新潮社

我々が痛みに対して本当に敏感なのはどの部分か

編集 これまでの天童ファンが読んだら、こんなの天童じゃないというふうに叫ぶ人が出てくるかもしれない。単純に言って、主人公の万浬は、私たちを癒してくれる存在じゃありませんからね。

天童 読者を癒そうという意図があって『永遠の仔』を書いたわけではないのだけれども、結果的に生きることに苦しさを覚えている多くの人に届いた。『悼む人』の場合も同じです。今、生きることの扱いの不平等さと死に対する不平等さが実はリンクしているのではないかという発想を形にしたものですが、結果的に癒しにつながるものがあったということなんでしょう。『孤独の歌声』では、人は時に孤独であることによって、生きていく上での大事な秘密の場所を確保できるのに、一方的にそれを辛いもの悪いものと捉えるのはおかしくないかという疑問を投げかけたつもりです。『家族狩り』にしても、家族を無条件によいものとする捉え方に対しての異議申し立てだった。そして、その異議申し立てを待ち望んでいた人が多かったということなんじゃないかと思うんですね。そもそも人間は、癒そうと思って癒せるものじゃないし……。

編集 今回の作品のモチーフは「痛み」です。トライしようと思ったきっかけは何ですか。

天童 最初は、肉体的に痛みを感じない人に対しての興味が強くあって、それもやはりこの世界に対する異議申し立てになる存在だと思ったんですね。現代人は痛みに対してすごく敏感だけど、それを感じない人がこの世界をどう見るだろうかということに興味があった。『家族狩り』を書き終えて、痛みとはそもそも何だろうと思いを巡らせているとき、ふと気づいたんです。我々が本当に痛みに対して敏感な部分、それは実は心なのではないかと。精神的な痛みや怯えが引き起こしている社会的な問題のほうが、より大きいのではないか。そう考えてくると、体に痛みを感じない人間ではなくて、心に痛みを感じない人間を主人公にしたほうが、より力のあるものになるんじゃないかと考え始めたわけです。

編集 冒頭から驚くんですけれども、ペインクリニックの治療の現場の描写がすごい。天童さんは入念な取材をされる方ですが、取材の際のポイントは何でしたか。

天童 自分がその人物になりきって表現するというタイプの書き方をしてきたものですから、今回も、参考資料など外部から見える治療のあり方だけではなくて、自分が本当にクリニックの医師としての日常に身を置いたら何が見えてくるか、何を考えるだろうか、また患者から何を感じ取るだろうかといったことが焦点になりました。

編集 そもそも痛みとは何だろうかという問いかけが、この作品には常に行われていますね。

天童 痛みは嫌なもの、取り除くべきものというのが、我々の常識ですね。この痛みがなければどれだけ楽だろうかというように。しかし、ちょっと調べると、痛みがあるから人間は人間であり得る、つまり命を保ち得るのだという事実に行き当たったときに、まず驚きがあったわけです。ああ、確かにそうだ、痛みはシグナルになっていると。そこを起点に突き詰めていくと、愛や憎悪、セックスやテロなどにも、ある種の痛みが介在していることが視野に入ってくる。だけど心に痛みを感じない人物を主人公にしたとして、さてどんな物語ができるのだろうって、すごくそこでもがいたんですね。

セックスを通しての人体実験、自己確認

編集 その先に機軸となる設定が見えてきたと……。

天童 新潮社では『家族狩り』の次の作品に当たるから、強烈なインパクトを持ったサスペンス的なものにしたい。ある程度のプロットができかけるんですけれども、何か足りない気がして、何だろう、何だろうと唸っていたときに、だったらいっそ心に痛みを感じない人間と肉体に痛みを感じない人間のアイデアを合体させたらどうか……両者の出会いから、ある種の歪んだ愛のストーリーになったら、ひとつ上の次元に進めるのではないかとひらめいたわけです。でもこの二者の間で愛の物語というのは成立するのだろうか。我々は心に痛みを感じるがゆえに愛を感じる存在なのかもしれない。この人を喪うと嫌だとかね。その一方で、肉体に痛みを感じない人間についても、セックスをしたときに一般的な快楽を感じるだろうかと想像が及んでゆく。セックスにおいて、ある種の痛みがエッセンスとして介在するのは間違いないですから。別にSM的なことじゃなくても、噛んだりつねったりといった行為も日常的にある……。最終的に、痛みのない二者、ふつうだと深い関係の成立しない者同士の中に成立させ得るものがあるとすれば、それはフィクションとしてすごいエネルギーを生むだろうと考えるに至った。この二人は、愛は無理でも性愛は可能ではないか。そこを軸にしていくと、痛みを通して人間が存在していく意味が問い直せるのではないかと。

