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愛に乱暴〔上〕

吉田修一/著

649円(税込)

発売日:2017/12/25

  • 文庫
  • 電子書籍あり

妻の座をめぐる暗闘がはじまる。
追い込まれた女がそのとき手にした〈武器〉とは?

初瀬(はせ)桃子は結婚八年目の子供のいない主婦。夫・真守の両親が住む母屋の離れで暮らし、週に一度、手作り石鹸教室の講師をしている。そんな折、義父の宗一郎が脳梗塞で倒れた。うろたえる義母・照子の手伝いに忙しくなった桃子に、一本の無言電話がかかる。受話器の向こうで微かに響く声、あれは夫では? 平穏だった桃子の日常は揺らぎ始め、日々綴られる日記にも浮気相手の影がしのびよる。

  • 映画化
    愛に乱暴(2024年8月公開予定)
目次
一 猫を捨てる人
二 愛、名誉ならびに権力
三 日陰の女
四 それぞれのパニック
五 高熱の夜
六 町医者の診断
七 ママと呼ぶパパ
八 不審火が続く
九 他のお客様もおられますので
十 猫の出入口

書誌情報

読み仮名 アイニランボウ1
シリーズ名 新潮文庫
装幀 大野博美/カバー装画、吉田修一/カバー題字、新潮社装幀室/デザイン
発行形態 文庫、電子書籍
判型 新潮文庫
頁数 256ページ
ISBN 978-4-10-128756-0
C-CODE 0193
整理番号 よ-27-6
ジャンル 文学賞受賞作家
定価 649円
電子書籍 価格 539円
電子書籍 配信開始日 2018/06/15

書評

「吉田修一小説」と私
アロハオエにチェーンソー

川村元気

 吉田修一が、隣で不味そうな蕎麦を啜っていた。
 あれは確か、十年ほど前。九州の高速道路のパーキングエリアの中にあるフードコートだった。映画「悪人」のシナリオハンティングで、福岡、佐賀、長崎を駆けずり回っていた。疲れ果ててたどり着いたフードコートには、軽自動車で乗り付けたジャージ姿の家族や、営業中らしきスーツ姿の男、美貌の女性を高級車の助手席に乗せていた老人などが皆、プラスチックの器に入ったそばやうどんを啜っていた。ほとんど肉が入っていない親子丼を私がかき込んでいると、吉田修一があたりをぐるっと見回して呟いた。
 日本という国をひとつの場所にまとめると、こういうことかもしれないね。
 数年後、休暇を取ってひとりでハワイの離島にいた。ビーチに据えられたデッキチェアに寝転びながら、出版されたばかりの『愛に乱暴』を読んだ。すぐに後悔した。浮気をする夫と、話のわからない義母との生活に苦しむ主婦の日常。そこに挟み込まれる不気味な日記。ハワイで読むには、まるで相応しくない小説だった。
 けれども、ビーチで奏でられるハワイアンミュージックに、作中のチェーンソーの音が重なった時、拍動が早まり体が震えた。呑気な「アロハオエ」のメロディを聴きながらページを繰っていくと、吉田修一が描こうとしている世界を目の当たりにしたような気がしたのだ。
 まるで関係ないようなものが、実はどこかで関係している。出会うはずのないふたりが、急に接近する。分かり合えないであろうものたちが、気持ちをつなげる。愛、そして乱暴。全く異なるふたつの言葉が、結ばれ同化する。
 吉田修一は二十年間ずっと、はるか遠くの、まるで別世界のものが関係する瞬間を信じて待っている。あのフードコートで蕎麦を啜っていた時と変わらぬ視線が、次に何を捉えるのか、私は隣で目をこらす。

