『碾臼』から半世紀、八十を前にした大家が描く英国の枯れない老人たち。

昏い水
読み仮名 | クライミズ |
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シリーズ名 | 新潮クレスト・ブックス |
装幀 | Saori Kuwabara/イラストレーション、新潮社装幀室/デザイン |
発行形態 | 書籍、電子書籍 |
判型 | 四六判変型 |
頁数 | 386ページ |
ISBN | 978-4-10-590144-8 |
C-CODE | 0397 |
ジャンル | 文芸作品 |
定価 | 2,484円 |
電子書籍 価格 | 2,484円 |
電子書籍 配信開始日 | 2018/03/09 |
知的で辛辣、自由を重んじ、七十代のいまも仕事のため遠方まで車を走らせるフランチェスカ、病床にあるどこか憎めない元夫、高級老人ホームで悠々自適の女友だち、恋人を突然亡くした息子が身を寄せるカナリア諸島のゲイの老カップル……。いかにも英国的なユーモアをちりばめながら、人生の終盤を生きる人々を描く長篇小説。
著者プロフィール
マーガレット・ドラブル
1939年、英国シェフィールド生まれ。ケンブリッジ大学で英文学を学ぶ。ロイヤル・シェイクスピア・カンパニーの女優を経て、1963年『夏の鳥かご』で作家デビュー。1965年、未婚の母を描いた『碾臼』がベストセラーに。その他の作品に『氷河時代』『黄金の王国』など。文芸評論家としても活躍。2011年には功労賞の「ゴールデン・ペン・アワード」を受賞。姉はブッカー賞作家のA・S・バイアット。
武藤浩史 ムトウ・ヒロシ
1958年、東京生まれ。慶應義塾大学文学部英文科卒。英国ウォリック大学博士課程修了。慶應義塾大学法学部教授。訳書にD・H・ロレンス『海とサルデーニャ』『チャタレー夫人の恋人』、著書に『ビートルズは音楽を超える』など。
書評
老いに向き合う華麗な小説
老いをあつかって華麗な長編小説である。死の気配はふんぷんとしているし、苦みも澱みもたっぷり滲んでいる。なのに、華麗。
イギリス文学の大家マーガレット・ドラブルによる新作なのだが、ドラブルといえば思いださずにはおられないのが代表作として知られる『碾臼』だ。1965年発表、世界中で絶賛された第3作で、日本では71年に刊行された(私が初めて読んだのは河出文庫版だったが、灘本唯人のカバーのイラストレーションが鮮烈だった)。未婚の母として生きる若い女性の姿は時代の先端だったし、それ以上に読者の心をとらえたのは、子どもや他者との触れ合いによって成長してゆく人間的な姿だった。中産階級知識人の家庭に育ったドラブルはまだ20代、現代人の孤独をしなやかに解いて一躍著名になった当初から、颯爽とした空気をまとう存在だった。
現在ドラブルは80代目前、いよいよ老いと死と向き合って書かれたのが本作『昏い水』である。『碾臼』では命のはじまりを、19作目の長編小説にあたる本作では人生の終焉を。そう考えると、最初の1ページをめくるとき、ひとりの女性作家の軌跡に立ち会うのだ、と動悸がした(なにしろ冒頭1行目が、「自分にむかって言うこの世の最後の言葉は、結局のところ、『バカッたれ』か、あるいは、気分や時間次第で、『このドアホッ』になるのではないか」だったので、よけいに……)。
主人公フラン・スタブズは住宅福祉の専門職に就く70代の女性だ。結婚歴は2度、最初の夫は医者として社会的な成功を収め、2度目の夫は人のいい男だったが亡くなった。現在、フランは高級マンションに独居する元夫クロードを見かねて定期的に食事を届け、気がついたら50年も前に離婚した男の世話をしている。そんな理不尽な状況を「放浪生活」と自嘲し、と同時に自分の身に迫る老いの影に動揺する日々。微細な角度から女性の内面を照らして描きだされるのは、生と死のリアルなせめぎ合いだ。自分の人生は償われるのだろうか、という恐怖やあせり。にもかかわらず、光に手を触れるような親密さをおぼえる。ちょっとした皮肉、滑稽さが随所に織り込まれてにやりとさせられるのもイギリス的だけれど、それらを上回って感じるのは、ドラブルという作家の人間洞察の余裕である。いかなる人間にとっても老いは未知の体験、誰もが混乱せずにはいられないのだから、と終始ささやきかけている。
多彩な人物が登場し、小説世界は巧緻な万華鏡のようだ。フランの2人の子どもの劇的な人生。退路を断ってカナリア諸島に住む、老齢のイギリス人歴史家と年下の男のゲイのカップル。思うにまかせない余生を暮らす親友の女たち。みずから命を絶つ老女優……老いの諸相がそれぞれを複雑に照射し合い、死の気配に身をさらす人々になぜかまぶしさを感じる。随所に措かれるイエイツ、ワーズワース、シェイクスピアほか文学作品や聖書からの引用を、文学研究者の一面をもつドラブルの果実として受け取るのも贅沢な読み心地だ。
本作の企てのひとつは、地下層のごとく配置された自然の存在感だと思う。その理由について、写真家J・レヴィンスキーとの共著『風景のイギリス文学』(奥原宇・丹羽隆子訳、1993年、研究社出版)のなかで、ドラブルはこう述べている。
「ロマン派の大詩人たちが、湖、山、ムア、牧草地を讃えてうたった19世紀とくらべて、現在の私たちは自然のもろさをずっとよく認識しています。自然には人間はいつかは死ぬものだという思いを私たちにいだかせると同時に、不滅への期待をいだかせる何かがあります。ワーズワスの有名なことばを借りれば、土地そのものが『不滅性の予兆』をあたえてくれるのです」
自然は、人間の命を脅かしもする。終始、小説世界に不穏な影を落とす火山、地震、島、津波、どしゃぶり、ぬかるみ。それらが、知らず押し寄せ、抗いきれない老いの揺らぎをいや増す。
フランは、川がふくれ上がった運河沿いの道で立ち往生するが、彼女は車をバックさせるのが大嫌いだ。「生きて、生きて、もう生きられなくなるときまで、生きる」。終幕、フランが手を触れる光が『碾臼』とみごとに呼応していることにも心を動かされ、そのとき、足元から湧きあがる昏い水と向き合うこの小説をまったく華麗だと思った。
(ひらまつ・ようこ エッセイスト)
波 2018年3月号より
単行本刊行時掲載