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ペインレス 上巻

天童荒太/著

1,650円(税込)

発売日:2018/04/20

  • 書籍

「診察したいんです。あなたのセックスを」

テロで体に痛みを感じなくなった青年。それは若き美貌の女医にとって舌なめずりの出る実験台だった。生来心に痛みを覚えたことのない彼女は、快楽の在処を求めてセックスし、解析する。この世が痛みと愛から成り立っているなら、私たちはその向う側を目指すべきじゃないかしら? 愛のモンスターは一体どこまで進化するのか。

目次
プロローグ
第一部
第二部

書誌情報

読み仮名 ペインレス1
装幀 Gustav Klimt『Wasserschlangen II(Freundinnen)』より/装画、新潮社装幀室/装幀
雑誌から生まれた本 新潮から生まれた本
発行形態 書籍
判型 四六判変型
頁数 304ページ
ISBN 978-4-10-395703-4
C-CODE 0093
ジャンル 文学賞受賞作家
定価 1,650円

書評

もはやトラウマではない――天童作品の切っ先を探る

紫野京作

『ムーンナイト・ダイバー』は天童荒太の小説の中で最も「死」に接近遭遇したケースだった。大震災に続く津波によって流出した死者たちの遺品を、秘密裡に回収しようというグループが結成され、彼らに依頼されたダイバーがその任に当たるという設定なのだが、主人公は深夜の海底を彷徨いながら物言わぬ死の欠片をかき集めることになる。そして彼は、その都度性的な昂ぶりを抑え切れなくなってしまうのだ。
 3・11の海からこんな小説を構想する作家など天童を措いていないだろう。こう書けば不謹慎だろうとか、こんな風に表現すれば被災者は癒されるだろうといった忖度は、この作家にはない。死とエロスは本来親和性の高いものだが、あえて震災後の海中といった極限状況でそのモチーフを展開するという大胆さ。加えて、その一歩先に何かが生まれ得るのではないかと読者に問いかけるものが、この作品にはあった。
 9・11直後、NY市長だったジュリアーニは、記者会見で犠牲者を悼んだあと、「ゴー・ショッピング」と付け加えることを忘れなかった。消費が衰えないことが結果的に市民生活を救うのだという了解が、市長と市民の間にあったから、この発言に異を唱える者は現れなかったが、『ムーンナイト・ダイバー』と3・11の関係はそれに似ている。
 震災後、多くの作家が被災者を癒そう、日本人を癒そうとしてほぼ百%失敗した。天童作品は震災を素材とした小説の中で唯一の成功例だろう。何となれば、癒しといった小説の外側にある倫理観や常識に縛られていないからだ。小説本来のテーマの自由度が小さければ読者の感動もまた少ないのは道理だろう。坂本龍一との対談集『少年とアフリカ』の言葉を借りるなら「人間は癒そうとして癒せるものじゃない」のである。
「癒し」のイメージがいつの間にかついてしまった天童だが、実は一貫して読者を挑発してきたことが忘れられてはいまいか。『孤独の歌声』では、通念とは逆に孤独のプラス面を強調し、『家族狩り』では愛しすぎて殺し合う所まで行ってしまう家族像を描いた。これらは社会通念への堂々たる異議申し立てであって、奇を衒った逆張りの発想などではない。
 今回の長編『ペインレス』の主人公は、心の痛みを生来覚えたことのない女医だが、彼女の言動を追いながら、心に浮かんで去らなかった天童作品がある。『どーしたどーした』(イラスト・荒井良二)という絵本だ。小学三年生のゼンは、気にかかったことがあれば知らない人にでも「どーした」と尋ねるクセのある少年。隣近所で困っている人がいるとき、この「どーした」が活きてくるというストーリーで、一言でいうなら「共感」の大切さをテーマにした絵本ということになる。ロバート・ケネディがキング牧師暗殺の報に接した折の演説で「コンパッション」(=共感)と叫び、その直後に狙撃されたのが今からちょうど五十年前のことだ。
 思えばこの言葉、今の日本では使用頻度がひどく減少しているようだ。逆に「痛み」の方は増大の一途にある。ひょっとするとこの両者は反比例の関係にあるのかも知れない。
 天童作品でも、肉体的痛み、精神的苦痛については『永遠の仔』『家族狩り』等で入念に描かれてきた。虐待する側される側の双方から長編小説をものしてきた著者だけに、『ペインレス』における「心の痛みを持たぬ主人公」という設定は意外だった。同時にトラウマが全く扱われていないことも注目される。この作品は、虐待ゆえのトラウマから問題行動に走るといった因果律の支配する世界ではない。謎解きミステリーにおける動機と犯行を結ぶロジックが天童作品から姿を消したということだ。
 わが国の最先端にいる女性作家たち、例えば宮部みゆき高村薫桐野夏生も、このミステリー小説的因果律から離れつつある。『模倣犯』『冷血』『柔らかな頬』をその視点から読み返せば明らかだろう。
『ペインレス』では、旧来の動機や原因に当たる部分に、トラウマの代りにDNAや「進化」といったものを据えている。『ムーンナイト・ダイバー』では天災が同じ位置を占めている。それが何を意味するかは明らかだろう。トラウマを起点に現代を読み解くことにはもう無理があるのだ、あるいは原因と結果の方程式を夢想することには限界があるのだ、ということを、天童作品の流れは端的に示している。
 その先を考えなければ小説の未来はないと、天童荒太は思い定めているに違いない。