(かわむら・げんき 映画プロデューサー・小説家)
波 2019年9月号より

泣いてくれて、よかった

宮崎香蓮

 吉田修一さんは長崎出身で、そのせいか映画になった『横道世之介』の主人公・世之介も長崎から大学へ入るために上京してくる。私も長崎(吉田さんは長崎市、私は島原市)なので、世之介には何だか親近感を持って大いに肩入れしてしまった。読者の身勝手と言えば身勝手なのだけれど、そういうのって人情みたいなもので仕方がない。地方出身者ならみんな覚えのあることじゃないかな、と思う。
 私が生まれる前には亡くなっていたが、祖父は宮崎康平といってモノを書く人だったから、家には古い本が沢山あったし、母が熱心な本読みだしで、私も自然と本を手に取るようになった。ふらっと目についた書店に入り、文庫本を買い漁り、バッグにはいつも一冊は入れている。母は上京してくると、飛行機で読んだ本を私に貸してくれ(荷物になるから娘が本好きなのを幸いに置いて帰る、と言うべきかも)、おかげでいろんな作家を知ることができた。GWに私の様子を見に来て、村上春樹さんの『多崎つくる』を東京に置いていってくれたところだ。私はお風呂でゆっくり読書をする癖があって、繰り返し読む愛着のある本ほど湿って(たまには湯槽に落として)ぺこぺこになってしまうのが残念なのだが、これも本好きなら多くの人が経験することだろうと思う。
 で、吉田さんの新しい長篇小説『愛に乱暴』だ。真ん中あたりで、「え、あああ!」とゲラの束を湯槽に落しそうになった。ネタばれになるので詳しく触れてはいけないだろうが、吉田さんにうまいこと騙されていたのだ。吃驚。愕然。衝撃。作者が読者にバンッとボールを激しく投げつけて逃げ、読者はあたふた驚いて満足する、みたいなタイプのミステリー小説があって、そういうのも好きだけれども、『愛に乱暴』はそこではまだ終わらない。大きな〈騙し〉が作者によって明かされた後、小説の後半は人間の魂の奥へと入っていく。これは読むのをやめられない。食いしんぼう丸わかりの比喩で恥ずかしいのだが、おいしいラーメンを食べている途中にラー油とか酢とかを入れて、ひと皿なのに味が変わって、深まって、二度愉しい、お得、みたいな感覚。
 これも本好きならありがちのことか、私は好きな本の登場人物には会ってみたくなる。世之介に会いたいし、他の作家の方の作品だと、『神様のボート』の母娘や『死神の精度』の死神など、彼らにぜひ会いたいと思いながら読んできた。『愛に乱暴』の主人公の初瀬桃子さんにも会ってみたくなったけど、このひとは裏表もあって、なかなか手ごわそうな感じの女性。実際、小説を読む限りでは友達が少なそうでもある。
 もっとも最初の方から、私は桃子に味方して読んでいった。吉田さんが巧みに桃子包囲網を張り巡らせているので、突飛な行動を取ったり意味の分からない自信を持ったりする彼女を、それでも応援せざるをえなくなるのだ。私は結婚も不倫も妊娠もしたことがないけれど、彼女の孤独がひりひりと伝わってくる。夫の真守は他の若い女性に走り、優しい舅は病に倒れ、姑はあくまで真守の味方しかせず、以前勤めていた職場に行くとたまらなく嫌なことを聞かされ、しかもどうやら真守の不倫相手は身ごもったらしい。だんだん桃子は追い詰められていき、彼女に感情移入して読んでいる私たちはどんどん胸苦しくなっていく。近所の奥さんの噂話を同情半分野次馬気分半分で聞いている感じだったのが、後半ではもう桃子の肩を抱いて話を聞いてあげている気分になってきて、最後の方で気の強い彼女がついに泣き始めた時には、ああ泣いてくれてよかった、と心底思った。そして、読者も一緒に、潜水で長く泳いでいたプールからやっと浮かび上がって、大きな、気持のいい深呼吸をする感じのラストがやってくる。屈折し逃避していた桃子に変化が訪れて、光り輝いてくる。吉田さん、まったく女性の心理を追いかけていくのが上手いなあ。真に迫っていて、女性作家の方が書いたと言われても何の不思議もない。
 もうひとつ。冒頭思わせぶりに登場してから、しばらく出てこない李青年。あれ、彼は忘れられたのかなと思う頃、この人物が桃子の人生にさっと絡んでくる。この扱いの見事さ! 彼の言葉には桃子も、私たちも洗い流される。今まで読んできた中で最強の言葉のひとつ。
『愛に乱暴』というタイトルや、冒頭から現われる不倫あるいは夫婦関係の危機といった題材から、もっとドロドロした激情系の内容を想像していたのだけれど、これはとても美しい、主人公も読者も浄化される小説だった。きっと、母に貸してあげたら、大喜びするだろう。

(みやざき・かれん 女優)
波 2013年6月号より
単行本刊行時掲載

インタビュー/対談/エッセイ

吉田修一、(新潮文庫の)自作を語る 後篇

吉田修一

純文学とエンタメの境を呑み込むような作品群――。作家が〈犯罪〉に惹かれる理由とは?