編集 万浬は森悟に対して、人体実験でもするようなセックスを仕掛けますよね。克明なセックス描写が幾度も現れる。

天童 理詰めで考えていくと、森悟と出会った万浬が一番興味を持つのは、肉体に痛みを持たない人の快楽の有無であり、快楽のありかでしょう。体の表面が痛くないのはわかっていても、セックスとの関係については文献を調べても載っていない。彼女は医者として研究者として、そこは知りたいだろう。言ってみればここが二人の性愛小説を書くことの一番の核だと思ったわけです。いかに細かく順序立てて、いわゆる前戯から始まって一つ一つ性戯をきわめてゆく、このあたりの描写を入念に行うことこそが、痛みについてのテーマ、聖と俗、ロジックと肉体、両面をきちっと押さえていくことになるはずだ。絶対に外せないと。それこそ「こんなの天童じゃない」と言われようが何しようが、ここを書くことが、言ってみれば、オンリーワンであるための作家としての表現だったわけなので。

編集 一方、森悟はどういう経緯でペインレスになったかという件りも注目されますね。痛みを避けようという目的で相手に痛みを与えるために武装をして自分を守る――それが戦争につながっていくんだという指摘にまず覚醒させられますが、そのロジックを推し進めれば、セックスに代表されるような欲望の拡大を体現しているのが現代のグローバル企業ということになる。そこに森悟は勤めていて、前近代を象徴するような紛争地帯に行ってテロに遭う……。

天童 森悟のバックグラウンドを欠いては、この時代にこの小説を表現することの意味も出てこない。誰もが戦争とか紛争は嫌がっているのに、テロと報復は果てしなく連鎖する。その一方で当事者以外の人々は無関心そのもの。この現代に起きている血腥い出来事とそれに対する無関心、これらの根底にある痛みを捉えていくには、彼自身にそうした社会性なり世界像を背負わせたほうが、同時代の小説としての意味が出る。他方で性愛を描くわけですからコントラストも強く出せると考えたんです。

編集 紛争地帯で彼は、前近代の側から試されますね。肌も露わな女性たちや幼さの残るを少女を眼前にしながら、彼の背負っている近代が根本から問われるシーン……。

天童 シンボル化しているので、森悟は男だけれども、女性でも立場を変えればあり得ることでしょう。我々は、どれだけ理想や思想、信念を持っていようとも、自分の人間としての限界を超えられない部分があるのではないか。現代人は、結局欲望を拡大させるばかりでその限界を見極めないままやってきたけれど、この境界線みたいなものを、いかに人間の欲望を通して表現し得るか……。

進化するモンスター

編集 主人公・万浬にも、当然ながらいろいろな人々との歴史がありますね。成長期には、教育実習中の女性教師や、妹を精神的限界まで追い詰めたり、サイコパスの殺人犯に接近したりする。しかしここには背景としての虐待といったものは決して描かれないですね。トラウマを抱えた末に彼女が出来上がったわけではない……。

天童 彼女とその一族の歴史に、日本が経験した戦争をも含めて筆を割いたのは、痛みとか怯えとかいった人間が抱えている限界をより浮き彫りにするためです。我々が知性や理性によらず感情のみを優先させ、臆病に生きてきたことによって、世界がもう少しで滅びるかもしれないところまで来てしまった。彼女がトラウマによって存在しているのであればそこが表現できなくなりますから。そしてもう一つのモチーフである「進化」というものにつながらなくなる。

編集 トラウマとは無縁、というところが新鮮ですね。

天童 成長プロセスの彼女は、他者との関係において、自分が痛みを感じないことが、いかに他人に作用し得るかをどんどん試していくだろう。何において試すかというと、やはりセックスだろうと思ったんです。その相手に教育実習生をあえて選ぶ。彼女はそうやって一皮ずつ剥けてゆく。モンスターが少しずつ餌を取り込んで大きくなっていくようなイメージですかね。

世界に対して「ノー」を提示する

編集 一方の世界では、亜黎という青年が登場します。先ほど天童さんの言葉の中に進化という言葉が出てきましたし、アポトーシスという生物の進化に欠かせない専門用語が作品の冒頭にも使われていますが、進化という言葉を繰り返し使うのがこの亜黎です。