(しや・きょうさく 文芸評論家)
波 2018年5月号より
単行本刊行時掲載

インタビュー/対談/エッセイ

痛みの進化論

天童荒太

構想20年の長編小説のテーマは「痛み」。現代人が自分の痛みにひどく敏感になったのは何故だろうか――人類の「進化」にまで筆を及ぼした著者に、創造への道筋を尋ねた。

我々が痛みに対して本当に敏感なのはどの部分か

●これまでの天童ファンが読んだら、こんなの天童じゃないというふうに叫ぶ人が出てくるかもしれない。単純に言って、主人公の万浬は、私たちを癒してはくれませんからね。

天童 読者を癒そうという意図があって『永遠の仔』を書いたわけではないのだけれども、結果的に生きることに苦しさを覚えている多くの人に届いた。『悼む人』の場合も同じです。今、生きることの扱いの不平等さと死に対する不平等さが実はリンクしているのではないかという発想を形にしたものですが、結果的に癒しにつながるものがあったということなんでしょう。『孤独の歌声』では、人は時に孤独であることによって、生きていく上での大事な秘密の場所を確保できるのに、一方的にそれを辛いもの悪いものと捉えるのはおかしくないかという疑問を投げかけたつもりです。『家族狩り』にしても、家族を無条件によいものとする捉え方に対しての異議申し立てだった。そして、その異議申し立てを待ち望んでいた人が多かったということなんじゃないかと思うんですね。そもそも人間は、癒そうと思って癒せるものじゃないし。

●「痛み」というテーマにトライしたきっかけは何ですか。

天童 最初は、肉体的に痛みを感じない人に対しての興味が強くあって、それもやはりこの世界に対する異議申し立てになる存在だと思ったんですね。現代人は痛みに対してすごく敏感だけど、それを感じない人がこの世界をどう見るだろうかということに興味があった。『家族狩り』を書き終えて、痛みとはそもそも何だろうと思いを巡らせているとき、ふと気づいたんです。我々が本当に痛みに対して敏感な部分、それは実は心なのではないかと。精神的な痛みや怯えが引き起こしている社会的な問題のほうが、より大きいのではないか。そう考えてくると、体に痛みを感じない人間ではなくて、心に痛みを感じない人間を主人公にしたほうが、より力のあるものになるんじゃないかと考え始めたわけです。

●冒頭から驚くんですけれども、ペインクリニックの治療の現場の描写がすごい。天童さんは入念な取材をされる方ですが、取材の際のポイントは何でしたか。

天童 自分がその人物になりきって表現するというタイプの書き方をしてきたものですから、今回も、参考資料など外部から見える治療のあり方だけではなくて、自分が本当にクリニックの医師としての日常に身を置いたら何が見えてくるか、何を考えるだろうか、また患者から何を感じ取るだろうかといったことが焦点になりました。

●そもそも痛みとは何だろうかという問いかけが、この作品には常に行われていますね。

天童 痛みは嫌なもの、取り除くべきものというのが、我々の常識ですね。この痛みがなければどれだけ楽だろうかというように。しかし、ちょっと調べると、痛みがあるから人間は人間であり得る、つまり命を保ち得るのだという事実に行き当たったときに、まず驚きがあったわけです。ああ、確かにそうだ、痛みはシグナルになっていると。そこを起点に突き詰めていくと、愛や憎悪、セックスやテロなどにも、ある種の痛みが介在していることが視野に入ってくる。だけど心に痛みを感じない人物を主人公にしたとして、さてどんな物語ができるのだろうって、すごくそこでもがいたんですね。