聞き手/「」編集部

前篇はこちらから

さよなら渓谷』(2008年)
緑豊かな桂川渓谷で起こった幼児殺害事件。実母の立花里美が容疑者に浮かぶや、全国の好奇の視線は人気ない市営住宅に注がれた。そんな中、現場取材を続ける週刊誌記者の渡辺は、里美の隣家に妻と暮らす尾崎俊介が、ある重大事件に関与した事実をつかむ。呪わしい過去が結んだ男女の罪と償いを通して、極限の愛を問う渾身の長編。

――この長篇小説もやはり土地がまずあって……。

吉田 奥多摩ですね。

――同時に、吉田さんの作品歴でこのあたりからいわゆる犯罪小説のカラーが濃厚になってきます。

吉田 これは『悪人』の直後の作品ですよね。『悪人』も『さよなら渓谷』も発想の源には実際の事件があります。『さよなら渓谷』は「週刊新潮」の連載でしたが、記者の佐々木さんが見せてくれた、ある事件の犯人(女性)が逮捕前、メディアスクラムに遭っている写真が強く印象に残ったんです。取材陣はコワモテでガタイのいい男性ばかりで、彼らが彼女をぐるりと囲んでいるのを、ちょっと引いた位置から写した一枚でした。この女性がよっぽど腹が据わっていたとしても、やっぱりこの状況は怖いだろうなと思った。女性が感じるであろう、そんな肉体的な恐怖を書きたかった、というのがまずあった気がします。

――前号で〈人間のなまっぽい感じ〉という話がありました。『さよなら渓谷』は酷い犯罪をおかした男と、その被害者だった女の物語です。これも恋愛小説といえば恋愛小説ですが、この時期から、より犯罪のウエイトが重くなっていくのは、生の人間を出しやすいから、なのでしょうか?

吉田 犯罪をおかす時の人間がいちばん魅力があるから、と言ったら変ですかね。言い換えると、その人間が犯罪をおかす時をいちばん見てみたいんですよ。今度の『湖の女たち』もいろんな罪をおかす人たちが出てきますが、なんで僕がこんなに犯罪者に惹かれるのか、ちょっとわかんないです。犯罪自体ではなくて、そこに漂う空気に、懐かしいとも居心地がいいとも違うけど、惹かれるんですよ。

――正確には、犯罪よりも、犯罪によって歪んでしまう人間関係に突っ込んでいかれます。

吉田 『さよなら渓谷』は男女間でしたが、男同士だって、本気と冗談の間で、ふざけて揉み合っているうちに、本当に殺し合いみたいになる瞬間ってありますよね。境目を越えてしまって、関係や感情ががらりと変わる。あの変り目みたいなものを書きたいのかもしれません。
 今になって思い返してみると、さっきの(前号参照)「十年大丈夫」じゃないけど、まず『悪人』をチャレンジとして書いてみて、続けて『さよなら渓谷』が書けた時は、「あ、大丈夫だ、こういうタイプのものを書いていけるな」という自信がつきました。

――「こういうタイプ」というのは?

吉田 もちろん自分が書いているものだから、まったく関係なくはないんだろうけど、ほぼ自分とは関係のない小説。〈他人の物語〉を自分が引き受けられる、ということですかね。まだ『悪人』は、場所にしろ人物にしろ、自分に近いものがあるんですよ。でも『さよなら渓谷』は、二三回温泉に行ったことがあるだけの土地だし、こういう関係ももちろん経験がない。だけど、これを書けたことで、新聞や雑誌で気になった事件を小説にしていくことができるんだ、と思えたんです。

――『さよなら渓谷』も映画化されて、モスクワ国際映画祭で審査員特別賞を受賞しましたね。

吉田 この映画の時は「ひとりで見ます」とか言わなかったでしょ?(笑) このへんで、セルフプロデュースなんかいくらやってもしょうがないんだ、もうこのまんまでいいやと思えるようになった気がします。いや、もちろんまだ頑張って多少はカッコつけてますけど(笑)。

――『悪人』、『さよなら渓谷』、『横道世之介』(2009年)と続いて、もう決まったって感じですよね。吉田さんは1968年生まれだから、当時まだ四十歳前後でした。すごい作品歴。

キャンセルされた街の案内』(2009年)
新人社員くんの何気ない仕草が不思議に気になる、先輩女子今井さんの心の揺れ動き(「日々の春」)。同棲女性に軽んじられながら、連れ子の守りを惰性で続ける工員青年に降った小さな出来事(「乳歯」)。故郷・長崎から転がり込んだ無職の兄が弟の心に蘇らせる、うち捨てられた離島の光景(表題作)など――、流れては消える人生の一瞬を鮮やかに切りとった、10の忘れられない物語。

――これは1998年から2008年までに発表された短篇を集めたものです。『最後の息子』(1999年)や『熱帯魚』(2001年)が芥川賞候補作を集めた中篇集としたら、吉田さんの初めての純然たる短篇集です。

吉田 ほんと、こういう〈いわゆる短篇集〉は初めてだったので、出来た時は嬉しかったんですけど、今度読み直して……どうでした?

