、試行錯誤しているかが、好み云々を超えて、普遍的にひとの心を打つ重要なポイントになるということだ。
『ストロボライド』は、安原啓太と殴られている女との関係性がスリリングで、「どういうことなんだろう」と興味を持って読めた。ただ、語り手である「僕」の存在につっこみどころが多すぎる。その最たるものは、自分をゲイだと言いながら、「僕」が女を抱いていることだ(しかも、「気持ち良かった?」などと、根拠なき自信にあふれている)。それはゲイではなくバイというのではないか? そもそもなぜこの作品で、「僕」をゲイだとする必要があったのか? 私には謎だったし、「僕」のことよりもむしろ、安原啓太と女のこれまでの人生や気持ちをもっと読みたいと思った。独特のリズム感がある文体で、作者は文章が湧いてくるタイプなのかなと推測され、それはとてもいいことなのだが、だからこそ書き急がないよう心がけると、もっとよくなるだろう。たとえば、地の文で「そうゆう」と表記するのは避けたほうがいい。語り手がアホでチャラついているならまだしも、「僕」はけっこうすかしており、だとすると「すかしてるわりに、日本語不自由なんだな。ぷぷ」と読者に思われてしまうおそれがあるからだ。語り手の人格・性格が的確に浮かびあがってくる文章に研ぎあげなければならない。そうすることによって、語り手=「僕」=主人公の魅力が増す。
『祝、貧乳』は、「乳のサイズでそこまで躍起にならなくても……」と思いはすれど、ユーモアと少しの哀しみのある語り口から、語り手の必死さと思いこみの激しさが伝わってきて、楽しく切なく読んだ。ただ、一人称であるがゆえにか、作中の時制がやや混乱している気がする。語り手はいつの時点から、この物語を語っているのだろう。現在進行形なのだとしたら、冒頭がやや重いと思う(近過去を振り返っているかのように読めてしまう)。サチコさんの同級生男子の、訴訟にしてもいいほどの無神経ぶりなど、読んでいて憤死しそうになった。それぐらい、すべての登場人物に実在感があったということだ(池田くんからの手紙とか、サイコーすぎる)。「十八歳になるまで触らせなければ、胸が大きくなる」という肝心な点に、もう少しロジックというか説得力を持たせれば、もっと作品が締まっただろう。タイトルはそのものズバリなうえに、妙な標語みたいに味気ないので、要一考。
『泳ぐ鹿 Swimming Deer』は、書式や文章がたまに変だが(改行後の行頭一字サゲが徹底されていない、「四十代以上」ではなく「四十歳以上」では? など)、随所に光る表現があり、とても心惹かれた。独身のまま働きつづけて中年を迎えた女性(主人公)の心の揺らぎ、では恋愛や結婚をすれば解決するのかといったら、決してそうではない漠とした不安が、静かなユーモアを湛えた筆致で淡々とつづられている。「淡々と」というのが感想のわかれる点で、本作を「地味すぎる」と感じるひとがいるだろうことも理解できる。しかし私は、地味な日常のなかで、わずかにうねる心情の変化が丁寧に描写されていることを好意的に受け止めた。作中の展開に絡んでくるチェーホフの『三人姉妹』が、本作の主人公の言動と、周囲のひととのかかわりを通し、ラスト近辺で新たな輝きを帯びて見えてきたほどで、感動的だった(この描かれかたに、チェーホフもあの世で喜んでいるだろう)。惜しいのは、最後の段落が少々説教くさいことだ。そこに書かれているようなことは、読者個々人が物語から自由に感じ取るものであって、作者が主人公の口を借りて主張を述べるのは控えたほうがいいと思う。私だったら、土手から見える風景を描写した直後、「(それがわかったら、それがわかったら)千鹿子は口の中で繰り返す。」で物語を終わらせると思う(エディンバラに繋がっている云々は、必要に応じて、土手の風景描写のなかにさりげなく組みこめばいい)。小説の最後の段落に「正論」を持ってくるところが、「地味」という総体的な印象にやや影響を与えている気もする。つまり、作者本人は真面目に創作行為(および人間そのもの)に対峙していいし、そうするべきだと思うのだが、それを小説という表現にする際には、真面目すぎる説教や正論とは無縁な、破天荒さがあってもいい、ということだ。読者と登場人物を信頼し、作品をある程度委ねる度胸が必要、とも言い換えられるかもしれない。