セックスを通しての人体実験、自己確認

●その先に機軸となる設定が見えてきたと……。

天童 新潮社では『家族狩り』の次の作品に当たるから、強烈なインパクトを持ったサスペンス的なものにしたい。ある程度のプロットができかけるんですけれども、何か足りない気がして、何だろう、何だろうと唸っていたときに、だったらいっそ心に痛みを感じない人間と肉体に痛みを感じない人間のアイデアを合体させたらどうか……両者の出会いから、ある種の歪んだ愛のストーリーになったら、ひとつ上の次元に進めるのではないかとひらめいたわけです。でもこの二者の間で愛の物語というのは成立するのだろうか。我々は心に痛みを感じるがゆえに愛を感じる存在なのかもしれない。この人を喪うと嫌だとかね。その一方で、肉体に痛みを感じない人間についても、セックスをしたときに一般的な快楽を感じるだろうかと想像が及んでゆく。セックスにおいて、ある種の痛みがエッセンスとして介在するのは間違いないですから。別にSM的なことじゃなくても、噛んだりつねったりといった行為も日常的にある……。最終的に、痛みのない二者、ふつうだと深い関係の成立しない者同士の中に成立させ得るものがあるとすれば、それはフィクションとしてすごいエネルギーを生むだろうと考えるに至った。この二人は、愛は無理でも性愛は可能ではないか。そこを軸にしていくと、痛みを通して人間が存在する意味が問い直せるのではないかと。

●万浬は森悟に対して、人体実験でもするようなセックスを仕掛けますよね。克明なセックス描写が幾度も現れる。

天童 理詰めで考えていくと、森悟と出会った万浬が一番興味を持つのは、肉体に痛みを持たない人の快楽の有無であり、快楽のありかでしょう。体の表面が痛くないのはわかっていても、セックスとの関係については文献を調べても載っていない。彼女は医者として研究者として、そこは知りたいだろう。言ってみればここが二人の性愛小説を書くことの一番の核だと思ったわけです。いかに細かく順序立てて、いわゆる前戯から始まって一つ一つ性戯をきわめてゆく、このあたりの描写を入念に行うことこそが、痛みについてのテーマ、聖と俗、ロジックと肉体、両面をきちっと押さえていくことになるはずだ。絶対に外せないと。それこそ「こんなの天童じゃない」と言われようが何しようが、ここを書くことが、言ってみれば、オンリーワンであるための作家としての表現だったわけなので。

●一方、森悟はどういう経緯でペインレスになったかという件りも注目されますね。痛みと強い相関関係にある欲望の拡大を体現しているのが現代のグローバル企業。そこに森悟は勤めていて、前近代を象徴するような紛争地帯に行ってテロに遭う……。

天童 森悟のバックグラウンドを欠いては、この時代にこの小説を表現することの意味も出てこない。誰もが戦争とか紛争は嫌がっているのに、テロと報復は果てしなく連鎖する。その一方で当事者以外の人々は無関心そのもの。これらの根底にある痛みを捉えていくには、彼自身にそうした社会性なり世界像を背負わせる必要がある。他方で性愛を描くわけですからコントラストも強く出せると考えたんです。

●紛争地帯で彼は、前近代の側から試されますね。肌も露わな女性たちや幼さの残る少女を眼前にしながら、彼の背負っている近代が根本から問われるシーン……。

天童 シンボル化しているので、森悟は男だけれども、女性でも立場を変えればあり得ることでしょう。我々は、どれだけ理想や思想、信念を持っていようとも、自分の人間としての限界を超えられない部分があるのではないか。現代人は、結局欲望を拡大させるばかりでその限界を見極めないままやってきたけれど、この境界線みたいなものを、いかに人間の欲望を通して表現し得るか……。

進化するモンスター

●主人公・万浬の成長過程も凄味がありますね。教育実習中の女性教師や妹を、精神的限界まで追い詰めたり、サイコパスの殺人犯に接近したりする。しかしここには背景としての虐待といったものは決して描かれないですね。トラウマを抱えた末に彼女が出来上がったわけではない。