――表題作は、芥川賞受賞前のいかにも意欲的な若い作家が書いた短篇ですね。東京で小説を書く青年がいて、元カノの家にずっと出入りしている。そこへ長崎から兄が家出みたいに上京してきて、回想の中で軍艦島が出て来て……のちの吉田作品のエスキスみたいなところが沢山あって面白い。あるいはチョコレートの広告のために書かれた「24Pieces」。これはアートディレクターが「完成されすぎてる」という世にも珍しい不平を言った(笑)。女性誌に書かれたものもあるし、書いた年齢もずいぶん違いがあるし、ヴァラエティがあって飽きさせません。

吉田 実際の完成度は別として、「新潮」に発表した「奴ら」や「乳歯」「灯台」なんかは、文芸誌に載る〈いい短篇〉ってやつを書きたかったんだと思うんです。それと、広告のために短い小説を書くのも多い時期でした。「いろんな小説を書きますね」と言われるし、実際、媒体や依頼によって書きわけているはずなんだけど、纏めて読み返すと、あまり違いがないなあと思って。

――そんなことはない(笑)。作家の技の多彩さが読みどころだと思います。でも、最近あまり短篇を書かれないのは、そういう意識があるからですか?

吉田 そう言えば、ずっと長篇を書いていますよね。まあ、そういう時期なのかな。「東京湾景・立夏」が久しぶりの短篇ですよ。

――「24Pieces」や「台風一過」みたいに短い枚数でパシッと決める短篇もあれば、「乳歯」や「キャンセルされた街の案内」なんて、映画の撮影や小説内小説を入れて、「やってる、やってる」という感じの仕掛けがある小説もあって、愉しい短篇集ですよ。

吉田 あ、わかった、それです。たぶん今は、さっき言った小説の構成とか仕掛けを考えるのが面白くて、それを効果的に使うためには短篇より長篇の方がいいんですよ。単純に語り手を変えていくのにしたって、短篇よりも『湖の女たち』みたいに長篇で書いていく方が、もっと効果的だし、冒険もできるじゃないですか。今はそっちの方に興味があるのかもしれない。

――「これは短篇向き」とか、小説のためのメモ帖なんてあるんですか?

吉田 アイデアというほどでもなくて、こういうものを書けたらいいなぐらいのノートはあります。何かを見たり聞いたりしても、小説のためにちょっとメモしておこうみたいにはしないですね。小説のためには生活していないというか。どこかへ遊びで行く時も、取材の意識は全くありません。替りじゃないけど、日記は高校生の頃からずっとつけています。日に三行ずつくらい(笑)。

『愛に乱暴』(2013年)
初瀬桃子は結婚八年目の子供のいない主婦。夫・真守の両親が住む母屋の離れで暮らし、週に一度、手作り石鹸教室の講師をしている。そんな折、義父の宗一郎が脳梗塞で倒れた。うろたえる義母・照子の手伝いに忙しくなった桃子に、一本の無言電話がかかる。受話器の向こうで微かに響く声、あれは夫では? 平穏だった桃子の日常は揺らぎ始め、日々綴られる日記にも浮気相手の影がしのびよる。

――これはいくつかの地方紙に連載された長篇小説。舞台は現代の東京です。

吉田 小説の中には明記していませんが、イメージとしてはかつて住んだことのある南荻窪あたりです。杉並区の高級住宅街なんですけど、僕には不便な土地でした。荻窪駅から歩いて二十五分かかるんです。その頃のことですが、駅近く、環八のあたりにコンビニが一軒あって、そこからの二十分はコンビニがない。二十三区で徒歩二十分圏内にコンビニがない街って珍しいと思うんですよ。それに、まだ若く、昼から自宅にずっといる僕は周囲から不審な目で見られていました。そんな住宅街をこの舞台となる土地のモデルとして選んだわけです。
 実はこれ、新潮社の裕子さんって編集者から聞いたヘンな夢の話がもとになっています。