『県民には買うものがある』は、表現もいいし文章もうまく、身近な滋賀県出身者を思い浮かべ、「まじか! あのひともこうだったのか!?」と爆笑する箇所が多々あった。どこで生まれ育とうとも、オシャレなものへのコンプレックスや憧れがだれしも少なからずあるはずで、共感せずにはいられない作品だ(若いころからオタク街道一直線だった私ですらも!)。ただ、主人公はナイーブすぎるかなとも感じた。SNSで、自分が彼氏の「オシャレな暮らし」のネタになってることに衝撃を受けているが、「そんなもん気にするな」と言いたい。いや、気になってしまうのがいまの時代というものかもしれないが、じゃあ、主人公自身も「オシャレな彼氏」を消費しているように見えるのは、どう説明するのか。結局は同じ穴のムジナじゃないのか? 本作のなかで、主人公は世界の広さや奥深さに真に気づけたとは言えず、自身の半径五メートル(ネットのなかも含め)で話が終始しているのが惜しい。狭いと感じていたはずの半径五メートルのなかに、実は多様性も異界も息づいており、そこに気づけてこそ、真に「他者」と知りあえるのではないかと個人的には思うのだが、いかがだろうか。つまり、主人公がもう一段階(内的に)飛翔するまでを描かなければ、話のつくりとしてスカッとしないのではないか。「主人公はどこで暮らそうと一生、半径五メートルの世界で、そこにひそむ豊穣に気づきもせず、『狭い、狭い』と言ってるんだろうな」と読者に思わせてしまうのは、本作の場合、決定的に損だと思う。作品にまばゆいきらめきがあるのはまちがいないので、今後も世界(他者)と自己、その豊穣について、考察と体感を深めていっていただきたいと願う。
『夜の西国分寺』は、ハッとさせられる表現が多々あり、肌がひりひりするような実在感と恋愛の記憶が、非常に胸に迫ってきた(タイトルは『雨の西麻布』みたいなので要一考)。作者はこれまで何度も最終候補に残っており、そのたびに作品に着実な進歩が見られた。同時に、ぶれることなく、ご自身のなかにある「書きたい種」を育てつづけていることもうかがわれた。今回、見事に読者賞受賞に至ったことを心から喜びたい。本作は登場人物も魅力的だし、ほのかなユーモアもあって、ぐいぐい読ませる(なぜ父親が、「あなたには子どもはできません」と言われたことを鵜呑みにしたのかなど、少々謎な言動もあったが)。ただ、冒頭のイカのエピソードに疑問を感じる。その描写の生々しさ(生臭さ)と、物語の中核となる若いころの恋愛&友情譚とが、うまく絡みあっていないからだ。私だったら、主人公の現在の生活(家族とのやりとりなど)を冒頭で具体的に描き、そのなかの些細な出来事(生臭くはない、むしろきらめき寄りの出来事。子どもがはじめて乗る武蔵野線にはしゃぐとか)をきっかけに回想に入るかなと思った。そのほうが作品のバランスが取れる気がするためだ。イカの生々しさにこそ、作者が語りたい「なにか」、作品の肝があるのだということは推察されるが、そこに引きずられすぎると、「整理しきれていない作品」という印象を読者に与えてしまうおそれがある。冷静かつ客観的に、作品にとって最良のジャッジメントを下すのが作者の役割のひとつだ。作品のためになるのならば、個人的な思い入れや当初のアイディアを推敲の段階で切り捨てることも、場合によってはためらってはならない。今後も、「書きたい種」を大切になさりつつ、「種」から生まれてくる葉や花を、作品としてどう結晶させれば読者により深く鮮やかに伝わるか試行錯誤しながら、書いていっていただきたい。
 今回は、『金魚鉢、メダカが二匹』を、辻村さんも私も一番に推した。素敵な恋の話だなとキュンキュンしながら読んでいたら、さりげなく企みが施されていて、「えー!」と思わず叫んだ。語り手がやや自意識過剰に見えなくもないなと思っていたのだが、恋物語ならば自意識が多少過剰になっても当然だし、「そういうこと」であるのなら、語り手は自意識過剰では全然ないということになり、納得だ。ネタバレを防ぐため、未読のかたにはわけがわからん選評になっていると思うが、お許しください。とにかく、うまい。文章もいいし、構成や情報提示の段取りも巧みで、私はすっかりだまされたうえに、読後に切ない余韻が残った。読者をだまそう、驚かせよう、というのが作品の主眼ではなく、語り手をはじめとする登場人物の心情、なにげない日常のやりとりと鮮烈な記憶を、読者に伝えようとする情熱に満ちているところが、本作のうつくしさだ。もちろん、細かい点で気になる部分はある(舞台となる町に、もう少し具体性を持たせたほうがいいのではないかとか、真相を知ったあとに読み返すと、ちょっと描写が的確ではないのではと思えるところがあったりとか)。タイトルもそのものズバリすぎるので要一考。しかし、そんなのは些細なことだし、すぐに直せる。色気のある男。ちゃんと生活感のある人々。一生に一度の、目に映る世界を輝きに満ちたものに変えてしまうほどの恋。キュン死にするかと思った。そして、人間にとっての幸せとなり、真の救いとなるものについて、つまり愛について、考えずにはいられなかった。
 つい熱が入ってしまい、異様に長くなってすみません。それぐらい粒ぞろいだったので、今回受賞に至らなかったかたも、どうかご自分のペースで、今後も小説を書いていってください。また拝読する日を楽しみにしております。