天童 血の気の多い政治屋がボタンを一つ押したら、大量の人間が死滅するところまできちゃった現代の状況において、これは人間である限り解決不能ということなんだろうと思うんです。そのことを我々もそろそろ認めたほうがいいんじゃないかなと。亜黎という一人の見え過ぎる人間、彼は第二次大戦で原子爆弾を経験しているという設定なので、その見え過ぎる目からは、今の人間である限りは平和や平等な世界など所詮無理なんだという結論が出る。しかし人間を超えるものがもし生まれたら、可能性や希望が生まれるかもしれない。そこににちょっと賭けてみようという人物が彼なんです。これもやはり、この世界に対する異議申し立ての一つです。

編集 その亜黎が、俺、結婚するんだと言い出して、その相手が意外や安酒場のマダムなわけですね。鮮烈なパラドックスです。

天童 最後に悩んで悩んで出てきたのが、「通俗であること」だったんです。何だよ、これ、三文記事じゃねえかというような通俗性が、逆に普遍性につながるという発想がぽーんと出た。

編集 この作品は色んな意味で挑発的ですね。

天童 人の痛みが見えない、わからない、今のこの社会がそんなふうになったのはなぜだろうと。その疑問が頭を去らなくなった。現代では自分の痛みにすごく敏感になった反面、彼も痛い、彼女も痛いという他者の痛み、これを知的に、理性的に捉えて、思いやりの声をかけようというふうに行動するんじゃなくて、むしろ痛みを訴えて立ち上がった人たちに対して差別的になったり責めたりする。例えば沖縄の基地に反対している人に対して、すごく反感を持ってしまう。こうした状況にセンシティヴにならないと、もっと怖い時代が訪れるだろうという意識はありますね。

編集 それこそ読者を挑発するポイントの一つですよね。

天童 表現というのは……何だろう、ある種の対立するものがないと、僕は表現としては弱いと思う。『悼む人』にしろ、『永遠の仔』にしろ、『家族狩り』にしろ、現実を見ているようで見ていなかった人に、こういうことが起きているじゃないか、気づかないままでいいのかという、ある種の挑発を含んでいます。僕にとって表現というのは、今ある社会とか、今日の人々のあり方に対して、誰もが心の底で願っている窮極のイエスのために、一つのノーをいかに提示し得るか、そこにかかっているんです。

 最新刊の長編小説『ペインレス』の作者・天童荒太さんの講演会が開催されました。

 5月29日、神楽坂のla-kaguにて、『永遠の仔』『悼む人』等のベストセラーで有名な天童荒太さんをお招きして行われたイベントは、主催者側が予想もしていなかった形で盛り上がりました。ご本人が「人生初、次回予定なし」と断言するように、講演と名のつくものをしない天童さんですから、文字どおり空前絶後、超レア物の講演会となったわけです。

 4月の刊行以来高い評価を得ている『ペインレス』の刊行を記念して行われたこのイベント。当初は参加者と作家の一問一答形式を考えていたのですが、予め作品を読んだ方々から寄せられた質問の数々を見た天童さん、何と、質問に応える形の講演原稿まで用意されていたのです! 編集部でさえビックリ仰天の熱い90分となった次第です。

 題して「Q&A的 小説作法講義」。テーマにもとづくキャラクター造形やストーリー展開について、映画や演劇など他の芸術ジャンルとの関係について、またタイトルや登場人物の命名法について等々、九つのチャプターに及ぶ天童的小説作法が、本邦初公開となったわけです。当夜の講義録は「webでも考える人」にその全容が掲載されることが急遽決定していますが、ここではその一部を、Q&Aに限定して、かいつまんでご紹介してみました。

 主人公のような「心の痛みを感じない人」というのは実在するのでしょうか。モデルになった人はありますか。またサイコパスとは違うんでしょうか。

 生まれつき体に痛みを感じない人は実在し、辛い日常を強いられています。しかし心に痛みを感じない人というのは実在するかしないかは別にして、私の創作です。長い間痛みについて考え続けてきたんですが、あるときふと気づいたのは、より強く痛みを感じるのは体よりも心の方なんじゃないかということです。ただ、心の痛みのない人が、過去のトラウマからそうなったという設定では、それはよくあるサイコパスになってしまう。心に痛みがないというモチーフを「進化」というテーマにまで高めるためにはどうすべきか、それを長い歳月を費やしながら考えたんです。