――夢の中で日記を読んでいると……みたいな話でしたね。

吉田 そうそう。あの話が発想のスタートだったから、最初は「裕子の夢」って仮タイトルでした。

――『さよなら渓谷』は『悪人』より作者と登場人物の距離が離れている気がしていたので、さきほどの〈他人の物語〉という言葉は腑に落ちたのですが、『愛に乱暴』はまた違った距離感ですね。

吉田 『愛に乱暴』の作者と登場人物の距離感は、『さよなら渓谷』でも『悪人』でもなく、この後の『犯罪小説集』(2016年)に近いかもしれません。僕は主人公の桃子に何ひとつ共感していないんですよ。彼女が次に何をするのかもわからない。言ってみたら、彼女のすぐ後ろで透明人間になって見ている、という感覚で書いていました。自分が物語を作っていくというより、桃子さんが思いもよらないことをするので、それを驚きながら書きとめていく。

――桃子に共感も同情もしてない?

吉田 全然してない。ただ彼女のすぐ後ろに立って、「何この夫婦!」「何この姑!」「え、そんなことするの?」って呆れている感じ。

――そう言えば、まさか桃子がチェーンソーを買うとは思わなかった、って刊行の時に仰ってましたね。

吉田 小説に出てくる店は、僕のイメージの中ではなぜか烏山の西友なんですね。自転車がはみ出すくらい沢山停めてある中を、桃子さんが入って行く。僕は、彼女は当然そのまま一階の奥へ行くと思っていたら、二階への階段をのぼっていった。あそこの二階はホームセンターになってるんですよ。で、「えーっ」と思いながらキーボードを打つ。

――何ですか、それ(笑)。

吉田 変でしょう? でも、本当にそういうふうになっちゃったんです。今後どうすればいいんだ、作家として(笑)。

――それはパソコンの前に座っている時に起きている出来事ですか?

吉田 書きながらの時もあるし、夜眠る前にベッドでぼんやり考えながら、「ああ、二階へ行った、行っちゃった」みたいになる時もあるし。夢の中でその小説の内部へ入っている、みたいな感じなのかな。なんか、このへんから僕の小説の書き方は少しおかしくなってきましたね。

――時代小説の北原亞以子さんが似たことを仰ってました。『慶次郎縁側日記』というシリーズ物で、何人もの登場人物が出て来ますが、「彼らが勝手に動いていくのをただ私は記録しているんです。へえー、この人物がこうなったかって、書きながら驚いていますよ」。

吉田 あ、近いです。

――池波正太郎さんも、同じ主旨のことをエッセイに書かれてますね。ある作中人物がここで死ぬことを私は知らなかった、みたいに。すると、吉田さんは桃子がチェーンソーを買うなんてことは決めてなかったんですね。

吉田 もちろん、ストーリーはほぼほぼ考えていません(キッパリ)。

――先日最終回を迎えた『湖の女たち』の「週刊新潮」連載を脇から見ていると、そのお言葉は嘘ではないように思えます(笑)。

吉田 土地、人物の設定、語りの仕掛けみたいなのはある程度考えますが、ストーリーの方は書きながら考えていきます。その上、物語の中へ自分もポーンと入っちゃった方が楽になってきたんですよね。『愛に乱暴』から、そのやり方がわかり始めてきた気がします。
 長篇小説を連載するのって、一年なり一年半なりの間、生活しながらずっと桃子さんなら桃子さんが隣にいるわけですよ。経験はありませんが、会社へ毎日通勤するみたいなものですかね。違う?(笑) 寝ていたいのに、本を読みたいのに、映画観たいのに、でもそんなこと言っていられないから、会社へ行くわけですよね。そんな心境で、毎日毎日、桃子さんに会うわけです。

――別に共感もしてないヒロインに(笑)。『国宝』でもそうでしたか?

吉田 あれも朝日新聞に連載していた一年半、あの物語の中へどっぷり浸かっていました。何度も見たのは、舞台裏でパッと歌舞伎の台本を渡されて、全然覚えられないのに時間がきて、舞台へ出なきゃいけない、という夢(笑)。寝ても覚めても『国宝』の世界にいました。あれも視点が動いていく小説ですが、その都度その都度の視点人物の中へ入っていましたね。そこで彼が体験することを書き留めていく。今の僕はそんな書き方になっています。
 振り返ってみると、以前は小説の世界をもっとコントロールできていたと思うんですよ。台湾が舞台の長篇小説『路(ルウ)』(2012年)の時だって、自分はちゃんと物語の外にいました。『愛に乱暴』からは、自分がもう存在していない感じ。流れの中へ飛び込んで、そこで夢のように過ごして、やがて小説ができる――そんなふうに言ってしまうと、書くのが楽みたいに聞こえて損ですかね(笑)。

――それは書く快感とか無我の境地とか、そういう話ではない?