天童 彼女とその一族の歴史に、日本が経験した戦争をも含めて紙幅を割いたのは、痛みとか怯えとかいった人間が抱えている限界をより浮き彫りにするためです。我々が知性や理性によらず感情のみを優先させ、臆病に生きてきたことによって、世界がもう少しで滅びるかもしれないところまで来てしまった。彼女がトラウマによって存在しているのであればそこが表現できなくなりますから。そしてもう一つのモチーフである「進化」というものに繋がらなくなる。

●トラウマとは無縁、というところが新鮮ですね。

天童 成長プロセスの彼女は、他者との関係において、自分が痛みを感じないことが、いかに他人に作用し得るかをどんどん試していくだろう。何において試すかというと、やはりセックスだろうと思ったんです。その相手に教育実習生をあえて選ぶ。彼女はそうやって一皮ずつ剥けてゆく。モンスターが少しずつ餌を取り込んで大きくなっていくようなイメージですかね。

世界に対して「ノー」を提示する

●一方の世界では、亜黎という青年が登場します。先ほど出てきた進化という言葉、アポトーシスという生物の進化に欠かせない専門用語も作品の冒頭に使われていますが、進化という言葉を繰り返し使うのがこの亜黎です。

天童 血の気の多い政治屋がボタンを一つ押したら、大量の人間が死滅するところまできちゃった現代の状況において、これは人間である限り解決不能ということなんだろうと思うんです。そのことを我々もそろそろ認めたほうがいいんじゃないかなと。亜黎という一人の見え過ぎる人間、彼は第二次大戦で原子爆弾を経験しているという設定なので、その見え過ぎる目からは、今の人間である限りは平和や平等な世界など所詮無理なんだという結論が出る。しかし人間を超えるものがもし生まれたら、可能性や希望が生まれるかもしれない。そこにちょっと賭けてみようという人物が彼なんです。これもやはり、この世界に対する異議申し立ての一つです。

●その亜黎が、俺、結婚するんだと言い出して、その相手が意外や安酒場のマダムだった。鮮烈なパラドックスです。

天童 悩んだ末に出てきたのが、「通俗であること」だったんです。何だよ、これ、三文記事じゃねえかというような通俗性が、逆に普遍性につながるという発想がぽーんと出た。

●この作品は色んな意味で挑発的ですね。

天童 人の痛みが見えない、分からない、今のこの社会がそんなふうになったのはなぜだろうと。その疑問が頭を去らなくなった。現代では自分の痛みにすごく敏感になった反面、彼も痛い、彼女も痛いという他者の痛み、これを知的に、理性的に捉えて、思いやりの声をかけようというふうに行動するんじゃなくて、むしろ痛みを訴えて立ち上がった人たちに対して差別的になったり責めたりする。例えば沖縄の基地に反対している人に対して、すごく反感を持ってしまう。こうした状況にセンシティヴにならないと、もっと怖い時代が訪れるだろうという意識はありますね。

●それこそ読者を挑発するポイントの一つですよね。

天童 表現というのは……何だろう、ある種の対立するものがないと、僕は表現としては弱いと思う。『悼む人』にしろ、『永遠の仔』にしろ、『家族狩り』にしろ、現実を見ているようで見ていなかった人に、こういうことが起きているじゃないか、気づかないままでいいのかという、ある種の挑発を含んでいます。僕にとって表現というのは、今ある社会とか、今日の人々のあり方に対して、誰もが心の底で願っている窮極のイエスのために、一つのノーをいかに提示し得るか、そこにかかっているんです。

(てんどう・あらた 作家)
波 2018年5月号より
単行本刊行時掲載

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著者プロフィール

天童荒太

テンドウ・アラタ

1960(昭和35)年、愛媛県生れ。1986年、「白の家族」で野性時代新人文学賞を受賞。映画の原作、脚本を手がけたのち、1993(平成5)年、『孤独の歌声』が日本推理サスペンス大賞優秀作となる。1996年、『家族狩り』で山本周五郎賞を受賞。2000年、『永遠の仔』で日本推理作家協会賞を受賞。2009年、『悼む人』で直木賞を受賞。2013年、『歓喜の仔』で毎日出版文化賞を受賞する。他に『あふれた愛』『包帯クラブ』『静人日記』『ムーンナイト・ダイバー』『ペインレス』『巡礼の家』『迷子のままで』などがある。

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判型違い(文庫)

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