 私が小説の第一稿を書きだす前に必ず行うことがあって、それは登場人物一人一人についての創作ノートなんです。『ペインレス』でも数冊の分厚いノートを作りました。その人物の誕生から今日までの履歴を一つ一つ作ってゆくんです。よくあるようなキャラクター設定とは違います。その人が過去に犯した罪はどんなものか、どんな恋をしたか、どんな別れがあったか。そうしたことを想像してノートを埋めてゆく。もうエピソード満載です。

 これは大変だし苦しい作業ですけれど、実際小説に手をつけたあとは、このノートがあるから盤石です。余計な迷いがなくなりますからね。

 心に痛みのない人、作中では主人公の万浬ですが、彼女が存在するとしたらどんな会話をしどんな動きをとるか。これがなかなか難しくノートの段階でも苦労の連続でした。感情を持たないわけではないが、例えば、彼女が幼いとき、童話などで人が死ぬお話を聞いても、涙を流したりはしないだろう。だけどそんな自分が他者と決定的に違っていることにやがて気づくだろう。そのとき彼女はどんな行動に出るだろうか……。そんなディテールを想像しながら、様々なエピソードを考えていったんです。

 心に痛みを感じない万浬、体に痛みを感じない森悟を含め、もし一週間だけ物語の登場人物になれるとしたら誰になってみたいですか。また、亜黎が今も生きていて万浬と出会ったとしたら、二人の関係はどうなっていると思いますか。

 この質問をされた方は、作家の資質を十分持った方だと思います。こうした仮定から来る想像は、一種の妄想ですね。この妄想こそが表現の原点なんです。子供はよく妄想しますね。ゴジラとガメラが戦ったらどっちが強いだろうかだの、もし今、恐竜が生まれたらどうなるかだの。こうした妄想を起点に新しい創造が生まれるんだと思います。質問された方は『ペインレス』を読まれた上でこの妄想をされたわけですが、最初の質問については、自分としては森悟に近い存在だと思っているとしかお答えできないし、後者に関しては年老いた亜黎という形を考えてもみなかった……。ただ、思うのは、万浬が亜黎から何らかの示唆を受けるならば、この作品の続編が出来るだろうということです。

 取材はどんなふうにされていますか。

 たとえば医療の現場については、ペインクリニックを何度も訪ねて話を聞く、資料に可能な限り当たる等々はもちろん、今回は専門家の研究会に潜り込んで質問までさせてもらう一幕までありました。私は、病院を描こうという段になると、診察室の間取りをはじめ図面を引いてみるんです。動線が大事ですしね。それから病院の経営状況。何人雇っていて看護師の給料はいくらで、とか。そこまでやらなくても適当に書けるかもしれないけれど、私はそのタイプではない。また舞台の状況を把握するために何人かの人に話を聞きますが、私の場合、主人公にするような当事者に取材することはしません。二度三度しか会わない人が本音を漏らしてくれるとは思えないというのが理由の一つ。もう一つは、小説の主要登場人物だから耳ざわりのいい話ばかり書くわけにはいかない。当事者に会うことで手を縛られた状態になりますから。

 人物のネーミングの方法について教えてください。

 例えば主人公の万浬ですが、彼女はフランス人の血が入っている。また進化の象徴でもある。なので、まずは西洋でも通じるマリという音にしようと。用字は航海用語のマイルに当たる「浬」を宛てて、一万海洋マイルの彼方にいる女性というイメージを演出しました。

 亜黎は戦前の生まれなので「亜細亜の黎明」という意味合いを出しました。肝心なことは、名前は親がつけるものだという点です。親が子に何を希って命名するだろうか、これは大事なポイントです。

 予定時間をはるかにオーバーしての講演でしたが、参加した人たちからは、時間の経つのを忘れさせるひと時だったと、感激の声をたくさんいただきました。

 ご興味のある方は「webでも考える人」を是非ご覧になってください。

天童荒太テンドウ・アラタ

1960(昭和35)年、愛媛県生れ。1986年「白の家族」で野性時代新人文学賞を受賞。映画の原作・脚本を手がけたのち、1993(平成5)年に『孤独の歌声』が日本推理サスペンス大賞優秀作となる。1996年、『家族狩り』で山本周五郎賞を、2000年には『永遠の仔』で日本推理作家協会賞を受賞。2004年、『家族狩り オリジナル版』の構想を元に新たに書き下ろした新潮文庫版『家族狩り』全五巻が話題を呼んだ。他の著書に『あふれた愛』『包帯クラブ』などがある。

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