吉田 ちょっと違うような気がします。でも、そういう書き方じゃないと、『愛に乱暴』や『国宝』や『湖の女たち』みたいな小説は書けなかった、という確信はあるんですよ。


(よしだ・しゅういち)
波 2019年10月号より

二十年を振り返る

吉田修一

東京湾景』『パレード』『パーク・ライフ』から、わたしたちの21世紀は始まった。柔らかくて、寂しくて、熱い彼の小説ができるまで、そしてこれから――。

 原田宗典氏に『十九、二十』という羨ましくなるほど秀逸なタイトルの小説がある。タイトルもさることながら、もちろん内容も見事な青春小説で、あと数週間で二十歳になる青年がエロ本専門の出版社でバイトしながら過ごす十代最後の夏物語だ。
 この名著の文庫版に、これまた見事な解説を川村湊氏が寄せられている。“二十歳に関する名言はいくつもある。”という書き出しで始まるその中に、“人間が何ごとかを成し遂げるための条件”として、とある人の言葉が引用されている。
 その条件とは、若いこと、貧しいこと、そして無名であることだという。
 読者は、主人公とともに十代最後の(ある意味で無益な)夏を過ごした直後に、この言葉にぶち当たるのだ。
 まだ作家になる以前、まさに十九、二十の気分で読んだ川村氏のこの解説は、未だに小説の余韻とともにはっきりと心に残っている。
 自著の話をすれば、すでに三十冊ほど文庫は出ている中、解説が付いているものはたったの七冊しかない。どうしても書いてほしい作品に、どうしても書いてほしい方にお願いした結果である。素晴らしい文庫解説を知っているだけに流れ作業的にはお願いしたくなかった。
 初めて書いていただいたのは、『パレード』(2004)の川上弘美さんだ。未だにその文章を空で言えるほど繰り返し読んだ。『東京湾景』(2006)では、文芸評論家の陣野俊史さんに“熱い”解説をお願いした。出来上がったのは一編の掌編小説のような作品だった。実はこのとき、「ぜひ『十九、二十』の川村湊さんのような解説をお願いします!」とねだった記憶がある。
 幸運にもその川村湊さんに解説を書いていただけたのが、次の『長崎乱楽坂』(2006)だ。実は作家デビューして間もないころ、「破片」(1997)という二作目の短編小説が「文學界」に掲載されたのだが、この作品を川村さんが毎日新聞で書評してくれたことがあった。
 当時、自身の名前が新聞に載ることがとてつもなく嬉しく、かつ書かれていることにちょっと反論もあったりして、不躾かつ若気の至りでなんと川村さん本人にお手紙を送ってしまった。
 実際の解説を読んでほしいので内容は伏せるが、『長崎乱楽坂』の解説で川村さんはまずこの手紙のことに触れられ、文壇の先輩としてとてもあたたかく優しい言葉で、新人作家の若気の至りをたしなめてくれている。
 続く『7月24日通り』(2007)と『女たちは二度遊ぶ』(2009)は、それぞれ瀧井朝世さん、田中敏恵さんという稀代のライターお二人に書いていただいた。
 ここ数年は小説の書評や解説といえば「瀧井朝世」という人気者だが、初めて彼女に解説を書いてもらったのは、この僕である。と言うと、作家になる前からの知り合いで、現在も飲み友達である彼女からは、「恩着せがましいねー」と笑われるのだが、一つの才能を世に紹介できたことが嬉しくてたまらないのだから仕方ない。
 もう一人の田中敏恵さんとの付き合いも続いている。付き合いどころか、現在の「吉田修一」という作家を陰でプランニングしているのはこの方ではないかと思うほどの関係で、とにかく魅力的な世界を教えてくれる。
 たとえば、今年パークハイアット東京が開業二十五周年を迎えるのだが、この記念行事として書き下ろしの小説を書いた。この企画を進めてくれたのも田中さんだ。(『アンジュと頭獅王』小学館刊、九月末発売予定)
さよなら渓谷』(2010)では、柳町光男さんに解説を書いていただいた。言わずと知れた映画界の巨匠で、「十九歳の地図」や「火まつり」など、どれほど影響を受けたか分からないし、暴走族のブラックエンペラーを追ったドキュメント映画「ゴッド・スピード・ユー!」では、ある少年が年長の少年に殴られるシーンがあるのだが、映画ではなくまるで自分の記憶として残っているほどだ。
 そして今秋に「楽園」というタイトルで映画化される『犯罪小説集』(2018)では、この映画を監督された瀬々敬久さんに書いていただいている。中で瀬々監督はこの短編小説集を中上健次の『千年の愉楽』に重ねて書いて下さり、大変面映くはあるものの、小説が映画へ生まれ変わっていくダイナミックな流れが見えるような、とても素晴らしい解説になっている。
 今回、デビュー二十周年を記念して新潮文庫の全六作『東京湾景』『長崎乱楽坂』『7月24日通り』『さよなら渓谷』『キャンセルされた街の案内』(2012)『愛に乱暴』(2017)の装丁を新しくしてもらえることになった。
 新装丁版『東京湾景』では、従来の陣野俊史版に加え、新たに朝井リョウ氏が解説を寄せてくれる。一度対談させてもらったことがあるが、とても作家っぽい人だった。当代の人気者ながら決して見られる人にはならず、見る側の人であろうとしている。
 その上、今号の「波」の特集では、大森立嗣氏と川村元気氏、そして南沙良さんが、『さよなら渓谷』『愛に乱暴』『7月24日通り』と、それぞれの作品について書いて下さっている。
 出版社の方の話によれば、南沙良さんはすでに映画やテレビ、CMなどで大注目されている女優さんで、十代にして大変な読み巧者と聞く。彼女が初恋に揺れる女性の物語をどのように読んでくれるのか楽しみでならない。
 大森さんは『さよなら渓谷』を映画化してくれた。小説で描こうとした人間の不可解で美しい感情をとても繊細な映像で表現してくれた。
 あくまでも個人的な印象だが、大森さんというのはその存在自体がドクドクと脈打っているような印象がある。そばにいると、その脈の音がはっきりと聞こえてくる。撮影現場はもちろん、普通に飲んでいても聞こえる。きっと彼自身にはこの音が聞こえていないのだろうと思う。この熱が彼に映画を撮らせていることを、きっと彼自身は知らないんだろうなと。
 一方、川村元気氏との付き合いも長い。もちろん映画プロデューサーとしては十年に一人、三十年に一人の逸材だろうし、今や押しも押されもせぬ時代の寵児で、(本人の希望とは別に)錬金術師のような扱いを世間から受けているようだが、こうやって長く付き合わせてもらっていると、実は彼にもちゃんと人としてダメな部分があって、近年の彼が小説を書かざるを得ないのは、きっとこの自分のダメな部分だけはどうしても錬金できないからではないかと勝手に推測している。だからこそ、いつの日か生まれてくるだろう彼の彼による彼のためだけの小説が心から楽しみで仕方ない。
 紙面が尽きた。デビュー二十周年を振り返るという趣旨のエッセイを頼まれていたのだが、気がつけば自身のことはもちろん、身近な人たちのこれから二十年のことが楽しみで仕方なくなってきてしまった。きっといろんな人のおかげで充実した二十年を送ってこられたからだろうと思う。

(よしだ・しゅういち)
波 2019年9月号より

必然性とか衝動みたいなものは

吉田修一

『愛に乱暴』は何小説と呼べばいいのでしょうね。初瀬桃子という主婦が夫に不倫をされる、という設定の長篇小説なんですが、恋愛小説とか、そんな言葉があるのかどうかわかりませんが夫婦小説とか呼んでみても、間違いではないけれど、かなり違う味わいもあるし、内容もはみ出している。ミステリーの要素も大きいのですが、ミステリー小説とも呼びにくい気がする。そんなジャンル不明の小説になりました。
 主人公の桃子が、書き手の目から、中々わかりづらい人だったということも原因のひとつかもしれません。今までの小説だと、登場人物の背中のすぐうしろに立っている、ような感じで書いてきたんです。人物の匂いが嗅げ、思考が読み取れるくらいまで接近して書いていた。でも桃子に関しては、二メートルくらい離れて書いたように思えます。
 これは僕が桃子に興味や好意を持たなかったせいではなくて、作者が言うのもアレですけど、彼女はすごく気になる女性なのに、うまく理解しきれなかったからです。この小説を書き始めてすぐに、(あれ、彼女のことを理解できない)と気づいた。ということは、心情を書くと嘘になるわけだから、彼女の行動だけを追っていこう、と決めたんです。だから、例えばチェーンソーを買う場面でも、「何か気になって」というような心理を書かずに、ただ買う、という具合にしていった。おかげで、なぜ彼女がそんなものを買うのか、作者も深くわかっていないのだから、けっこう怖さが出た。「あ、このひと、チェーンソーを持って帰って、まず畳を切るんだな。怖いな」と桃子を追いかけながら、その場その場で作者も知っていく、そんな不思議な書き方になりました。もちろん、なぜ畳を切って、その次にはなぜあんなこと・・・・・をするのかという漠然たる理由は作者も持っているんですよ。でも、何と言うのか、必然性とか衝動みたいなものは作者ではなく、登場人物のそれを使ったのかもしれません。
 一方で、桃子の旦那である真守のことはわかるんです。彼の性格や思考は想像できるから、かえって僕にはそれほど魅力がないし、あまり書くことをしなかった。桃子で一番わからなかったのは、なぜこの程度の男を結婚相手に選んだのか(笑)。
 だから、やはり恋愛や夫婦関係がテーマではないんでしょうね。いろんな方向から、〈桃子の居場所〉あるいは〈居場所のなさ〉を書きたかったのだと思います。小説を書きながら桃子と長く付き合ううちにわかってきたのは、彼女は「全てには理由がある」と思ってしまう人なんですね。ここにいる理由、結婚する理由、家を出る理由……「理由なんてないんだ」と思えた方がもっと気軽に先へ進めるかもしれないのに。もうひとつ、地方出身で、仕事をやめ、子供もおらず、夫に不倫された専業主婦として、きちんとした〈肩書〉がなくなったことが彼女を不安定にさせたのかなとも思います。母でも妻でも娘でもない彼女には居場所がなくなってしまう。
 桃子が住んでいるのは具体的に存在する街ではなくて、僕が昔住んでいた南荻窪と千歳烏山を足したようなイメージです。この小説の中で、自分に近い人物がいるとしたら、桃子の家近くの安アパートに住む李くんですね。彼は「ゴミの分別ができてない」と疑われるけれど、僕も絶対に疑われてたと思うんですよ(笑)。生活の時間帯やリズムが違うせいで、地域にあからさまに嫌がられていたんじゃないかと。当時は、こっちを嫌がっている人たちを、なんで自分たちが絶対的に正しいと思えるのか単純に不思議に思ってましたね(笑)。夜も早くから真っ暗な住宅街の中で僕の部屋だけが煌々と電気がついて友達が出入りしたりするのですから、「ヘンな人が住み始めて迷惑」と嫌がられて当然なんですけどね。
 でも、こっちも歳を重ねてくると、当り前なんだけれど、嫌がる側の人たち、つまり一般的な方に寄っていて、寄ってみれば、そっちはそっちで決して悪い人たちではないし、実はさほど自信を持って暮らしているわけでもないとわかってくる。スカッと割り切れないそんな人たちが、どこの街にも大勢住んでいる。ごく普通のことです。でも、そんな街には居場所がないとふいに気づかされた女性がいたらどうなるのだろう、どんな行動を取るだろう――そんな桃子の戦いがどんな結末を迎えるか、『愛に乱暴』を読んでもらえたらと思います。

(よしだ・しゅういち 作家)
波 2013年6月号より
単行本刊行時掲載

著者プロフィール

吉田修一

ヨシダ・シュウイチ

長崎県生れ。法政大学卒業。1997(平成9)年「最後の息子」で文學界新人賞。2002年『パレード』で山本周五郎賞、同年発表の「パーク・ライフ」で芥川賞、2007年『悪人』で大佛次郎賞、毎日出版文化賞を、2010年『横道世之介』で柴田錬三郎賞、2019年『国宝』で芸術選奨文部科学大臣賞、中央公論文芸賞を受賞。ほかに『長崎乱楽坂』『橋を渡る』『犯罪小説集』『逃亡小説集』など著書多数。2016年より芥川賞選考委員を務める。映像化された作品も多く、『東京湾景』『女たちは二度遊ぶ』『7月24日通り』『悪人』『横道世之介』『さよなら渓谷』『怒り』『楽園』『路』『太陽は動かない』に続いて『湖の女たち』が映画化される。

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判型違い(単行本)

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